彼女の最後の日

 葬儀は粛々と執り行われて、僕は大して親しくも思い入れもない故人を前に、何の感情も抱かなかった。

 とはいえ、まさか葬儀を抜けだして映画館に行くわけにもいかなかった。身内が死んで泣いている母が、僕に傍に居ろと命じたこともあるが、大人だらけの場所で、僕という一人の子供は余りにちっぽけだった。

 葬儀が終わった翌日、僕は急いで映画館に向かった。

 この数日で行き慣れた道のりが、妙に長く、そして余所余所しいものに感じられた。道の途中で出会った黒猫が、大儀だと言わんばかりに欠伸をし、死んだ蝉を踏みつけて横切っていった。僕もその蝉を踏みつけ、道のりを急いだ。

 葛城は怒っているだろうか。葬儀だったのだと言えば許してくれるだろう。胸元に入れた大きな葬式饅頭をあげたら、少しは喜んでくれるだろうか。僕の頭の中はそればかりだった。

 映画館に入った時に、僕は其処に掲げられていた興行看板を見て足を止めた。

 そこには、一昨日見たのと同じように、あの映画のポスターが貼られていた。


「なぁんだ」


 葛城はきっと一日間違えたのだろう。まだ映画はやっているんじゃないか。だったら、僕は最後の一章を見ることが出来る。そして彼の声が聴けるのだ。

 晴れやかな気持ちで、僕は受付の前を通りすぎようとした。それを咎めたのは、しゃがれた女の声だった。


「お待ちよ」


 いつも寝ているはずのキャシーが、起きていた。

 白粉を塗りたくった顔は、深い皺のためにいくつも筋が強調されていて、水で薄めて使っているらしい口紅は、不格好に歪んでいた。


「あ、五十銭……」

「なんで昨日、来なかったんだい」


 僕はズボンのポケットを探っていた手を止めて、キャシーを見た。


「あの子は、ずっと待っていたよ」

「……葬式だったんだ」

「そうかい。まぁ人は死に、そして生きる。殊に此処では、いつ落盤事故で人が死んでもおかしくないときている」


 歯の抜けた口を、何度かすぼめながら、老婆は続けた。酒焼けした不快な声は、僕の腕に鳥肌を生み出した。


「いっそ、ただの寝坊や遅刻ならよかっただろうね」

「映画、まだやってるんでしょう? 入っても良い?」


 台の上に五十銭を置く。キャシーは気怠そうに一瞥した。


「要らないよ。どうせお前は映画を見れやしないんだ」

「葛城はいないの?」

「いるさ。けれど、会わせたくはないね。お前はきっとあの子を捨てるのさ」

「なんで? 捨てるとか捨てないとか、犬の子じゃないんだから」


 キャシーは鼻で笑った。それはいつだったか見た映画の、占い師の老婆とよく似ていた。砂漠の占い師は、主人公の失態を予言して、こんな風に笑うのだった。


「そんなに言うンなら会えばいいよ。ただ、これだけは知っておきな。あの子には昨日会わなきゃいけなかったんだ」


 僕は何か薄気味悪いものを感じ、それを振り切るように無言で歩き出した。

 上映室の中は薄暗くて、もう映画が始まっていた。何度も観たマリアの横顔が、スクリーンいっぱいに映しだされていた。

 葛城は、いつもの場所ではなくて、僕が座る位置に腰を降ろしていた。光に照らされる顔は、最初に観た時と同じ美しいものだった。


「ごめんよ、遅くなって。葬儀だったものだから」


 葛城は僕をゆっくりと振り返る。右半分が照らされて、左半分は影になって視えなかった。そして口元は三日月のように左右が吊り上がっていたけれど、笑っているようにも泣いているようにも思えた。


「ごめんね、岸沼君」


 謝罪を返された僕は、思わず立ちすくむ。

 体中の血が煮えたぎるように熱くなって、次いで一気に冷え込んだ。


「僕、もうマリアにはなれないんだ」


 葛城の声は、酷く歪んでしまっていて、蛙の鳴き声みたいだった。

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