第9話 追撃

 夜空にポツンと三日月が光る。石川県金沢市、シダックスの前。

 真っ黒な羽を折りたたみ、正座するように、車道の上を専有している。尖った膝が、入口のすぐ近くまで迫っている。胴体に比べて異様に細く長い両腕を、地面につけ、その巨体を支えている。不気味なほどに蒼白い顔は困ったような表情で、窮屈そうにもじもじと、置き場が定まらず揺れている。紫角は月に向かい伸び、青牙は地面に落ちている。紫色の厚い舌を、蛇のように何度も出し入れする。周囲の人間の逃げ惑う叫び声が聞こえ、車は乱雑に乗り捨てられている。


 大魔王ディアボルスが、上体を曲げ首を伸ばし、血走ったその大きな両目で、俺とモミジを見下ろしている。


「……え、俺は……」


 俺は意識の外で口を開いていた。しかしそれをかき消すように、モミジが甲高く叫んだ。


「お兄ちゃん、逃げて、早く!」


 俺の体をぐいぐいと遠くへ押しやるモミジに、ハッとさせられる。その後は、押されないように堪えながら、逆にモミジの頭を強引に押しながら、返す。


「いやお前が逃げろよ! 小2の妹に逃がされる高2はいねーよ!」


「なんなんそのプライド! いいからお兄ちゃんが逃げるの! 私は……靴紐結んでから」


「お前の靴テープのヤツやろ! なに渋ってんだ? いいから! いいから逃げろって!」


「いやいやいやいやいやいいから! 私は……そう! ラルスさんたち呼んでくるの!」


「アイツの名前は結局ラルスなのか? まあいい! よしお兄ちゃんが引き受けた! いいから帰れ! 口を開かず速やかに帰れ!」


「ぐぅぅぅぅう」


 高2の腕力に押される小2。

 そんな兄弟げんかを、ディアボルスはじっと見おろし、パチパチと瞬きを繰り返していた。


「あああああもう分かったよ!」


 大魔王の眼前。大した緊張感もなく、モミジは俺から距離をとる。周囲の喧騒さに負けないよう、突き刺すように言い捨てる。


「じゃあ逃げるよ? でもお兄ちゃんも、プエラさんたち呼んだらすぐ逃げてよね! 絶対やよ!? あ、あとレグラさんも――」


「分かった喋るなさっさと帰れ」


 邪魔者扱いされムッとするモミジ。「もう!」と一言だけ置いて、俺に背中を向け、歩道に沿って走り出し、夜の闇に消えて行った。やっといなくなった。やれやれと思う。何がプエラさんだ。ふざけやがって。


 俺は一息ついて、ディアボルスの目の前に立つ。ディアボルスは大人しく、いつまでも飽きずに、黙って俺を見下ろしている。闇夜に溶けてしまいそうなほど真っ黒な巨体を、三日月が冷たく照らし出している。


「おい、お前……」


 気色の悪い目玉を見上げ、俺は言った。


「至る所に現れやがって……。金沢市に留まってんのは、せめてもの優しさか?」


「…………」


「遠くで出たかと思ったら、急に近寄ってくんのかよ……」


「……サイ…………サ、イ……」


 俺を見下ろすディアボルスは、口元をもぞもぞ動かして、何か言っているようでもある。よく聞き取れない。もしかすると何も言ってないのかもしれない。喉を鳴らしているだけなのか。分からない。低く重たい音を、こいつはならしている。

 こんな化け物を目の前にするのは初めてだ。変な魔法少女が、いつもこいつを殺してしまうから。まあ、正面に立った感想としては、


「でけぇな。それに気持ち悪い……」


 呆れ笑いを浮かべてしまう。俺は一歩近づき、ぎこちなくサイサイ言ってるこの化け物の、蒼白い顔に、ゆっくりと手を伸ばす。受け入れも、拒みも、何もせず、ディアボルスはまるで自然に、車道の上で屈み、紫色の舌でたまに口端をなめずりながら、一直線に俺を見ている。その、とがった鼻先に、触れようとして、指を伸ばす。その瞬間。


 シダックス2階。窓がバリンと叩き割られ、粉々に光るガラス片の中から、ひとり人間が飛び出し、俺の近くに落下してくる。思わず俺は、ほとんど反射的に腕を引っ込め、そちらへ向いた。

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 カラオケとか言う狭い部屋から脱出するも、そこはまた狭い廊下。迷路のようなうねる路を、がむしゃらに走って飛んで、小さな窓を発見。外が見えたから、体当たりして飛び込んだ。そして、ここが2階だったと知る。


「おわっ!?」


 視覚的高度感と、即座に迫る地面。ラルスは甲高い声を漏らした、赤色の髪は逆立って、そのままどうしようもなく落下していく。歯を食いしばり、尖った八重歯を光らせる。

 胸の前に手を出し、魔力を集中させる。小さな火の玉を発生させ、みるみる近づく地面に向かって撃ち放つ。火の玉は一本の太い炎の線になって、闇の中を墜落し、街路に接触すると同時に、四方へ分散。天地逆転させた噴水のごときその炎は、ラルスの体をふわりと浮かせ、落下速度を緩め、そのまま静かに、何てことなく着地した。

 すぐに体を反転させ、見上げた空には、レグラが飛びかかっていた。


「くそッッ! 来んじゃねーよ!?」


 半透明漆黒の、肥大化した悪魔の腕を肩から伸ばし、襲い掛かるレグラ。ラルスは左手に炎を纏い、小さく振りかぶってからその黒腕を殴打した。

 しかし態勢の良し悪しか、そもそもの実力差か、ラルスの腕は跳ね返され、レグラは今にも覆いかぶさろうとする。ラルスは右手にも炎を纏い、両腕を揃えて伸ばし、歯を食いしばって全霊を向かわせる。モーションなしで大きな火炎の光線を放出した。

 レグラは表情を変えずとも、力に力をぶつけるラルスを嘲笑するように、ふっと力を抜いた。一気にラルスの炎に圧倒され、宙に押し上げられるが、それと刺し違えるように、悪魔の手の5本指をレーザーのように鋭く伸長し、火炎光線の周囲を通り抜け、ラルスの体に急接近した。対応すべく、ラルスは前方に伸ばしていた両腕を左右に広げ、その場で素早く数回転する。地から這い出て来る炎の渦が、ラルス周囲の大気を大雑把に燃やして唸った。

 異様に伸びた5本の指は、火炎渦に触れた途端、人間のように、その熱で怯み素早く引っ込む。

 がら空きになったラルスの頭上1メートルに、すでにレグラは迫っていた。


「ぅぅぅぅあああああ!」


 ラルスは叫び、かなり無理な態勢でバックステップし、体を握ってやろうと迫っていた悪魔の腕を、本当に紙一重で回避した。しかし膝はがくんと崩れ、倒れしまいそうになる。死ぬ気で堪えて立ち尽くす。

 目の前に着地したレグラ。彼も彼で地面に手を突き、蹲っている状態である。

 今しかない。


 ラルスは両足を縦方向に大きく開き、腰を割る。左腕をダンベルを持ち上げるときのように曲げて、その上腕と前腕に挟むように、伸ばした右腕を設置して構える。これで、右手から高威力の魔法を放っても、腕は吹き飛ばさずに固定される。


「頼む、出てくれよぉ……?」


 手のひらを、レグラに向ける。魔力集中力をともに引き上げる。

 魔法の中でも、れっきとした名前が記されている、高火力の技。

 炎の名称魔法――


「エクスキャン・デュイットォォォォォォォォォォォォ」


 ラルスは叫び! 撃ち放つ!

 手のひらから、ポンッと小さな煙が発生し、しゅんと収束! 以上。

 …………。


「やっぱりダメかこの魔ぐほぉあぁぁッ」


 結果、何もせずに立っていたラルスは、レグラの悪魔腕に上半身を掴まれて、コンクリートの地面に押し潰された。痛みに集中力も魔力も途切れ、口も切れて血の味がしている。

 独立し、行き場を失っていた5本の指……もはや指ではない5本の黒線が、それぞれ地面に突き刺さり、レグラとラルスを檻の中に閉じ込めるよう覆ってしまった。


「……おい、お前……」


 レグラは、ラルスの顔面を、コンクリートに押し付ける。

 ラルスの体を握りつぶそうとしながら、血を流すその顔へ自分の顔を持っていき、無表情で冷たく訊いた。


「囚人服はどうした? 見間違えただろ……」


「ぐ……がッ……」


 言い返そうにも声が出ない。抜け出そうと身をよじっても、逆に肺が潰されそうになって苦しい。レグラの顔が、目の前にある。初めての距離でいろいろ気が付く。意外に精悍な好青年だ。歳は少しだけ上って程度で、ほとんど同じかもしれない……。

 ラルスは窮地の中、不思議と冷静になっていた。


「うるさい部屋にいやがって。独居房で一生を終える運命を忘れたか?」


「チ……なにが運命だ……」


 ラルスは、後方に手を曲げて、レグラの白い前髪を掴んでやった。

 指先から炎を燃やし、ジリジリと、静かに焦がしていく。

 ラルスは笑い、無表情のレグラを睨みつけて続けた。


「俺には世界征服っていう……夢があんだよ。テメェはそうだな……俺がでっけぇ城の庭で飼う予定の、ドラゴンの世話でもさせといてやるよ……心配すんな、飯は三食――」


「少しでも手に力を入れれば、お前の体は千切れるが、俺がそうしない理由が分かるか」


「ちょっと黙れよ……あと離せ、この気持ち悪いう――」


「お前が気に入らないからだ。お前は魔法使いで禁断の呪文を唱えてしまった。法規に則り今すぐ殺す必要があるんだが、まあ、これは、まるきり俺の私情なわけだ。閉山と世界には向かうお前を、あの世に逃がしたくないんだよ」


 レグラの前髪を焦がしながら、ラルスはニヤッとして言った。


「いいから黙れって。俺が世界征服するまでな!」


 ようやく、その無表情の眉間に、少しだけ皺が寄った気がした。その時だ。


 プエラは着地し、水で作られた短刀を振って走り、二人を囲む黒色の檻を切断した。

 全壊し、バラバラ崩れ落ちる黒い塊の中、プエラは超高速で駆け続け、レグラに猛進。数メートル手前で飛び上がり、水の刀を頭の上で構えたまま、宙で縦回転を始める。それは鋭い音を上げ、タイヤのように前進し、ラルスの上に被さっているレグラの首を狙った。レグラは小さく舌打ちし、止む無くラルスから距離を開け、この水魔法を避け切った。


 解放されたラルスの傍に、くるくる飛び、ピタリとプエラは着地した。目の前、やや遠くで、焦がされた前髪に手を当てているレグラを見ながら、静かに訊く。


「平気ですか」

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