第5話  降臨

「憑依された感じがあったんだ」


 ラルスは続けて言う。


「ふと、背後に何か、冷たい影のような、殺気立った、それでいて静かに迫る獣のような、ひりつく存在感を感じた。大きな大きな何かだった。あの独居房には到底入らない。だけど奴は、おそらく腰を下ろして、じろじろと俺を見下ろしていた。不思議な感じだった。奴はその大きな手で、俺を潰してしまわないようゆっくりと、恐る恐る人差し指を近づけて、俺の背中に接触した。俺は前につんのめって、一瞬だけフラーマも体の外に出てきたみたいだった。俺もフラーマも、プエラが作った水のカーテンに顔から突っ込みそうになって、やばいと思った瞬間に、気付けば空中に投げ出されていて、モミジの上に落下した。そこからハルヒに手を引っ張られて、マクドナルドに連れていかれたが、ふと思い出したときには、ディアボルスがいない。すでに憑依された感じもなく、あの存在感も消えていた。大魔王を召喚したのは初めてだったし、勝手がわからないけれど、一度呼べばすぐに消えてしまうのか?」


 何気に、ラルスが長く話すのを聞くのは、プエラにとって初めてだった。新鮮だった。そもそもラルスの声を滅多に訊いて射ない。大概がフラーマのぎゃんぎゃんした声だったから。ラルス本人は、こんなに優しい口調なんだなと、プエラはちょっとだけ好意を持てた。


「そうね。ディアボルスは願いを叶えた。レグラ所長に殺されかけた私たちを救ってくれた。その救う形が、未開の地『イシカワケンカナザワシコーリンボー』に転移させるってことだった」


 プエラの説明にラルスは頷いた。そして、静かに、しかし力の入った口調で、こう返した。


「もしかしたら、ディアボルスは、元の世界に残っているか……ここには来ているけれど……どこかに隠れてて……」


「お待たせ!」とモミジが返って来て、ラルスとプエラの間に座った。持ってきたお盆の上には、多種のドーナツが10数個並んでいる。甘い香りにフラーマとロロは振り向いて、飛んでいるのか跳ねているのか、ふわふわとドーナツに近づいて、物珍しそうに見つめた。


「ロロさんには約束、これと、これね」


 モミジはチョコファッションと、チョコポンデリングを指さす。するとフラーマが、


「でけぇだろ! これを2個!?」


 とモミジを睨み付ける。意外だった。


「あれ、おっきい? フラーマさん小食なんやね」


「馬鹿言え、俺は大食漢だ! でもこんな、体の半分もあるパンを食えるわけねーだろ!」


「あ、そっか! うっかり私、人間の大きさで――」


「いいえイケます」


 ロロが割って入った。ポンデリングをひと摘み、妖精で言う両手いっぱい分を千切って、どこか自慢げにフラーマに見せつけて言った。


「いいですか、妖精はチョコレートでできているんです。何でって、チョコがおいしいと感じるからです。これくらいで音を上げるなんて、大食漢が聞いて呆れます」


 途中からよだれをたらたら垂らすロロは、妖精にとっては大きいだろう一粒を、強引に口の中へ詰め込んだ。そこから一瞬。ふわっと表情がとろけ、恍惚の笑顔を光らせた。


「ふわぁ……あ、あはははぁ……おいひぃ……」


 そしてもぐもぐと咀嚼を始めた。喉いっぱいにごっくんと鳴らし、さっさと次、はい次、我慢できない次、と一心不乱に食べまくる。それを見てフラーマも意気込んで食べだした。喉を詰まらせながら、ロロに闘争心を漏らし、オールドファッションに貪りついていく。モミジは笑顔で可愛い妖精たちを見下ろしてから、左右へ順番に目を向ける。


「さあ、プエラさんたちも遠慮しんといて。でもラルスさんはフラーマさんを見張っといてね。これじゃいつ喉を詰まらせて死んじゃうか……。でも、妖精ってそれで死ぬの?」


 なんて冗談交じりに言いながら、モミジもエンゼルフレンチをとって食べた。

 妖精が死ぬわけない。死ぬとしたらそれは人間だ。そんな常識もないほどに、この世界で妖精は、そして魔法使いは、全く浸透していないらしい。そう考え、


「もしかして……」


 と、ラルスはかねてから思っていたことを尋ねる。この答えによってはもう取り返しのつかないような事態に追いやられていることになるのだが、それでもラルスは、これ以上勘違いを続けたくない気持ちの方を優先させた。ドーナツを咥えながら、モミジがこっちを向いたところで、ラルスも見返し、言う。


「この世界って、魔法使いとか、いないのか?」


 誰よりも、プエラがびくりと、ラルスに向いた。

 

 思いのほかモミジの顔は変わらなかった。ジッとラルスの目を見つめ、ぱくりと一口ドーナツを食べる。そして、それ以上ラルスが喋ろうとしないのを確認し、ゆっくり前を向きなおす。繁華街の往来を眺め、もう一口ドーナツを食べてから、優しい声で話し出す。


「いいや、おるよ」


「え、いるの?」


 緊張していたプエラが反射的に返した。モミジは大きく頷いて、


「うん、私の両隣に」


「あ……いや、違くて、一旦私たちを抜きにして言うと……?」


「プエラさんたち抜き? うん、いると思う」


「え、いるの!?」


 モミジはもう一度大きく頷き、少し薄暗くなってきた空を見上げて、呟いた。


「だって世界は平和でしょ? 魔法少女が、悪を倒してくれとるんやよ!」


「ん……。えっと、えーっと……?」


 プエラは言葉を選んだ。イマイチモミジの答えは、本当に知りたいことを教えてくれていない。結局、魔法使いはいるのか? いや、今「いる」と断言してくれたけど、なんだか「いるに違いない」みたいなニュアンスで、えっと……?


「プエラさん、食べないの?」


 モミジに一つドーナツを勧められる。「これオールドファッションね」と説明されたものを手に取り、釈然としないまま、食べる。おいしい。おなかはあまりへっていなかったが、その甘い香りと心地いい触感で、すぐに二口目に向かった。モミジは楽しそうに話を始めた。

「今日ね、隣のクラスの新太郎くんが――」



 太陽の照明が落ちた。世界は素早く、夜になる。

 満月はびっくりしたように、夜空の真ん中に見参するが、数秒もすれば、さも遥か悠久からそこで浮き続けていたような、凛とした、冷ややかな顔で地上を見下ろす。

 世界の照明は落とされた。世界は素早く夜になる。

 繁華街も電灯も、呆気にとられたように真っ暗である。営業している店々からはまばゆい光が漏れ出すばかりで、外は夜。夜と言うよりは深夜。黒と言うよりは闇である。

 世界の光は落とされた。世界は素早く闇になる。

 静かな夜風が、ひゅうひゅうと街路樹を揺らす。街の動きはそれだけである。サラリーマンも学生も、家族ずれもカップルも、ピタリとその場で足を止め、誰もが誰も、自分が長い瞬きの中にいるものだと信じ込んで、目を開けようと瞼をこすった。もちろん目は開いており、その瞳孔は急速に大きくなっていく。


 世界に光は失われ、世界は素早く闇になる。



「……え」


 ラルスが声を漏らすと、ほとんど同時に、店内にはざわめく声が飽和した。がたがたとうるさく席を立ち、不安げな会話はそこら中に。ひたすらに混乱。若い女は耳を貫くほどの、とても人とは思えない叫び声をあげ、甲高く恐怖主張した。その恐怖は伝染し、しかめ面だった人たちも、泣きそうな顔になって、大窓から外を眺めた。そこには夜があるだけだ。


「ラルスさんプエラさん、フラーマさんロロさん!」


 モミジは立ち上がっていた。慌てている。その焦りっぷりにラルスたちも感化され、とても「どうした」と訊けないような、そんな空気になっていた。モミジは続ける。


「ごめんやけど、もうお別れね! 早くおうちに帰って! 遠いんだったら、ひとまず安全な場所に隠れてて!」


 投げやりに、少し叫ぶように言い、モミジはくるりと背なかを向けた。


「ど、どこ行くの?」


 がらんと変わった世界の雰囲気にのまれそうになりながらも、正気を保った冷静さが、プエラにこの質問をさせた。モミジは肩越しにプエラを見て、ふと、


「あれ、でも、プエラさんたちって……」


 と漏らして、少しの間、呆然と何かを考えてから、すぐに我に返り、店内の喧騒さに負けない大きな声で言った。


「どこって、逃げるにきまってるやろ! お兄ちゃんも心配してる! じゃね、バイバイ!」


 最後は無理に笑顔を見せ、モミジは走り出し、この店を飛び出した。

 ラルスとプエラの間の足元には、赤いランドセルが残されていた。


「なんだこいつら、どうしたってんだ」


 机の上、フラーマは胡坐をかき、ドーナツを頬張りながら言う。


「夜になったとたんにギャーギャー……。こいつら夜を知らねぇのか?」


 フラーマの隣、ちょこんと正座するロロは、チョコドーナツを口に運んでは相変わらず恍惚の表情を浮かべ、どうでもいいように返事する。


「そんな訳ないと思いますけど、どうなんでしょうか。この世界は私たちとはだいぶ違っていますから、本来は夜も来ないんじゃないですか? うまぁ~……」


 なんともお気楽な妖精たちを視界の端に置いて、プエラはラルスに体を向けた。


「ねえ、どーしちゃってのこの騒ぎ?」


「分からない。ロロの言う通り、なのかもしれない。確かにこの世界は変だ。魔法使いの希少価値が高すぎる……どころか、モミジの様子からすると、魔法使いが存在していないまである。モミジが「いる」と信じているだけで」


「……じゃあ私たち、爆弾発言しちゃったんじゃないの? 魔法使いだって言っちゃったわよ」


 動揺するプエラに、ラルスは至って冷静に答える。


「まあそれは過ぎたことだから……。それより今。街の人たちの慌てようは並大抵じゃない。ただ夜が……いつも通りパッと夜が訪れただけで、阿鼻叫喚だ。いったい何が……」


 ここで、話の途中から相槌を打たなくなったプエラに気付いて、ラルスは不審に思う。

 プエラはラルスを見ず、どこか遠くを見ている。ラルスも自然に、その方向に目を向ける。


 大窓の向こう。

 車道の先。

 服を買ったデパート『大和』。白色の大きな建物。その後ろ――


 夜の闇に浮かび上がる。


 禍々しく、とげとげとした大きな左手が、デパートの屋上を静かに包む。飛び出した青色の爪はギラリと光り冷ややかに壁をなぞる。

 周囲の建物で窮屈そうに、なんとか畳んだ、巨大な蝙蝠のような翅は、右に、左に。その巨体が動くのに合わせてゆらゆら揺れる。

 右腕を車道につけて、体を支える。どうやら『これ』はしゃがんでいるらしい。臀部を地面につけるように、両足を曲げ、暗闇に似た色の全身を、何とかその場に収めている。物陰から覗く子供のように……

 そう。

 『これ』は建物の横から。、ひっそり出した、蒼白く、巨大な顔面を、いつのまにかこちらに向けて。


「あ……」


 プエラは声を漏らした。『これ』と目が合った気がしたのだ。でも、どうだろう。こいつの充血した目玉は、いくらなんでも大きすぎる。月に照らされたその青白い顔は、大きすぎるのだ。両方のこめかみから延びる、黒紫色の、巻貝のような角も、綺麗に尖った鼻も、口端から下へまっすぐに伸びる青色の牙も、蛇のように出入りする紫色の舌も、全てが大きくて。

 奴を知らなくても、奴だと分かってしまうのだ。



 闇に紛れる大魔王ディアボルスは、にやにや笑って、この世界を見下ろしていた。

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