第7話 異世界の概念

 人々は逃げまどい、アリの行列に石を置いたように、車は渋滞、大混乱する。忽然と姿をあらわにした巨大な真っ黒に、四散する金切り声。車道の真ん中に右腕をたてているものだから、とても無視して通れないのだ。人々は車を置いて走って逃げる。眼下の彼らに申し訳なく思いながら、メープルは闇の中を飛びぬける。


 デビルンの後頭部上方に回り込んだその時、デビルンは口をゆっくりと開いた。


「ヒガ…………ヒハ…………?」


「ん!? なに? お日様がどうかした!?」


 メープルは叫び返しながら、デビルンの背中を降下していく。デビルンはゆっくりと、それでも急いでいるのかもしれないが、巨体を動かし、後方を向いた。メープルを視界に収めようとしている。もう膝辺りにメープルがいるとも知らず、顔を上げて探している。視界の真ん中に飛び込んできた満月の光に、充血した目を眩ませた。


 そんなデビルンを見上げながら、メープルは笑った。


「デビルンはお日様が嫌いなんやね! だから夜に出てくりんろ? いい、人を怖がらせちゃダメなの!」


 声の方向。デビルンはゆっくりと顔を下げる。慎重に、動きづらそうに。その動きはなんだか、周りの建物を傷つけないよう、誤って人を踏まないよう、そう務めているようにも、見えなくもない。「ヒ……ヒガ…………」と、低く重い声は震える。


「お日様はあなたが消したんでしょ。それとも、ヒって……」


 メープルは飛び上がった。デビルンの胴体の前を、顔の前を、一直線に突き上がっていき、デビルンを見下ろせるほどの高度で停止する。

 満月を背に、メープルは笑う。

 右腕を伸ばし。手の先にすっと力を込めた。すると突然。伸ばした五本の指は、太く、大きく、赤色に変化し、手首から先が、カエデの葉っぱのようにゆらゆらと……静かに燃える炎のように、ゆらゆらと夜風に靡かせた。


「……こっちの火のことなんかな?」


 不敵に微笑み、再びデビルンが顔を上げ斬るその前に、メープルはカエデの葉から飛び降りた。

 落雷の如き勢いで、その蒼白い顔に迫った。デビルンは巨大な右腕をグォンと伸ばし、接近するオレンジ色をはたいてやろうと試みる。メープルにとってそんな呪い動作を躱すことなんて造作でもない。身を翻し、漆黒の腕を横に見る。そのまま落下していく最中、横にあるその太い腕に、カエデの葉っぱに変化している自分の右手を擦り付けて行った。

 接触した部分は、鉄道のレールのような軌道を、真っ赤な色で残していく。するとその線は、一瞬遅れて、傷口のようにぱっかりと開き、そこからモミジの葉のような、火種のような光が、巣をつつかれたハチのように、メラメラと湧き溢れて、大きな腕を包み込んでいく。

 読んで字の如く、炎が燃え移るように、漆黒を飲み込んでいく。しかしそれは炎ではない。何千枚、何万枚のモミジの葉っぱだ。モミジの葉っぱが、デビルンを真っ赤に染め上げていく。


「オータムリーブス!」


 メープルは叫び、肩まで右手を擦り付けたところで、すぐそこに迫ったデビルンの顔面から離れるように、反対側の腕の、脇の下へ飛び向かう。その間に左手もカエデの葉っぱに変質させ、両腕を伸ばし、回転しながらデビルンの体を斬りつける。裂傷部からはモミジの赤色が溢れ出し、それは炎の如く、漆黒の皮膚に燃え広がる


「オータムリーブス!」


 脇から横腹を経由し、腰へ。腰を一周ぐるりと回って、太ももへ。膝を通り、足首へ。かかとは入念に切り刻み、ブワッとモミジが飛び散ると同時に爪先へ。その下で待機していたカエデの葉っぱに飛び乗って、そこからもう一本の足へ飛び移り、足の甲を、アキレスけんを、膝下を、股間部を、腹筋をわき腹を胸部を、メープルは回転しながら両腕を伸ばし、首元を左肩を上腕を肘を手首を指先を。


「オータムリーブス!」


 メープルは斬り刻み、飛び回る。両手両足が、カエデの葉っぱに変化している。

 デビルンがメープルを掴まえようとするのは、人間がハエを相手するようなものだった。掴もうとしても掴まらず、何度はたいても捉えられず、ふと瞬きをすれば最後、すでに視界から消えている。機動力がものを言う。スピードが場を支配する。人間は顔を顰めてしまって、ハエはにやりと笑う。

 蝙蝠のような両翼を。広い腹部を。首を回っていたかと思えば、蒼白い顔のその前に、静かにひらひら浮いている。

 肢体が炎上しきっている。大きな赤色のデビルンの、のぼせて来た巨大な顔の眼前で、軽い笑顔で、メープルは言った。


「デビルンは何もしてないけど、何かされてからじゃおそいげんてね……」


 パチパチと、巨大な火だるまが、夜の中で炎上している。

 残ったのは、顔。唯一まだ自由の利くこの顔で、デビルンは最後の抵抗をした。首をなるたけ長くのばして、青色の牙を振り上げ口を開き、紫色の舌を突き出し、ハエを食おうと試みた。少し不意を突かれ、「うわ!」と叫ぶメープルだったが、脱力していた体を、瞬時に臨戦態勢に持ち込んだ。

 カエデの両手で舌を斬り刻み、刹那で生じた数十か所の傷跡から、マグマのようにモミジの葉が溢れ出す。メープルはふわりと後退し、伸びてきた口の射程圏内からぎりぎりに外れて、目の前でガチンと巨大な歯がぶつかって閉まるのを見送った。その後に、色の悪い唇を屠る。顎のあたりを蹴り飛ばす。そのまま上に飛び上がり、とがった鼻を、殴打する。両目の間を、額の皺を、両手両足で斬り尽くす。デビルンの顔からは紅焔が噴出し、メープルは少し距離をとった。


 炎上の奥。デビルンは呟いている。


「………ヒハ……………ドコ………?」


 しばらくそう言い続け、黙ったその時。まもなく存在は焼失した。

 力なく倒れて息絶えるではなく、死の直前にどこか別の世界へ転生されるように、音もなく消えてなくなった。残ったのは、ひとけの無くなった繁華街と、麻痺した交通機関と、薄暗い、それでもかなり明るいと錯覚してしまう、夕方の香林坊である。


 月は隠れ、照明のついた世界。

 魔法少女はしばらく香林坊を見下ろすと、小さく息をつき、カエデの葉っぱに乗って宙を舞う。淡いオレンジ色の軌道を描いて、夕焼けの方に飛んで行った。

 

 デパート『大和』の屋上。

 口を開け、赤色の髪を靡かせながら、呆然と立ち尽くすラルス。

 その隣、水色の髪を弄りながら、目を丸くするプエラ。思わず握力は意識の外へ追いやられる。

 指に引っ掛けていた赤色のランドセルが、小さく音を立て地面に落ちた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 事態の収束に気付き、世界が動き出したころには、本当の夜が訪れていた。

 星もなければ雲もない。一周回って綺麗と言える夜空には、三日月がぽつん浮いている。笑った人の口みたいだな、とラルスは思った。


 空を見上げ、ラルスとプエラは黙っていた。ここはイシカワケンカナザワシコーリンボー。さっきいたミスタードーナツからすぐ近くの、開けた歩道。白いレンガが一メートルほど重なっているところに、腰をつけて、体重を預けている。レンガの上は草の生えた上り坂のスペースになっていて、その空間の中央に、不思議な銅像が立っている。足と足を結んだ……としか言い様のない、靴紐を蝶々結びにするように、左右に足首のついた一本の紐を結んで輪っかを作った、謎の銅像。奇妙だが、ドーナツみたいだからここにあるのかな、なんてプエラは思った。

 目の前の横断歩道は、いくら眺めても、赤と緑にしかならない。そして観察していると、緑の時に人は歩いている。もしかしたら、この世界では緑のことを青と呼ぶのかもしれない。だとしたらもう訳が分からないが、後ろの銅像に比べたらまだ許容できることだった。


 車道の向こう、デパート『大和』。入り口付近には大量の取材陣が押し寄せている。ことの顛末を聴取しにきたのだろう。そんなことは誰も分からないだろうに。ここから見ている自分たち以外。


「おいプエラ」


「なんですか」


 ラルスは、車の往来をぼんやりと眺めながら言う。


「その声は、ロロか。もう魔法使いになってる必要はないんじゃねぇか?」


「だとしたら、フラーマもじゃないですか?」


「分かってっけど……ラルスの声を聞くのが、なんつーか、おっかなくてよ」


「ふふ、私も。理不尽にプエラに首を絞められそうで、まだ押し込めちゃってます」


 プエラの体を操るロロは、右手に赤いランドセルをひっかけている。きっと来るはずの少女を、今二人で待っている。


「やられちまってるじゃねーか……俺の大魔王ディアボルス……」


 ラルスは吐き出すように喋った。


「なにやってんだよ……どういうことだよ……バカかよ。ふざけた格好のチビ女に、全くなにも出来ねぇで、おめおめ炎上しやがって……」


 プエラは少し状態を曲げ、俯くラルスの顔を覗き込む。怒ったような、困ったような、悔しそうな、泣きそうな顔に向かって、諭すように言う。


「びっくりしましたね。魔法少女メープル。モミジさん。この世界にも魔法使いはいましたねぇ」


「らしいな……」


「モミジさんが特別なんでしょうか? それとも、不特定多数の人数いるんでしょうか? いや、この世界の実体が全く分かりません。もしかしたら、ほとんどの人間が魔法使いになれる可能性もありますね」


「そうだな……クソ」


「さっき現れた大魔王は、ラルスが召喚したもの。この世界に私たちが召喚されたと同時についてきていた。だから呪文を唱えた人もいなくて――」


「そうだな……」


 まだ話し終わっていないのに、相槌を打つラルス。プエラは少しムカつくが、それ以上に、ラルスの心境が心配になった。一呼吸おいてから、優しい声で訊いた。


「……どうしました?」


 すると、待っていたと言わんばかりに、ラルスの声は大きくなった。


「どうしたもこうしたもねぇだろ! あの大魔王ディアボルスがだぞ? 世界を支配する力を持つっていう大魔王ディアボルスが、あんなふざけ切ったギャグ漫画みてーな子供に、あっさり負けた。どーゆーことだよ。嘘だったのか?」


 少年が夢を壊された、その泣きそうな震える声に、プエラは何も感じずにはいられなかった。

 声をかけてあげたかったが、すぐには出ない。気のたったラルスを怒らせるのが怖いんじゃない。分からないのだ。結論としては、分からない、大魔王ディアボルスがどういう存在なのか世界を支配すると伝えられてはいたが、じゃあ世界を支配する力ってどういう力なんだよ、とか。その支配にも何かやり方があるんじゃないか、とか。召喚さえすればすべて解決できるのか、とか。とにかく分からない。だって、そうだ。ディアボルスの容貌を見たのだって、さっきが生まれて初めてなのだ。

 ただプエラは、一つ思っていることがあった。


「私……ていうのはロロのことですけど、私もフラーマも、一人じゃ魔法を使えません」


 プエラは口を開く。横断歩道が緑になって、十数人の固まった人が歩きだしている。


「プエラやラルスの、人間の体に入って、初めて魔法が使えます」


「当たり前だろ……だから何だよ」


「ディアボルスも、同じ理屈なんじゃないですか?」


 ラルスは強張った顔を緩め、思わずプエラに目を向けた。プエラはなんとなく微笑んで続ける。


「私たち妖精は、天界から、地上で暮らす人間が呪文を唱えることで召喚されます。ディアボルスは超巨大なので、あまりピンと来ないですけど、私たちと同じ妖精なんじゃないですか? レグラ所長から逃れるときも、憑依された感じがあったんですよね?」


 ラルスが夢見心地に頷くのを見て、プエラは顔を前に向ける。十数人の塊の奥から、ぶんぶんと手を振って、モミジが走ってきていることに気が付く。視覚的に気付いてようやく、「ラルスさーん、プエラさーん!」と繰り返される、小さな叫び声が耳に入った。

 プエラは手を振り返しながら、最後にボソリと呟いた。


「なによりディアボルスは、人を探してる様子でした。私たちが探しに行かないから、迎えに来てくれたんでしょう?」


「そっか…………なるほど、そういうことか!!」


 ラルスは腰を白いレンガからバネのように離し、やる気に満ち満ちた、強気の笑顔で、握りこぶしを作りながら返した。


「ちくしょー、悪いことしちまったぜ! 次召喚した時はさっさと憑依させて、とりあえず謝らねーとな! 炎上させて悪かったって! 世界征服はそれからだ!!」


「……言っときますけど、看守として、世界征服は反対ですからね?」


 そこでモミジが到着した。タタタと走ってきたのに、大して疲れた様子も見せず、「何の話しとったん?」と尋ねて来る。プエラは後方を指さして、「この、足と足を結んだみたいな銅像はなんだろう、って話ですよ」と言った。「私も知らない」と返された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る