彼女の四日目

 映画館への道を蝉の音が埋め尽くしていた。

 一歩進む度に、鼓膜から粘膜から、ありとあらゆる僕の体の中を蝉が満たしていくような気がした。

 去年の今頃は蝉取りに興じていたことを思い出しながら、あれほどまでに楽しかったものが、今では何の面白みも感じなくなっていることに少し驚く。

 虫取りも紙芝居も、今の僕には遠い昔のお遊びと成り果てていた。


「早いね」


 映画館の中を掃除していた葛城が、そう言って出迎えた。首にかけた手拭いが新しいものに変わっていた。

 といっても新品ではなく、それもまた誰かの使いふるしのようだった。元は赤かったと思しき模様も、すっかり日に焼けて消えかけている。


「ちょっと待っててくれよ。少しばかり時間があるから」

「うん。構わないよ」


 僕は長椅子に座って、上映時間を待つ。何も映っていないスクリーンは、改めて見ると随分黄ばんでしまっていた。ところどころに修繕した跡が見える。

 でも映画さえ綺麗に映れば、黄ばんでいようと裂けていようと、どうでも良いことだった。現に僕は今まで、スクリーンの状態など気にしたことはなかった。マリアの顔を見て、声を聴くのに夢中だったのもあるかもしれない。

 ぼんやりしていると、葛城の声が聞こえてきた。だがそれは僕に話しかけているものでも、まして彼自身の会話でもなかった。彼はその綺麗な透き通った声で、歌を歌っていた。


「君恋し、かい?」


 歌詞を聴いていた僕は、殆ど無意識に訊ねていた。葛城の歌が止んだと思うと、思いがけず近くから声がした。右後方から葛城が、少しぶっきらぼうな調子で返す。


「歌の名前は知らないよ。僕の家に来る男が、酒に酔うと歌うのさ」

「多分、そうだよ。僕もラジオで聴いたきりだけど」


 映画の主題歌だったその曲を、僕はよく知っていた。だが、歌の名前を知らないという葛城に合わせて、思わずそんな嘘をついてしまった。


「良い曲だから、覚えちゃったんだ」


 その男というのは、葛城の母親が連れ込んでいる恋人か、あるいは客なのだろう。僕はそう思いながらも、深くは触れなかった。


「岸沼君も好きなら、嬉しいな」

「僕も好きだよ」


 葛城が小さく笑ったのだけ聞こえた。

 やがて映画が始まってからも、昨日の続きのシーンになるまで、彼は歌を歌い続けていた。僕にはあまり歌の良し悪しはわからないけど、彼の声が綺麗なことだけは理解していた。

 いつまでも続くかのようだった歌は、唐突に彼自身の唇によって遮られる。スクリーンの中の映像は、昨日まで見たシーンに近付いていた。


『アドルフ、私はとても幸福なの』


 マリアの家には、アドルフの物が増えていた。

 小洒落た外套、山高帽。上等なパイプに革の靴。それらを整えながら、マリアは幸せそうに微笑む。


『このまま、二人で居られたら幸せだと思うわ。そのためなら、何をしたって構わないの』


 場面がそのまま連続して何度か変わった。

 食事をする二人。散歩をするマリア。電話をするアドルフ。焼きたてのパイを口にする二人。そんな光景が続いた後に、稲妻が落ちる映像が差し込まれる。


『アドルフ。何て言ったの?』


 怯えたような表情のマリアが、スクリーン全体に映る。下唇が震えて、見開かれた目の周りを縁取る睫毛も揺らしていた。

 食事の支度がされたテーブルの傍に立った彼女は、その細い腕を天板につけて体を支えている。倒れそうな自分を、その二本の腕だけで留めているようだった。


『戦争が始まると言ったの?』


 アドルフは新聞を読んだまま、マリアの方を見向きもしない。

 眉間に皺を寄せ、口をへの字にして黙り込んでいるアドルフ。きっと僕はその時、彼と同じ表情をしていたに違いなかった。

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