彼女の三日目
『ねぇ、聞いてよメアリー』
スクリーンの中の彼女は、嬉しそうに誰かに電話を掛けている。
外国の電話も日本のものと変わらない。円錐型の受話器を耳に当てて、直方体の送話器に向かって話しかけている。だが送話器の装飾がとても凝っていて、僕が知っているものよりもお高く止まっているように見えた。
『アドルフがね、今度湖に行きましょうって。えぇ、そうよ。ボート遊びをするの』
この町にも電話は二つある。多分、炭鉱会社にも一つあるのだろうが、僕にとっての「町」は炭鉱部分を殆ど有していなかった。
炭鉱によって動いている町で、それを意識しないことは難しい。父様も、近所のおじさんも、隣に座る葛城だって、炭鉱で簡単な手伝いをして日銭を得ている。しかし僕にとって炭鉱は、薄布を隔てた向こう側にあるもののようだった。手を伸ばしてその布を剥ぎ取らない限りは、炭鉱の景色も匂いも僕には届かない。
『そんなふしだらな真似はしないわ。けどそうね、彼は素敵な男性だもの』
この映画のようだ、と僕は思った。
スクリーンに映しだされているのは、マリアという女を演じる女優。彼女の一挙一動は、お芝居に定められたことであって、彼女自身ではない。そしてその彼女の声を出しているのは、僕の隣にいる同い年の少年だ。
スクリーンに大写しになった彼女も、隣に座る彼も、僕のすぐ近くにあるのに手が届かない。
こんなものに心を動かされるなんて、馬鹿げたことではないか。僕はそう思いながらスクリーンの中の彼女の唇の動きを追う。
昨日の雷雨で頭が冷やされたのか、あるいは少々この状況に慣れてきたのか、僕はどうにかして冷静な――数日前の僕に戻ろうとしていた。
だが、彼女も彼も、そんなことを許してくれるほど甘くはなかった。
『キスぐらいはするかもしれないわ』
頭を思い切り殴られるような感覚に、僕は目を見開いた。
キス、と彼女は言った。僕だってキスを知らないほど子供ではない。街角に立つ白粉お化けが、真っ赤な紅を塗りたくった口で、男とそういうことをしているのは、よく見かける。
だが、あれは商売だ。男に媚びを売って、そして金を得るための道具の一つに過ぎない。それに対してマリアのキスは違う。親愛でもなければ商売でもない、愛情のキスだ。
『夕暮れの湖でキスをするのよ。素敵でしょう』
葛城の透き通った声のせいか、マリアの弾けるような笑顔のためか、僕は自分がとんでもなく汚い奴のように思えてきた。
キス如きで煩く喚く心の内を、二人に見透かされているような錯覚に陥って、一人で顔を赤くしたり、青くしたりを繰り返す。
可憐な彼女の口は、喋る時のみで飽きたらず、それを閉ざす時ですら僕を悩ませるのだ。そして美しい声は、ただそれだけで僕の心を締め付けた。
数日前の僕には、もう二度と戻れそうになかった。
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