虚無の空

 眠ってから少しも経たない内に、唐突にヒノキは目を覚ました。目を見開き、驚愕の表情を浮かべながら、猛烈な速さで上体を起こす。


「この嫌な感じは、まさか……」


 左隣を見ると、ウタコも目を覚ましていた。静かに天井を、その先にある空を見つめていた。


「……ウタコ、どうした?」


 ヒノキはその表情を隠しながら、ウタコに聞いた。


「…………兄様あにさま、何か上から来てます……」


 ウタコは静かに言ったが、その実、奥歯を鳴らしていた。



 二人が寝巻きから着替えて外に出ると、家の前に尻の辺りから狐の尾を九本生やした麺屋の女将がいた。空を見上げていた。

 女将は二人に気付くと、二人に向き直り、乾いた笑みを浮かべた。


「やあ、早かったね。たぶんわかってるだろうけど、非常事態だ。上を見てごらん」


 二人が女将に言われるまま上を見上げると、


「あれは……!」「何です、あれ……!?」


 漆黒に染まった空が、地面に迫っていた。


「『アレ』……!? どうしてここに!?」


 ヒノキが驚愕と恐怖が混じった表情を浮かべながら言った。


「君はあれをそのまま『アレ』と呼んでいるのか。……あれはね、『ソラナキ』だよ」

「ソラナキ……!?」

「そう、ソラナキ。元々は百鬼夜行を撃退する架空の存在だったんだけど、どこかの妖怪嫌いの誰かがそれ目的で再現したみたいでね。……あれはね、完全な虚無なんだ。黒く見えるのは、頭が無理矢理認識しようとしてそう見えてるだけなんだよ」


 狐の尾をゆらゆらと揺らしながら、女将は淡々と説明した。


「異物とは……?」


 ウタコが恐る恐る聞くと、


「勿論違う。あれはね、妖怪、人間、動物、草木、どれとも違う、完全な『無』なんだ。それがいつしか『有』になろうとし出して、生命が存在する場所の真上に現れては手当たり次第に全てを飲み込もうとするようになったんだ」


 そう言うと女将は煙管とマッチを取り出し、遠火で火を付けて煙を吸い、口をすぼめて息を吐いた。


「対抗策は……何かないんですか!?」


 ヒノキが女将をソラナキを交互に見て言ったが、


「無理だね」


 女将は短く否定し、さらに続ける。


「四百年近くあれの動向を監視してたけど……」


 そこまで言って、女将は二人を見て、


「あれが現れた場所にいて生き残ったのは、君達以外いないだろうねぇ」


 意味ありげに笑って見せた。

 ヒノキは表情を強張らせ、ウタコは首を傾げた。


「……と、兎に角、出来る限り避難勧告をしましょう。ウタコ行くよ」

「は、はい!」


 走り出したヒノキを追おうとして、ウタコは一瞬上空のソラナキを見た。


「――――っ」


 そして一瞬、まるで酷い頭痛にでも襲われたかのような表情になってから、ヒノキを追った。

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