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 自転車を走らせていると、突然、甲高い悲鳴のような声を聞いた。

 振り返ると、歩道に女性が一人蹲っている。

 何かあったのかと周りを見渡したが、小さな子供たちが近くの横断歩道を渡って、道向かいにある大きな公園の木立に消えていくのが見えただけで、普段と何も変わりない様子だった。比較的車の交通量の多い道だったが、歩道を歩く大人の姿は一人も見当たらない。あの時僕は確か……塾に急いでいる途中だった。自転車にまたがったまま、まだ周りをきょろきょろしている。蹲ったままの女性に声を掛けようかどうか迷っているのだ。声を掛けたところでどうすればいいかなんて分からないし、役に立てるとも思えなかった。立ち去ろうかと一旦は足をペダルに乗せてはみたが、やはり放っておくのはよくない、声を掛けるべきだ、と命令する声を振り切ることができなかった。もしかしたら重病人なのかもしれないし、ここで放っておいてもし大事になったら、後味の悪いことにもなりかねない。何もできないにしても、一応、声だけでも掛けたほうがいいだろう。

 意を決して、僕は自転車を降りた。

「あの……大丈夫ですか?」

 女性に恐る恐る近寄ると、少し屈んでその姿を見下ろした。長くまっすぐな黒髪が細い背中を覆っている。白いカーディガンから伸びた細い指が、両耳を固く塞いでいた。顔を伏せて蹲っているため、どんな人なのかまるで分からない。しかしよく見ると、指先が小刻みに震えているのが分かった。

「あの――具合、悪いんですか?」

 彼女の前に近づいて様子を見ようとすると、はぁはぁ、と大きく息をする音が聞こえた。

「救急車、呼びましょうか?」

 その言葉に、女性は強い調子でぶんぶんと首を振った。

「いえ……、だいじょう、ぶ、です」

 力強く首を振った割に、その声はあまりにか弱く、まるで溺れているかのようだった。

 とっさに、僕は女性の背中に手をかけた。ふわりとしたウールの感触が手のひらをくすぐる。一瞬ためらったが、そのまましばらくその細い背中をさすってみた。子供の頃、気持ちの悪い時に母にそうしてもらったことがあって、なんだか安心したことを思い出したのだ。

「ごめん、なさい……もう……平気、だから――」

 荒い息遣いの合間に、ぽつぽつと小さな声でつぶやくように言う。それ以上声を掛けると余計に迷惑かと思って、その状態でしばらく付き添っていたが、そのうちに少しずつ息が整ってきたようで「ご迷惑をかけてすみません、ありがとう」と聞こえた時には、かなり普通の調子で喋れるようになっていた。

 固く耳を塞いでいた手をそっと離すと、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 年は若くない、多分、僕の母よりはすこし下の年代、といったところだろう。まっすぐに伸ばした髪は綺麗に梳かされ、生成りのワンピースの上に羽織ったカーディガンは眩しいくらいに真っ白だった。その印象も手伝って、白いなぁ、と思った。顔が、ではなく、どことなくその佇まいが「白い」感じなのである。

「もう大丈夫だから」

 見ると、目が真っ赤だったので、どきりとした。見ず知らずの大人が泣いているのを間近で見たことなんてこれまでなかったし、何か突拍子もないことに巻き込まれたような不安が心を覆った。

「薬も持っているし」

 そう言いながら、持っていたバッグから小さなポーチを取り出した。ファスナーを空けたとたん、いろんな種類の錠剤が顔を覗かせる。何故か見てはいけないものを見た気がして、慌てて目をそらせた。

「あの、飲み物は」

「ううん、なくても飲めるから」

「いや、僕、今、水筒持ってるんです」

 急いで自転車に引き返すと、水筒を持ってきて、コップにお茶をなみなみとついだ。

「薬には水のほうがいいのかもしれないけど、飲まないよりはいいと思います」

 そう言って差し出すと、その時彼女は初めてまっすぐに僕の顔を見上げた。少しこっちが恥ずかしくなるほどに、息を詰めて、じっと動かずにこちらを見つめている。

「……ありがとう」

 ふと我に帰ったようにそう言うと、彼女はコップを受け取り、薬を飲んだ。

「ごめんなさいね、もう大丈夫」

「そうですか……よかったです」

 段々恥ずかしなってきて、もごもごと小さな声でそう言うと、じゃあ、と言って僕は立ち去りかける。

「あの」

 その時、彼女がこちらに向かって呼びかけた。

「また、ここを通りかかることはある?できればお世話になったお礼をしたいから」

 そんなのいいです、と何度も固辞したが、強く頼まれてしまい、しぶしぶながら答えた。

「ええと……また来週の今頃、ここを通ります……でもほんとに、気にしないでください」

 その言葉に応えるように、彼女はゆっくりと立ち上がった。

「私は前田、小枝といいます。ええと、あなたは」

「佐伯です」

 さえきくん、ね。独り言のように、彼女はそう繰り返した。

「今日はありがとう、佐伯くん」

 じゃあまた来週に、と言って軽くお辞儀をすると、彼女は僕とは反対の方向へと歩きだした。

 しばらく大丈夫だろうかとその後ろ姿を見送っていたが、今はもう足取りもしっかりとしていて、何の問題もないようだった。

 マエダサエさんか。薬を色々持ち歩いていたみたいだし、きっと持病の発作か何かだったのかな。

 そう思いながら時計に目をやると、最初の授業の始まる時刻にさしかかっている。

慌てて自転車に飛び乗ると、僕は先を急いだ。

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