第十二話 決意と逡巡と

 ぶつ、と強い力で何かが捻じ切られるような重い音が響いた瞬間のことだ。

 まさに今、頭上で大鎌を振り抜かんとしていた羽虫が、唐突に視界の外側へ墜ちた。

 ごろりと石床へ転がった羽虫は、胴のあたりで真っ二つに寸断されている。小刻みに痙攣を繰り返すそれらの断面からは、毒々しいワインレッドの体液と、強烈な腐臭が溢れ出していた。

 おぞましい光景の応酬に、ぞくぞくと肌の泡立つ感覚が止まらなくなる。ユダの意識の根っこは、いとも容易く揺らいでいた。

「おっと、危ない」

 ふらついたユダの身体を支えてくれたのはガラハッドであった。

 羽虫を仕留めたのは間違いなく彼だ。あの土壇場で術式を一から編み上げることのできる魔術士など、彼を除いて他にいるはずがないからである。

 ユダの無二の相棒――白魔術士ガラハッドは、魔術の発現には必須となる〝呪文の詠唱〟過程を力を持っている。力の及ぶ範囲は白魔術のみに限られるが、彼の場合は僅かに念じるだけで、瞬時に術式を起動へ持ち込むことが出来るのである。

 これはもはや魔術士にとって、〝反則〟とも言える離れ業に他ならない。強力な術式を行使しようとすればするほど、詠唱の言葉も複雑化・長文化してゆくという魔術の鉄則を、根本から覆す能力であるためだ。

 つまり彼は、他の術士がひとつの魔術を編み上げる間に、たったの一言も発することなく、次々と術式を連発することが出来る。

 そんな奇跡のような力でもって、彼は羽虫の胴を瞬時に撃ち抜いてみせたのだ。

「大丈夫かい、ユダ」

 ユダの後方へ寄り添うように立っていたガラハッドが、頭上へ翳した手を静かに下ろしていた。

「ガラハッド……他のみんなは?」

 ほっと息をついたのも束の間。相棒の仕留めた異形が、自分の最も近い位置を飛んでいた一匹のみにとどまっていたことに気が付いたユダは、大慌てで周囲を見渡していた。

「――あれ?」

 ところが、大広間は異様なほどの静寂に包まれている。鼓膜へこびりつきそうなほどやかましかった異形たちの羽音が、さっぱり聞こえなくなっていたのだ。

 それもそのはずである。大挙して頭上を埋め尽くしていた羽虫の群れは、一匹と残らず忽然と姿を消してしまっていたのだから。

 よくよく見てみれば、相棒が仕留めた異形の死骸も、天窓から降り注いできたガラスの破片でさえも、今しがた目にしてきたはずの全てのものが消えてなくなっている。

 いつの間にか大広間はすっかり、ユダが候補者たちと談笑していた頃の光景を取り戻していたのだった。

「何なの? これって一体、どういうことなの……?」

 白昼夢でも見ていたというのか。あたふたとしながら、ユダは懸命に両目を擦っていた。


「やれやれ――やはり初めはこんなものか」

 するとその時、広間の中央から、覚えのある声が響いてきた。

 ――いつの間に現れたんだ?

 だだっ広いホールに乾いた靴音を響かせ、唖然とする一同の前に歩み寄ってきたのは、レヴィンであった。

「なーんだ、レヴィンの仕業かぁ。じゃあ今まで僕らは、君の作った〝結界〟の中に閉じ込められてたってことなんだね」

 疲労感を露わに言い放ったエスターは、これでもかと言うくらいに不満げな面持ちで、傍らの石柱にだらりと背中を預けていた。

「ど、どういうこと?」

 耳心地のよくない返答を寄越されることは覚悟の上で、ユダはすぐさまエスターに答えを求めた。すると彼は案の定、へらりと嘲るような笑みをこぼし、「仕方のない奴だ」と言わんばかりにひょいと肩をすくめてみせた。

「まだ分からないのかい? 僕らは彼にまんまとはめられたんだよ。今までの出来事はみんな、レヴィンの創り出したニセモノの空間の中で起きてたってことさ」

「ニセモノの、空間?」

 すなわちそれが、先ほど彼の言った〝結界〟とやらにあたるということだろうか。

 ――聞かなきゃ良かったかも。

 魔道にはとことん疎いユダにとって、彼の説明はただただ小難しいばかりで、一向に理解が深まったような気がしない。まるでいかにも、相手に「もっと詳しく話してほしい」と言わせたいかのような口振りが、ほんのり煩わしく感じられた。

「あっぶねえ……今度こそホントに死ぬかと思ったぜ。メリル、突き飛ばしたりして悪かったな。怪我しなかったか?」

 一方、すっかり固まっていた一同から続々と安堵の吐息が漏らされる中、手の中の得物を放り出して後方へ駆け寄ったヴァイスが、未だ石床にへたり込んだままのメリルに手を差し伸べていた。

 大きな身体とぶっきらぼうな口調のせいか、初見ではどことなく厳めしい印象も受けたが、どうやら彼は、見た目よりもずっと心優しい青年のようである。

「ありがとうございます、ヴァイスさん。私にも一応、護身用程度の黒魔術の心得はあるのですが……咄嗟のことで身体が動きませんでした」

「気にすんなよ、俺もたいして変わりゃしねえからな」

 ヴァイスの手を借り、立ち上がったメリルの足取りに危なげな様子はない。

 どうやら怪我は負っていないらしい――胸を撫で下ろしたユダは、傍らで同じように安堵を漏らしたラナと、こっそり笑顔を交わしていた。

「一体、何の真似ですか? もしかして今のが、守護騎士の適性をはかる試験テストだったとでも?」

 一同が落ち着いた頃合いを見計らったかのように、鍔付き帽子の埃を払って被り直したガラハッドが、レヴィンに問うていた。

「いや、そうではない。これはただ、お前たちの〝現状〟を把握しておくための試みだった」

 しかしレヴィンはすぐさま首を左右に振り、きりりと引き締まった目元で、唖然とする一同を順繰りに見回した。

「先ほど現れた異形は、俺が魔術によって生み出した傀儡くぐつだ。実在の異形とほぼ同じ動きをするよう仕込んであった」

「あれを、レヴィンさんが……?」

 驚きのあまり、思わずユダは絶句する。

 外形に関してもそうだが、〝傀儡〟と言い切られてしまったあの異形の虫たちは、匂いや個々の動きまでが、信じがたいほどそれらしかった。

 たったひとつ引っかかりを感じたのは、気配に関することだけだ――あの羽虫たちからは、コアの脈動が感じられなかったのである。先ほどユダが、あれほどの数の異形の接近を感知することができなかった原因は、そこにあったのだ。

「さすがレヴィン様です……! 自分では見慣れているつもりでしたが、本物と全く見分けがつきませんでした」

「君の記した文書とスケッチをもとに再現したんだ、メリル。君の日頃の研究の成果を、大いに利用させて貰ったというわけだな」

「まあ、そうだったのですね」

 両手で口元を覆ったメリルに、レヴィンはほんのりと柔らかい笑みをこぼしてみせていた。

 メリルを見つめるレヴィンの眼差しは、とても穏やかで温かい。目を合わせるたび思わず背すじの伸びる思いがするほどの、堅固で実直な普段の様子が嘘のように。

 学者のメリルを守護騎士にと推したのは、彼なのだという。魔道と異形学、道筋は違えど、彼はおそらく同じ〝知識の探求者〟として、メリルに全幅の信頼を置いているのだろう。

「――ん?」

 ふとユダが何気なく傍らを見遣ると、そこにはラナが居た。

 皆がレヴィンとメリルのやり取りを朗らかに見守る中、彼女だけがやけに浮かない様子でしゅんと俯いているのだ。

 何か気掛かりでもあるのだろうか――声を掛けようとしたユダであったが、それを遮るかのようなタイミングで、レヴィンの咳払いが響いていた。

「ああ――お喋りはこのくらいにして、だな」

 どこか照れ臭そうに今一度咳払いをこぼし、レヴィンは元通りに面持ちを引き締めていた。


「いいか、お前たち。今のが実戦だったと想定すると、おそらくユダとガラハッドを除く四人は、相当な深手を負う羽目になっていたはずだ。場合によっては、命を落とす者も居たかもしれない」

 粛々と告げられた恐るべき可能性に、胸の奥が大きくざわついた。うっすらと見えかけていた未来図が、情け容赦なく破り捨てられたかのような失意を味わっている。

〝死〟という言葉の不条理を、今ほど強く味わったことはなかったかもしれない。

 これまでも、人が異形の餌食となる瞬間に立ち会ったことがないわけではない。けれど、今しがた直面させられたものは、これまで遭遇したどんな場面とも違う――短い間ながらに友情を築き合った、〝仲間の死〟であったのだ。

 昨晩、不可視の獣――《犬鬼ケルベロス》の餌食となった騎士たちにもきっと、気心の知れた仲間は多く居たに違いない。

 つい今しがたまで肩を並べ、共に笑い合っていた仲間が、瞬きするほどの間に、帰らぬものと成り果ててしまう――これから自分が身を置こうとしているところは、そんな不条理が日常として繰り返される場所なのだ。

 この暗然たる世界における〝騎士〟とは、ひたすらに輝かしいだけの存在ではない。伝承の中に見た、美しく勇壮な英雄などとは全くもって違う――レヴィンの強い眼差しは、そんな痛烈とも言える訓示を叫んでいるかのように思われた。

 同じ心地を味わっているのか、他の候補者たち――たった一人、「説教などたくさんだ」とでも言いたげに、わざとらしく長嘆息を漏らしたガラハッドは除く――も、すっかり言葉を失っているようである。

「はっきり言おう。今回の守護騎士選抜試験は、例年のどの試験よりも過酷な内容だ。これからお前たちに課せられる試練は、今の何十倍も理不尽なものとなるだろう。志半ばで命を落とす危険性も大いにある」

 誰一人として、レヴィンの言葉を遮ろうと考えるものはいない。重苦しい沈黙が流れる中、尚もレヴィンは厳かに語り続けた。

「それでも我々は、過酷な試練を乗り越えられる優秀な人材を求めている。友の死屍ししを踏み越えてでも、未来を切り拓こうと前を向ける強い心を求めている。すべてを受け入れる覚悟のある者にだけ、これから試験の概要を説明しよう」

 ごくりと誰かが、生唾を呑み下す音が聞こえた。

 ただの今さえ、味わったことのない失意の感触に打ちひしがれていたところである。もはや胸をよぎるのは、不安、恐れ、焦燥――いずれにしても、ろくでもない感情ばかりだ。

「今ならまだ、辞退することも出来るぞ。退しりぞくこともまた一つの勇気だ。ここで辞退した者にも、一部隊所属の騎士としての待遇は保障しよう。さあ、どうする?」

 レヴィンの甘い提示には、ほんの少し心がぐらついた。

 でも――。

 今の自分には、それでも挑まなくてはならない理由がある。

 禍々しい瘴気とともに、人々の心に分厚く絶望のはびこる時代。どれほど救いたいと願っても、救えない命がたくさんあった。荒れ果てた大地を巡る二年間は、ただただ己の無力を噛み締める日々が続いた。

 そんな自分に、希望を投じてくれた人がいた。

 世界の不条理に立ち向かおうと、呼び掛けてくれる友人がいた。

 自分という人間ひとりが世界に及ぼす影響はちっぽけでも、この手の届くところにいる仲間のために全力を尽くすことなら、きっと出来る。

 ――だから、僕は。

 握り固めた拳に一層の力を込める。

 隣の相棒は今、どんな顔で自分を見つめているのだろう。

 けれど、彼なら――これまでずっと、傍らで同じ時の軌跡を歩んできた彼ならば、きっと。

 決意を固めたユダが、相棒の居る傍らを振り返ることはなかった。

 まっすぐにレヴィンだけを見据え、ユダは確たる口調で切り出す。

「僕は迷いません。どんなに難しい課題だって乗り越えてみせます」

 静まり返ったホール全体に、ユダの声明が高らかに響いていた。

 微かな残響を噛み締めるように目を閉じたレヴィンは、腕を組む。その口元には、ほんのりと笑みが浮かんでいた。

 瞬間、広間の凍り付いた空気がさらさらと解けてゆく感触があった。

「誰が何と言おうと、あたしは守護騎士になりたいの。だって、やりたいことがたくさんあるんだもの!」

 ユダの傍らに躍り出たラナは、熱意を露わに握り拳を突き出してみせた。

「私も、皆さんにお力添えをしたいという意志は変わっていません」

 続けて、祈るように胸元で手を重ねたメリルが、いつになく神妙な面持ちで静々と歩み寄ってくる。

「さっきは油断したけど、次こそは完璧にやってみせるよ。必ず、ディーリアス家の名に恥じない働きをしてみせる」

「ま、世話んなった人からのたっての頼みだからなあ。今更失うモンもねえし、断る理由はないですよ」

 後方から聞こえたエスターとヴァイスの声は、気鋭に満ち溢れていた。

 残るはたった一人。レヴィンの呼び掛けに声をあげていないのは、相棒のガラハッド一人だけである。

 誰が促したわけでもなく自然と、彼のもとにはメンバーの視線が集中していた。穏やかに一同の声明に聞き入っていたレヴィンも、いつの間にか目を開け、じっと彼の言葉を待っている。

 いつも通りに鍔付き帽子の据わり具合を確かめた後、ガラハッドは確かな声音で言い放っていた。

「――いずれにあっても僕は、ただユダについて行くだけですよ」

 一同に彼の放った短い言葉の意味が伝わるまでには、ほんの少し時間がかかったようだ。

 最も咀嚼に時間を要していたのは、ユダである。歓声をあげて飛びついてきたラナとメリルの様子を目の当たりにして初めて、ユダは相棒の意思を理解するに至ったのだった。

 照れ臭そうにそっぽを向いた当人を差し置き、三人は手を取り合ってはしゃぐ。

「まだ試験を通過したわけでもないのに」と皮肉げに零したエスターも、この時ばかりはどこか嬉しそうに見えた。

「そうか……生半可な気持ちで挑むものではないと脅しをかけたつもりだったが、結局辞退する者はいないようだな」

 今一度全ての候補者たちとゆっくり目を合わせた後で、レヴィンは満足げに頬を緩めて頷いた。


「では、早速試験内容を説明しよう。デューイ、頼むぞ」

 そして彼は、意を決したように広間の出入口を振り返る。

「――ご苦労だったね、みんな。レヴィンも、いつも以上に見事な術だったよ」

 出入口の扉はすでに開け放たれていた。待ちかねたかのようにそこに立っていた長身の男が、甲高くブーツの踵を踏み鳴らし、真紅のコートをなびかせて、悠々と歩み寄ってくる。

「やあ、ユダにガラハッド。君たちには必ずまた会えると信じていたよ」

「あ、あなたは――!」

 真紅の艶髪と、同色のコート。気品に溢れた優雅な佇まい。そして何より、澄みきった低音で紡がれる、この柔和な語り口。

 忘れるはずもない――彼は昨晩、巧みな弁舌でもって相棒を口説きにかかっていた〝通りすがり〟の男だ。背後にまた、革ジャケットの剣士を連れ歩いているところから見ても、本人に間違いない。

 男の名は〝デューイ〟と言うらしい。やがてレヴィンのもとへ並び立った男は、親しげにその肩を叩いていた。

「ねえ、メリル。あの人は誰なの? 昨日ガラハッドを追いかけてったとき、中庭で会った人なんだ。でも名前は教えてくれなくて――」

 男がレヴィンと言葉を交わしている隙を見計らって、ユダはこそこそとメリルに内緒話を持ち掛けた。

 すると彼女は、漆黒の瞳を見開いて驚きを表したのち、何故だかくすくすと遠慮がちに笑いを零していた。

「まあ、そうだったのですか。あの方は、軍師のデューイ様ですよ」

「軍師……?」

 軍師とは、兵学に通じた戦術士。将のもとで軍事に係る計画・作戦を練る者のことを指すはずである――人同士の争いが日常茶飯事であった、《審判》前の世界ならば。

 この時代における軍師の役割とはなんだろう。首を捻るユダに、メリルはひたすら穏やかに解説を続けてくれた。

「《審判》以前、デューイ様は国王陛下の補佐官をお務めになられていたんです。現在の新生トランシールズ騎士団を導いておられるのは、あの方なんですよ」

「へえ」とユダが、ただただ相槌を打つ以外に出来ないでいると、語りたがりのエスターが、メリルを押し退ける勢いでユダの前に割り込んできた。

「デューイの仕事は、騎士団の統制だけじゃないよ。国王陛下の正式な代行者はマーシア王女だけど、王女はまだ幼いからね。名目上は王女の補佐官ってことになってるけど、現状としてこの国の政務を執り仕切っているのは彼なんだ。つまり彼は、実質この国の最高権力者――ということなんだよ」

「最高権力者……? あの人が?」

 予想だにしない答えに、思わず溜め息が漏れる。己の多識を褒めよとばかりに胸を張ったエスターの自慢たらしい態度はもはや、さほど気にはならなかった。

 無意識に瞬きの増えた瞳で、ユダは改めてデューイと呼ばれた男を見つめた。

 ユダの視線に気が付いた男は、昨晩と何一つ変わらない軽調子でひらひらと手を振り、艶っぽい唇の端を薄く持ち上げてみせる。

 人は見かけによらない、という言葉が果たしてこの場に当てはまるのかどうか。

 確かに彼の正体を〝王様かもしれない〟などと考えたこともあったが、それはあくまで、彼の優雅な立ち居振る舞いだけを捉まえ、〝王侯貴族のようだ〟と感じただけの話である。あの浮草のごとく捉えどころのない男には、〝為政者〟などという大仰な触れ込みなど、てんで似合わない気がするのだ。

「信じられないでしょ? キザだし、チャラいし、ナルシストっぽいし、嘘つきだし!」

 訝しむユダの思いをいち早く汲み取ってくれたのは、ラナであった。その通りだと素直に頷きそうになって、ユダは慌てて取って付けたような笑みを浮かべる。

「いやいや、あれで彼はなかなか凄いんだ。《審判》以前、この国が隣国アルスノヴァの度重なる侵略行為を退けてこられたのは、参謀たる彼の智略の為せる業だと言われているからね。つまり入れ知恵をさせたら、この国で右に出るものはいないってことさ」

「二人とも、いくら何でも言いすぎですよ……」

 ここでもエスターの皮肉に思わず同意しかけたものの、メリルの冷静な指摘にはっと目が覚め、再びユダは黙したまま笑顔を取り繕っていた。


 ――そんな折のことだ。堂々たる午睡のひとときから目覚めて以来、終始皆と明るく笑い合っていたヴァイスが、いつの間にかすっかり黙り込んでいることに気が付いたのは。

 何やら神妙な面持ちで、彼はじっとどこかを見つめている。彼の視線の先にあるものが、デューイの背後に佇む革ジャケットの剣士だと分かると、ユダは未だデューイの逸話に盛り上がる者たちの輪からそっと外れ、思案顔のヴァイスにこっそりと声を掛けていた。

「ヴァイス、どうしたの?」

 呼び掛けるも、一向に彼からの反応はない。

 よほど気に掛かることでもあるのだろうか――只ならぬ空気を感じたユダは意を決し、腰を屈めて無理くりヴァイスの視野に首を突っ込んだ。

 すると、ようやくこちらに気が付いたヴァイスが、「おう」と小さく呻いてユダの方へ向き直った。

「あいつ、昔どっかで見た覚えがあるような気がすんだよな……」

「え?」

 その訝しげな言い回しから察するに、あまり良い〝覚え〟はなさそうである。ただの顔見知りというだけならば、彼の性格上、気軽に声を掛けてしまいそうなものだからである。

 詮索すべきか否か。

 ユダが思案していると、短い打ち合わせを終えたらしいレヴィンとデューイが、二人同時にこちらを振り返るのが見えた。敢え無くそこで、思議は打ち切られる。

「では、ここにいる七名を、正式に今回の守護騎士候補者と認めよう」

 高らかに声をあげたのはデューイだ。レヴィンのもとから半歩ほど歩み出たデューイは、懐から丸めた羊皮紙を取り出し、空いた手の平にぴしゃりと景気良く叩きつけていた。

「王国は君たちを歓迎するよ。それでは、早速――」

「ちょっと待ってください」

 ところが、早々に彼の金声は遮られた。遠慮など微塵も感じない声振りで横槍を差し入れたのは、ガラハッドである。

「七名とは、どういうことですか? 先ほどレヴィンさんが意思確認をしたのは、全部で六名のはずですが」

「――ああ、すまない。説明が足りていなかったね。〝彼〟の意思はもう以前から確認済みだったものだから」

 僅かの間、面食らったように切れ長の蒼眼を見開いたデューイであったが、すぐにいつもの余裕顔を取り戻すと、彼は颯爽と後方を振り返っていた。

「守護騎士候補者は、君たち六名と――こちらのフレドリックを合わせて七名だ。皆、彼のこともよろしく頼むよ」

「えっ――? あの人も候補者だったんですか?」

 ユダが驚きの声をあげると、デューイはにっこりと笑って頷き、フレドリックと呼ばれた剣士に向かって小さく手招きをしてみせた。ところが彼は、ふいとすげなく視線をそらしただけで、その場から一歩たりと動こうとはしない。

「悪いね……彼は少し、人見知りが激しいんだ」

 沈黙から生まれたばつの悪さを誤魔化そうとするかのように、デューイは苦々と微笑んで頬を掻いていた。


「ふうん……あいつ、フレドリックって名前なんだ。まあ、顔はそこそこイケてる方かしら。近頃お城の中ではよく見かけてたけど、城下では見たことない奴だなって思ってたのよね」

「僕も気になってはいたんだよね。デューイの知り合いらしいことは分かってたけど、いつから居るんだろうって思ってた」

 どうやら彼は、王宮暮らしの長そうなラナやエスターでさえよく知らない人間のようである。

 デューイから紹介されたにも関わらず、フレドリックはまともにこちらを見ようともしない。昨晩と変わらず、彼はデューイと付かず離れずの距離を保ったまま、むすりと唇を引き結び、黙り込んでいた。

「前々から思ってたけど、あいつかなり感じ悪いわよね……目つきも顔色もだけど、性格も悪そうだわ」

「ああいう輩には、気を遣うだけ無駄だよ。どう見たって協力的な感じじゃないし、関わらないのが賢明なんじゃないのかな」

「二人とも、本人に聞こえちゃうよ……」

 慌ててユダが釘を刺すも、ラナとエスターの辛口コンビは、「聞こえたところで」と半ば喧嘩腰の態度を崩そうとしない。

 縋る思いで目をやった相棒は、退屈そうに欠伸を零しながら、「放っておけ」とでも言いたげにひらひらと手を振っていた。

「あの、試験の説明に入る前にひとつ確認させてもらってもいいっすか?」

 その時、ずっと意味深げに黙り込んでいたヴァイスが唐突に手を上げた。

「何だい、ヴァイス」

 煩わしそうな態度は微塵も見せず、実に快くそれを聞き入れようとするデューイ。

 僅かに躊躇うような間を置いたのち、ヴァイスは辿々しい口調で問うていた。

「その剣士――フレドリックって言いましたよね。まさかとは思うんすけど、〝紅獅子クリムゾン・レオフレドリック〟ってこたあないですよね?」

 ヴァイスがその異名を口にした途端、候補者たちの間に戦慄が走っていた。

 見れば傍らの相棒も、幾分顔つきを入れ替えて剣士を見つめている。

 ――どうやら、知らないのは自分だけらしい。

 しかし、さしものユダにもそれが、生まれも育ちもてんでばらばらの候補者たちを等しく震撼させるほどの、不吉な名であることくらいは察しがついた。

 逡巡するように目を閉じたデューイの口元からは、笑みが消え失せている。

 不穏の渦巻く胸元を押さえ、ユダはきょろきょろと皆の顔色を伺っていた。

「や、やだ……何言ってんのよ、ヴァイス! たまたま同じ名前ってだけじゃ――」

 つとめて明るく流してしまおうとした。取って付けたようなラナの笑顔には、そんな心持ちがつぶさに溢れているようで、とても痛々しかった。

 周囲を取り巻く空気が、鉛にでも変じてしまったかのように重くなっている。

「アルスノヴァで傭兵をしていた頃は、そんな名で呼ばれていたこともあったな」

 デューイの答えを待たず最初に沈黙を破ったのは、他ならぬフレドリック本人であった。

 すると途端に、恐怖と動揺に塗り潰された空間の中へ、異様な気配がどっと流れ込んでくるのが分かる。

 憎悪、敵意、怨嗟――そのどれもが並大抵のものではない。

 一体、どうして――?

 何よりもユダは、その強烈な負の感情が、件の剣士でなく、仲間の中の誰かから生じたものであることが恐ろしくなった。

「なるほど、道理で桁外れに強いわけだ……彼の名は僕も聞いたことがある。〝紅獅子フレドリック〟といえば、アルスノヴァの英雄の名だよ。憎き仇敵を最も多く駆逐せしめた〝勇者〟ってね。それがトランシールズの人間にとってどういう意味かは――考えなくてももう、分かるだろ?」

「そ、そんな……」

 相棒のくれた答えは、ユダの想像を遥かに超越する残酷な真実だった。

 言葉を失ったユダを押し退け、猛然とデューイのもとへ詰め寄ったのは――

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