5

 無言でがばりと掛け布団を剥がされ、びっくりして目が覚めた。

 何事かと思えば、着物の上に割烹着を身につけた、細い枯れ枝のような身体つきのお婆さんが、掛け布団を抱えてこちらを見下ろしている。

「朝ごはん、食べに行っといで」

 それだけ言うと、その姿に似合わない機敏な動きで、さっさと出て行ってしまった。

 ああ。朝か……

 お婆さんが開けっ放しにしていった襖の向こうから、明るい日が差している。ひんやりとした山の空気がふわりと部屋に入り込んできた。どうやらまだ早朝のようである。

「……マエダ、サエさん」

 夢で見た彼女の名前を、口に出して言ってみた。

 そうだ。それがあのストラップの持ち主の名前だった。

 夢を見たせいだろう、彼女にまつわる記憶がいくらか戻ってきていた。

 彼女と初めて出会った日の翌週、小枝さんは本当に、同じ時刻にあの歩道で僕を待ってくれていた。綺麗にラッピングされた手作りのお菓子を大事そうに抱えて、先日とは打って変わった笑顔で、この間はありがとうと渡してくれたのだった。僕はすっかり恐縮して、何もやってないのに、とか何とか言いながらも結局はそれを受け取り、少しのあいだ世間話をして別れたのだった。

 そうだ。それから、だ。その日から毎週のように、小枝さんは僕がくるのをあの道で待ち続けてくれるようになったんだ。

 最初は、どうしてこんなによくしてくれるんだろうと不思議だったし、悪いけど少しばかり気味が悪いような気もした。ただ一度だけ、具合の悪そうな彼女にちょっと声を掛けただけの間柄なのに、明らかに不自然だとも思った。

 けれども、そうやって週に一度僕を待ち、美味しいお菓子をくれること以上のことを彼女はするつもりもなさそうだった。こちらの個人情報的な事柄にはまったく興味もなさそうだったし、会話をするにしても、学校はどう?お友達とは仲良くしてる?とか、ごく当たり障りのないような話を毎度のように訊ねる程度だった。何かよからぬ目的があって近づいてきているような、悪意のようなものは何も感じられなかった。

 ……それに、それ以前の話として。

 本当のことを言えば、最初に会ったときから、僕は心のどこかで小枝さんに絶対的な好意を持っていた、のだと思う。

 彼女は美人で、その雰囲気によく似合った端正な服を着て、とても落ち着いた優しい話し方をした。明らかに若者と呼ばれる世代の人ではなかったが、だからといって「おばさん」という印象は微塵も持たなかった。普段は大人らしく見えても、笑顔になるとパッと子供のような可愛らしさを見せたりする、そんなアンバランスで不思議な魅力を持った人だった。そんな彼女にお勉強がんばってね、とか、何かあったらいつでも相談してね、なんて言われると、なんだかくすぐったいような、でも、自分をそんな風に思ってくれるのが嬉しくてたまらないような気分になった。だから、最初は申し訳ないのでこんな風にしてくださらなくていいです、なんて言っていたのに、いつの間にか、彼女と会えるのを心待ちにするようになっていた。

 あの黄色いストラップを見たのは、そうやって会うようになってしばらく経ったころだった。

 あの日、彼女は歩道に立ち、手元の携帯電話にじっと見入っていた。僕が通りかかると顔を上げ、ニコリと笑った。

 いつもの調子で、これ新しく作ってみたんだけど、と紙袋を手渡される。

「美味しいかどうか分からないけど、よかったら食べてみてね」

 袋を開けると、バターのいい香りがふわりと漂った。覗き込んでみると、おいしそうな焼き菓子がたくさん入っている。

「いつもすみません」

 そう言うと、ううん、と小枝さんは言った。

「お菓子を作るのは好きなのだけど、主人は甘いものが嫌いだから、食べてくれる人がいると私も嬉しいの。だから遠慮しないでね」

「あ……。そう、なんですね」

 ……だよな。

 旦那さん、いるんだよな。

 左手の薬指に指輪をしているのは前から知っていたから、きっと結婚しているんだろうなとは思っていたが、こうやって彼女の口から直接宣告されてしまうと、何となく振られてしまったようなやるせない気持ちと、じゃあなんでこんなに優しくしてくれるんだ、って怒りたくなるような気持ちとで、咄嗟に頭の中がごちゃごちゃになった。

 そんな風に思うのも、おかしな話なのだろうけど。だって小枝さんからしてみれば、こっちはただの子供なんだから。

 ああ、だめだだめだ。こんなところで気落ちした顔なんて見せたりしたら最悪じゃないか。何とかテンション上げないと。頭の中を悟られまいと必死に次の言葉を探したが、どうにも言葉に詰まってしまい、ふと彼女の手元を見ると、あのストラップが目に入ったのだった。

 あの古ぼけたストラップを見つめ、とても大事なもの、と言ったときの小枝さんの表情が不思議と強く印象に残っていた。

 それは彼女にとって、どれほど大事なものなのだろう。

 旦那さんより、大事なものってことは、ないよなぁ。

 その日の塾の講義中にぼんやりとそんなことを考えていて、先生に当てられた問題を思いっきり間違えたんだっけ。

 布団の上にぐずぐずと寝そべりながらそんなことを思い出していたら、またあの小さなお婆さんがやってきた。

「こらっ。いつまでもグズグズしてんじゃないの!」

 体のサイズに似合わない大音量でそう怒鳴ったかと思うと、今度はついに敷布団から追い出されてしまった。

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