彼女と僕の別れ

 その後のことは、覚えていない。

 逃げるように上映室を出た僕を、キャシーが心底軽蔑した顔で睨んでいたことだけが、妙に記憶に残っている。

 葛城に僕は何か言うべきだったのだろう。あれほどまでに僕を特別視してくれた彼に、何かしらの答えを用意すべきだったのだ。

 でも僕は、葛城の声を聴いた途端に、それまでの心情全てを否定された気分になった。それ以上、心を乱されないように逃げたのだ。

 僕が葛城に抱いていたいくつかの感情を、僕はその美しい声のためだと思っていた。だから目の前でそれが失われたことが恐ろしかった。


 あれから暫くして、葛城の声変わりは落ち着いて、少し低いけど心地よいものに戻った。僕はそれでも彼に話しかけることは二度と出来なかった。

 あの映画館から逃げた僕には、彼の声を聴いて何か思う権利など、塵ほども残されていなかった。


「貴方は良い声をしているわ」


 一年くらい経った後に、同級生の女が、そんな言葉を葛城に投げかけたことがある。

 僕は教室の片隅で、それを聞いて、思わず歯噛みをした。

 それは僕が言うべき台詞だった。僕のほうがずっと前から知っていた。今よりももっと美しくて儚い、彼の声を知っていた。美しくない彼の声だって知っていた。

 葛城は、恐らくその時に僕の方を見た。しかしその視線はすぐに外れてしまい、彼女の方へと注がれた。


「ありがとう。でも僕は自分の声が好きじゃないんだ」


 そうさせたのは、僕だったのかもしれない。

 やがて、あの忌々しい戦争が起きて、町は滅茶苦茶になった。映画館は瓦礫の山になって、噂では映写機を抱えたキャシーの死体が見つかったらしい。

 徴兵されていた僕がそのことを聞いたのは、戦争が終わってからのことだった。

 町にいた友達は四方に散ってしまって、葛城の行方もわからなくなってしまった。彼が町にいたことを覚えている人間も、すっかり減ってしまった。


 僕はそれから何年かして、偶然「マリア」の写真を町中で見つけた。

 とっくに映画はトーキーが主流になっていたが、無声映画時代を振り返る書籍なども、多く刊行されていた。

 僕はその書籍を手にとって、中を見た。映っている写真は、紛れもなくあの時のマリアだった。だが、写真に併記されていた役名は、全く別のものだった。恋人役の男も、海軍などではなくて、新聞社の記者だった。

 それ以上、読むことが出来なくて、僕は書籍を乱暴に棚に戻した。それ以降、その映画に関する記事を見かけていないので、もはや邦題もわからない。


 今でも僕は夢に見る。映画館で僕だけに与えられた声と、物語を。

 聴くことの出来なかった最後のストーリーは、二度と僕の前に姿を見せはしない。夢の中で、葛城の謝罪の声がするだけだ。

 それを夢に見て、渇望して、しかし決して手には入らない。それが、僕が出来る唯一の懺悔なのだろう。


 ーー君は特別だからね。


 僕が抱いた淡い感情は、まだあの映画館にあるのだろう。僕が置き去りにしてしまった「マリア」と共に。

 それは二度と取り返すことが出来ない、僕の「特別」なものだった。 


 ー終幕ー

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無声映画を聴きながら 淡島かりす @karisu_A

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