僕の誓い
「彼女はなんだってあんなに悲しそうな顔をしたんだい?」
アドルフが戦争に行き、彼女は家に一人となる。
彼女はアドルフの帰りを待ちながら、急に悲嘆にくれたり、かと思えば笑い出したりと忙しなかった。
僕は当初、マリアの元からアドルフがいなくなったことに喜んだものの、彼女がどうしてそんな態度を取るのか、さっぱりわからなかった。
「お国のために戦う恋人を誇らしく思うべきじゃないのかな」
「そこは岸沼君、子供っぽい言葉だよ」
スクリーンを僕に見せまいとしてか、葛城は最初の日と同じように僕の前に立ち塞がっていた。
それで得意げに言うものだから、僕は唇を尖らせて不満そうにしてみせた。
「君だって子供じゃないか」
「僕は彼女だ。子供じゃあない」
「じゃあ大人なのか」
「どっちだっていいじゃないか」
その通りだと僕は思って、口を閉ざした。
葛城が彼なのか彼女なのか、子供なのか大人なのかなんて、実に意味のない議論だった。葛城は、そういう存在なのだ。僕の持っている狭い了見で、定義つけることなど、出来やしなかった。
「アドルフがいなくなると、彼女は淋しいのさ。でもね、淋しいだけじゃ、母親がいなくて泣き叫ぶ子供と一緒だ。彼女はもっと、もっと、深いことを考えているんだよ」
「例えば?」
葛城の目は細められ、背後から漏れ落ちた光によって、長い睫毛が影を作った。
唇が遠慮がちに開いて、喋り疲れたのか先ほどよりも細い声が発せられる。
『戻ってきた貴方が、私を嫌いになったらどうしようかしら』
喉を鳴らすような音。泣いている演技のように思えたが、葛城の口元は微笑んでいた。
『貴方は私をまだ好きでいてくれる?』
映画の場面は次々に流れていくが、僕の視界は笑っている彼しか捉えられない。何か続けて言うかと思って身構えていたが、彼は何も言わなかった。
僕が何か言うのを待っているのだと、その時に唐突に気付いた。それと同時に頬が熱くなって、心臓の音が体の中で煩く響く。
何を返すべきか、僕には全くわからなかった。僕はアドルフでもなければ、この映画の登場人物でもなくて、無銭鑑賞している子供に過ぎなかった。
考えに考えた挙句に口から滑り出た言葉は、馬鹿馬鹿しいほど陳腐だった。
「君が好きなのはアドルフだろう」
『えぇ、そうね。貴方は私の愛おしい可愛い人だわ』
切ない声は僕の鼓膜を容赦なく打ち付けて、僕は自分の子供っぽい返事に辟易した。
どうしたって僕は、あの色男には勝てないのだろう。マリアはアドルフのもので、アドルフはマリアのものなのだ。そしてそれを幸せだと受け止めたマリアは、そのせいで苦悩の中にいる。
「僕はアドルフじゃないから知らないけど」
目の前にいる「マリア」を、傷つけたくない一心で僕は頭をひねる。彼になれないのであれば、せめて彼女を傷つけるべきではない。
「君のことを嫌いになることなんて、絶対にないよ」
無理に言葉を探し当てた喉は、カラカラに乾いていた。僕が彼女を慰めるために出した言葉は、僕の心臓や喉を抉りとってしまったかのようだった。
「……君は優しいね。マリアには」
葛城が妙な言い回しをする。馬鹿にされているのだと思った僕は、殆ど反射的に言い返した。
「君が悪いんだぞ。僕を試すようなことをするから」
「試したつもりはないよ。ただ」
言葉を切った葛城は、右手の人差し指で唇を軽くなぞる。
「僕、君に甘えてみたんだよ。君があまり優しいから」
「それは、僕が特別だからかい?」
「他の連中に、こんなことするもんか」
悪戯っぽい笑みを見せた後で、葛城は少々真剣な顔をした。
「明日で最後だよ。岸沼君、きっと来てくれなきゃ嫌だよ」
「来るよ。それじゃ僕が約束を破ったことがあるみたいじゃないか」
「そんな意味じゃないよ。でも明日は最後だから、絶対に来て欲しいんだ」
映画のフィルムは映画館毎に使用期間が決まっていて、それが終わると次の映画館へと渡される。このフィルムも、次の貸出予定があるのだろう。其処には弁士がいると良いが、と僕はぼんやり考えていた。
映画の内容なんて、もう僕にはどうでもいいことだった。
「うん、ちゃんと来るよ。指切りでもするかい?」
「そんな女みたいなことしないよ。岸沼君は優等生だし、ちゃんと約束は守ってくれるって、僕は信じてる」
僕は、それこそ女の子みたいな葛城の言い回しに笑ってしまった。明日、また早く来て、今日のことをからかってやろうと思ったぐらいだった。
近所に住む母方の伯父が亡くなったのは、その日の夜のことだった。
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