彼の戯言

『アドルフ、私は貴方のことが好きなのよ』


 色男が笑みを浮かべる。何か口にするが、何を言ったかはわからない。だが、続いて映しだされたマリアの微笑が全てを物語っていた。

 夕日の射す湖畔、二つの影が混じりあう。僕が惨めな気持ちでそれを眺めていると、葛城が声を掛けた。


「随分、可哀想な顔をしているじゃないか」

「そんなわけないだろう。今日はもうお仕舞いかい?」

「結構喋ったから疲れてしまったよ。それなのに君と来たら上の空なんだもの」


 マリアとして喋っている時と違って、一人の少年に戻った葛城の声には少し雑味が入る。僕はそれも決して嫌いではなかった。マリアである時の葛城は、僕の指一本すら届かない場所にいるかのようだったから。


「湖に見とれていたんだよ。波の色を見ていたのさ」

「そうか。君は詩人だね」


 馬鹿にする調子でもなく、恐らく殆ど純粋な賞賛を込めて彼は言った。僕は気恥ずかしくなって、無意味に視線を泳がせる。


「君はあの色男を見ていたんだろう」

「勿論さ。マリアの相手は彼だもの。ねぇ、上の空でも見ていただろう? 彼がマリアに渡したブローチ。天使の横顔が掘られた美しいブローチだよ」

「あれはカメオと言うんだよ。僕、母様の鏡台に入っているのを見してもらったことがある」


 葛城が目を見開く。そこにスクリーンの光が差し込んで、右の目を照らしだす。少し茶色い虹彩に興奮が入り混じっていた。


「それは素敵だな。僕、あぁいう綺麗なものって見たことないんだ。うちにあるのは二束三文のガラクタばっかりだもの」

「君のお母さんは持っていないのかい?」

「持ってるもんか」


 その時、葛城が僕に見せたのは、嫌悪と愛情の入り混じった複雑なものだった。しかしそれは彼の笑みの奥に、瞬時に隠されてしまった。


「君が上の空だった理由を当ててあげようか」

「言いがかりだ。僕は」

「マリアに恋をしたんだろう?」


 僕は言葉を飲み込み、彼を睨みつける。しかし葛城は至って涼しい顔をしていた。

 先ほどまで、花の匂い立つような言葉を紡いでいた口で、その花を枯らすような意地悪を言う気持ちが、僕には理解出来なかった。


「マリアは綺麗な女だもの。恋をしてしまうのも無理はないね。生憎、裸になるほど安い女じゃないけどさ」

「キスはするじゃないか」

「キスガールと一緒にしちゃ困るよ。あれは脱脂綿に消毒液を含ませて、キスで御座いと男に売りつけるだけじゃないか。それとも、同じキスだと思うのかい?」


 点滅するスクリーンの光が、葛城の肌の陰影を揺らす。口元に笑いを浮かべているだけなのに、怒っているようにも、泣いているようにも見えた。

 なんだってこんなに点滅するのだろう。しかし僕はスクリーンを見ることが出来なかった。僕は葛城だけを見ていた。僕を追い詰めて笑っている彼を、どうにかして言い負かしたいとすら思っていた。

 僕が彼の特別であるために。アドルフから彼を引き剥がしたいがために。


「君は僕が、彼女に恋慕したと言いたいんだね」

「違うのかい?」

「全くお門違いもいいところだよ。僕はただ、自分があの中に入ったらどうするかと思っていただけだ」


 僕は自分で何を言いたいのかわからないまま、焦燥した気分を抱えて話し出した。

 自分が銀幕の中に居れば、彼より上手に彼女を導き、彼より上手く魚を釣り上げるであろう。竹ひごで作った飛行機を高く飛ばして、彼女を驚かせることも出来るだろう。それに何より、僕だったら彼女から告白をするなんてことはさせないだろう。

 そんなことを一気に捲し立てるうちに、高揚した僕の舌は、勝手に答えを見つけてしまった。


「僕は彼女の声が聞けるアドルフが、羨ましいだけだ」

「声は君だけが聞いているよ。僕が彼女を……」

「君はマリアとして僕に話しかけてくれたりしないじゃないか」


 そこまで言ってから、僕は自分の醜態に赤面した。慌てて立ち上がり、出口の方に向かう。その背中に、葛城の声が投げかけられた。


「岸沼君」


 扉に手を掛けて振り返る。スクリーンにはマリアの顔が映しだされていた。

 その前に立っている彼の表情は、逆光になっていて見えなかったが、声だけは乱れること無く、僕に届いた。


「僕は君だけに話しかけてるんだよ。最初から、ずっと」


 僕は耐えきれなくなって、映画館を飛び出した。そのまま居続けたら、あまりの嬉しさに叫んでしまうに違いなかった。

 子供らしい喜びに満たされていた僕は、スクリーンに映っていたマリアの悲しそうな顔のことなど、大した事とは思っていなかった。

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