雨の中のステップ

 空に黒い雲が立ち込めたと思うと、大きな稲光と共に雨が降り始めた。

 こんな土砂降りの中を出かける酔狂な人間はいないが、元から外にいた僕のような人間にとっては別である。雨宿りをするか、来た道を戻るか、そのまま目的地を目指すか、という選択肢を与えられるのだ。

 映画館まであと少しばかりのところで雨に降られた僕は、迷うこともなく走りだす。悠長に雨宿りなどしていたら、映画が始まる時間に間に合わない。それに葛城が待っているかもしれないと思うと、僕に立ち止まっている余裕はなかった。


「あれ、来たんだね」


 映画館の前に、葛城が立っていた。

 宣伝用の立て看板に脱いだシャツを引っ掛けて、雨の中にその体を晒していた。


「何してるんだい?」

「見ればわかるだろう。雨の日は、銭湯代を節約出来る絶好の日なんだ」


 白い歯を見せて笑う彼を、僕は暫く呆気に取られて見ていた。しかし、自分がその間にも濡れ続けていることに気がつくと、映画館の庇の下に体を滑りこませる。


「銭湯代も馬鹿にならないよ。僕、あそこで手伝いをしてるんだけどね。それでも毎回タダで入るってのは決まりが悪いからさ」

「三助かい?」


 三助というのは銭湯にいる男衆のことで、釜焚きや湯加減の調整、番台などを務める。

 この寂れた町の銭湯にも三助はいて、偶に父様が「流し」を頼んだりしている。三助に背中を流してもらうのは大人に許された贅沢というやつで、僕みたいな子供には遠い存在だった。


「馬鹿言っちゃいけないや。あれは難しいんだから。僕みたいな子供じゃ出来ないよ」


 雨水で髪を洗いながら、葛城は言った。

 その背中は、日に焼けた両腕や顔と比べると随分白かった。スクリーンの中のマリアも肌が白かった、と思い出しながら僕は尋ねる。


「映画はまだ始まらないのかい?」

「もう始まってるよ。けど、今日は駄目だ。雨宿りの客が入っちゃったから」


 それを聞いた僕は、そんな可能性に気付かなかった自分が嫌になった。

 この辺りを歩いていた者が雨に打たれ、此処に入ることなど、わかりきったことだった。


「彼女に会うなら、また明日おいでよ」

「そうするけど、この雨じゃ帰れないよ」


 強い雨で声を掻き消されそうだった。僕はそれに負けないように声を張るが、葛城はいつもの調子で答える。彼の綺麗な声は雨の中でも失われはせず、僕の鼓膜に全て届いていた。


「じゃあ君も髪を洗うかい? 結構気持ちがいいもんだよ」

「止しとくよ。それに石鹸もないじゃないか」

「君はそうだろうね。僕とは違うもの」


 葛城は手拭いで顔を擦ると、僕の方を振り返った。炭鉱でついた煤汚れは雨水ぐらいでは落ちないらしく、その鼻頭は相変わらず黒く汚れている。しかし目元の汚れは洗い流されていて、その差が僕には可笑しかった。


「じゃあどうしようか。折角ここまで来てもらったのに、手ぶらじゃあ可哀想だ」

「別に構わないさ。僕、勝手に来ただけだもの」

「そうだなぁ」


 葛城は雨の中で首を少し傾ける。耳の中に雨が入ったらどうするのだろう、なんて心配する僕は、ただの臆病者だった。

 疑問符の下に全てを押し殺した僕は、映画館の外で会う葛城を、直視することを恐れていた。

 何故恐れているのかは、わからない。彼と此処で出会ってから、僕は僕のことなど、何一つ理解出来ないままだ。


「そうだ。マリアのステップを踏もう。昨日、観ただろう?」


 アドルフに贈り物をされたマリアが、嬉しそうに家の中で踊る。海外の踊りなんて僕には無縁だし、それが果たして本当に踊りなのかもわからない。

 でもその時のマリアの顔は、とても晴れやかだった。ステップの良し悪しなど、どうでもよくなるほどに。


「僕、とても上手く踊ってみせるよ。だから見ていてくれよ」


 映画館の中では自分を見ることを拒絶する葛城が、全く逆のことを言ったので僕は戸惑った。でも、見ろと言われたのだから目を逸らす理由はない。

 雨の降り注ぐ地面で、葛城は幼い足取りでステップを踏む。その表情は笑みと共に歓喜をも浮かべていた。

 僕はその時、確かに其処にマリアを見た。

 状況も国も性別も姿形も、似たところなどないはずなのに、僕の目には優雅にステップを踏むマリアが見えたのだ。間違いなく彼はマリアで、其処で踊っている。僕はそう確信した。


『私、ダンスは得意なのよ。上手でしょう』


 昨日のマリアの台詞が、記憶の中から僕に囁く。それに答える代わりに、僕は下手くそな口笛を吹いた。

 葛城が踊るのを止めても、僕の視界ではマリアがずっと踊り続けていた。

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