僕の感情

 昨日と違って、葛城は十五分喋ってから口を閉ざした。


「なんで昨日より長いんだよ」

「だって、君が不服そうな顔をしたじゃないか」


 確かにそのとおりだが、僕は今日だけは五分でもよかったと思っていた。なんだったら、あのいけ好かない色男が出た時点で、大声を出して中断したってよかったとすら考えていた。

 それをしなかったのは、葛城の口から出る「彼女」を殺してしまってはいけないと思ったからである。僕だってもう大きい。住職のお説教にうんざりして泣きわめく幼児とは違うのだ。

 それでも、僕の心は妙にざわついたままだった。その感情をどう言えばいいのか、僕にはわからなかった。

 従姉妹が結婚した時に感じた寂しさよりも、もっと強烈で痛くて辛い。心臓を垂直に射してきたと思ったら、今度は真横から刺される。つまり避けることが出来ない痛みだった。


「あの男が、彼女が恋をする相手なのかい?」


 辛うじて声を絞りだすと、女優から少年に戻った葛城は驚いたような顔をした。スクリーンの中では、彼女と色男が何か話している。あの可愛らしい口でどんな睦言むつごとを囁いているのだろう。知りたいような、知りたくないような、そんな曖昧なことを僕は思っていた。


「なんだい、気付かなかったのかい? 勿論彼が彼女の相手だよ。良い男だろう」


 まるで自分の身内であるかのように、葛城は自慢気に話す。

 否、まるで自分の恋人のように、と言ったほうが相応しいかもしれなかった。


「彼は軍人なのさ。お国のために戦う勇敢な男だよ」

「軍人だったら、何処で戦うんだい?」

「海だよ」


 当然とばかりに葛城は言う。僕はまだ色男に対して怒っていたから、その不機嫌を彼にぶつけるように反論した。


「海なんか出てきやしないじゃないか」

「海に住んでなけりゃ、海軍になれないわけでもないだろう? 現にタバコ屋の親父なんか、一等兵だったことを自慢してる。こんな場所で生まれたのにさ」

「じゃあなんで君は彼が海軍なんてわかるんだ」

「だから」


 葛城の声が湿ったような響きを持つ。僕は一種の恐怖の予感に身を竦めるが、彼はお構いなしに言葉を続けた。


「僕が彼女だからさ」


 葛城の顔が照らされる。画面が白くなったからだ。その白さが、スクリーンの中の彼女が着ているワンピースのためだと、僕は知っていた。

 マリアのワンピースが、彼を照らす。疑う僕のことを嘲笑うかのようだ。信じない僕が愚かなのだと、ワンピースの裾が笑っている。


「彼はタバコ屋の親父のようなつまらない男じゃあない。何しろ大佐なのだからね。白い軍服、サーベル下げて、大海原で舵を切る」


 うっとりとした表情で葛城が言うので、僕はつまらなくなって下唇を噛みしめる。彼がマリアであるならば、彼が恋しているのもあの色男なのだ。それが僕には我慢ならなかった。


「良い男だろ?」

「好きじゃあないや。僕は阪妻ばんつまのほうがいい」


 そう返すと、葛城は何処か得心がいったように浅く吐息した。


「確かに君、『石松の最期』を夢中になって観ていたっけね」


 僕は思いもよらぬ言葉に息を止める。二月に上映されていた阪東妻三郎の映画で、僕は大人に混じってそれを二度も観たのだ。


「僕、此処で働いているからね。岸沼君が来たのだってすぐにわかったよ。去年の、ほら夏川静江の出てた映画も観ていただろう?」

「よく覚えているね」

「そりゃそうだよ。言ったじゃないか。君は特別だもの」


 先程までの不快な感情が、何処か遠くに押し流された。

 僕はもう一度下唇を、今度は笑みを堪えるために強く噛んだ。

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