第25話 お願い
「どうしたんですか?」
ロロが心配そうに、俺の顔のすぐ前まで飛んできて、呟いた。どうもしてない。まだ聞きたいことは死ぬほどあるんだ。そのはずなんだ。なのに、出て来ない。俺は混乱している。
ちょうどその時に、玄関の方、鍵がガチャリと開く音がした。
四つの弁当を温め終わったころ、外は薄暗くなっていた。弁当の温め時間は一つ五分くらいだから、モミジが帰って来てから二十分ほど経ったことになる。全部モミジがしてくれるから、俺は二十分間、悶々と座っていたことになる。
しかしまあ、食欲の止まらん奴らだ。モミジは海苔弁当をぱくぱくと、ラルスとプエラもそれを真似して、ぎこちなくふたを取り外し、中の具材をもぐもぐと、フラーマとロロも机上を自由に跳ねて、目につくおかずをつまんでいく。うめぇうめぇと和気藹々の雰囲気だ。
俺の目の前に置かれたのは焼うどん。さすが妹、兄の好物を熟知している。もう少し嬉しい顔をしてあげたいが、残念なことに心の余裕がない。白い湯気のたつ茶色の麺と、ひらひら動く鰹節を見ながら、なんとか食欲を奮い起こそうと必死なのだ。
「お兄ひゃん……?」
不思議そうな、悲しそうな顔でモミジは覗いてくる。が、なんせ口には大量のコメが、唇にはちらちらと海苔が付いていて、その馬鹿っぽい顔には申し訳なさが沸いてこない。それがせめてもの救いだった。
「あの、モミジちゃん。あとハルヒ」
箸を静かに置いてから、唐突に口を開くのはプエラだった。何だかかしこまっていて、呼ばれるままに俺たちは向く。微笑んではいるが、真剣みの有るプエラの顔がそこにはあった。
「こ、これ、すごく美味しいわね! あっついけど! これだけじゃないわ、いろんな美味しいものを、二日間、私たちは食べさせてもらった」
「いやいやぁ」とモミジは照れる。「そうやな」と俺は返す。プエラはぎこちなく続けた。
「布団も用意してもらって、シャワーも使わせてもらって、一緒に遊んでもらって、それに、なにより、私たちを助けてくれた!」
最後のだけ意味が分からない。飯を食わせたこと、布団を用意したこと、そのすべてが「助けてくれた」に相当すると思うのだが、「それになにより」と言ったことで、もっと別のことを示唆しているように捉えられる。何のことを言ってるんだ?
しかしモミジは力強く頷いている。心当たりがあるのだろうか? こいつのことだから分からないことがあれば聞き返すと思うのだが。
プエラは突然、語気を強めた。
「だからお礼がしたいの! いや、お礼はさせてもらうわ。何でもいいから、なんかない?」
「なんかないって、なんだ」
「だから、欲しいものとか、やりたいこととか、なんかない? 好きな願いを叶えてあげるわ!」
身を乗り出して問いただしてくる。俺は体を引き、顔を背けながら訊く。
「……どうやって」
「うぐ! ……ふふ、まあそこは…………えっと企業秘密?」
うぐ! と漏れている声は、こいつの耳には届いていないのか? 全然ごまかせてない。
俺はプエラの目を軽く睨み、
「まさか……」
と呟き、言葉を繋げようとしたが、止まってしまう。俺は顔を背けた。真正面から、プエラの顔を見てしまったから。
「何でもいいの!?」
プエラはハルヒから逃げるように、そう言うモミジに向いた。
「もちろんよ! なんたって私たちは魔法使いよ?」
「おおお、そうやった! じゃあねっ、じゃあっ、……」
ちょっと黙った。そんなすぐに願い事なんて出ないだろう、と俺は解釈したのだが、わが妹は想像の上を行っていた。不安げな笑みで、
「……三個あってもいい?」
と尋ねたのだ。しかしプエラはなにも驚くことはなく、
「全然大丈夫よ! でも一応、聞いてもいい?」
テレビはついている。今日は土曜日。週末のゴールデンタイムだ。幅広い年齢層に愛されている番組の、楽しげな音と会話がこの和室に鳴り続けている。しかし誰も見はしない。モミジとプエラはもちろん、ラルスもフラーマもロロも、俺も、この時は手を止めて、二人の話を聞いていた。
モミジは笑顔で頷いて、指を三本立てて見せ、そのうち一本をまず折った。
「じゃあ、一つ目は――」
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夜風に当たりたいとか何とか言って、ラルスとプエラ、フラーマとロロは、一度家を出て行った。すぐ帰るからと言い残していったが、万物の尺度は人間であるように、「すぐ」が人によって違うことを俺は知っている。紀元前五世紀の哲学者プロタゴラスさんに教えてもらったこの教訓は、二千何百年の時を超え、現代を生きる俺の生活指針に、まったく見事に役立っている。倫理は楽しい。
俺にとっての「すぐ」は、まあせいぜい十分以内を言うのだが、これをラルスたちに押し付けるのはナンセンスだ。あいつらいとっての「すぐ」は一時間以内をいうのかもしれなくて、その考え方にはまったく悪意がないかもしれないのだ。万物の尺度は人間なんだから仕方ない。ああ、ありがとうプロタゴラス様。あなたのおかげで、もう五十分と帰ってこないあいつらを、穏やかな心で待つことが出来ます。
弁当の箱もとっくの昔に片づけ終わり、ここ和室のテーブルに漢字ドリルを開き、かりかり鉛筆を走らせているモミジ。俺はなんとなく自室には戻らず、モミジの近くで寝っ転がり、手に持ったスマホをじっと見つめ、考えている。
さぁてどうするか。慎重に行こう。これまでばらまいてきた伏線は全てメモしてあるし、頭に叩き込んでいるつもりだが、見落としは無いか? 大丈夫か。伏線回収こそがこれの醍醐味と言えるのだ。妥協は許されない。……よし、大丈夫だな。じゃあそろそろ書き出そう。出だしは……
「あ、そうや!」
モミジが割と大きな声を出した。集中力を高めていた俺は必要以上に驚いてしまい、全身をびくんと震わせてしまう。
「な、なんや……?」
訊くと、鉛筆の先をこちらに向けて、早口にモミジは言った。
「お兄ちゃん、今日の昼、メールしたやんけ? その答え言うの忘れとった!」
「はぁ?」と訊き返してしまう。何のことかわからないでいると、すぐにモミジは、俺をハッとさせてくれた。
「えっとね、プエラさんは、イーノウエ、やって! これで分かる?」
「あ……」
俺は、理解し、呆然とした。「そうか」と呟くのが精いっぱいで、そこから話は展開できない。
黙って言葉の出ない俺に、モミジは好奇心あげあげで訊いてくる。
「どういう意味なん、ナニカップって? 好きなTカップの種類とか? ねえ教えて!」
悪意がないだけ、その質問はタチが悪い。いや、別に変な話じゃないんだが。男子高校生の俺が説明していいことじゃない気がする。
はぐらかすべく言ってやる。
「お前にもあるぞ、ナニカップ」
「え、うそ!? 私にもあるん、ナニカップ!?」
どんな会話だ。お隣さんに聞こえないようにだけはせねば。
俺はスマホに目を戻しながら教えてやった。
「お前は、エーノシタ、だ。まな板もナイアガラの滝も、その垂直さに腰を抜かす」
「エーノシタ! 私エーノシタねんや! えへへ、学校の皆に自慢しよ」
「やめとけ」
鋭く制す。妹にエーノシタとニックネームをつけている変態の兄貴がいるだなんて、俺がどうこう以前に、こいつに思われてほしくない。
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