彼女の二日目
映画館への道を、早足で進む。走らないのは、僕なりの自尊心というやつだった。朝早く起きて急いで終わらせた漢字の書き取りも、体操も、僕はあくまで「偶然早く終わっただけ」だと、自分自身に言い聞かせていた。
そうしないと飲まれてしまいそうだったからだ。映画館でぽっかりと口を開く扉。その奥で待っている葛城に。
「君は随分早く来たね」
葛城は破れた手ぬぐいで顔を拭きながら、僕にそう言った。
上映室の中は綺麗に片付いていて、その代わりに彼が持っている塵取の中には、ゴミが沢山入っている。
「片付けてくるから、座って待っていなよ」
「手伝おうか?」
「なぁに、もう終わったよ。僕は掃除が得意なんだから」
微笑みながら言う彼を相手に、僕は少し口ごもってから「そうかい」とだけ呟いた。
葛城が部屋を出て行くと、僕は長椅子に腰を下ろした。長いこと修繕もしていない椅子は、僕が座っただけで不穏な音を立てる。
「あ、ベーラムだ」
ふと呟く。昨日とは違って、今日は良い匂いがした。
月桂樹とラム酒が交じり合った、鼻孔を押し広げるような独特の匂い。少し洒落っ気のある大人が髪につけていることが多い化粧水だ。昨日の客の残り香かなと考えて、少し楽しくなる。
夜中に来る大人たちが此処で何をしているかは知らないが、僕の楽しみに比べれば実に下らないものに違いない。そんな優越感があったからだった。
「岸沼君」
不意に声を掛けられて、僕は背筋を伸ばした。いつの間にか戻っていた葛城が、少し前かがみになって顔を覗き込んでいた。
「どうしたんだい、嬉しそうな顔をして」
「そんな顔を僕がするもんか。ベーラムを嗅いでいただけだよ」
「あぁ、昨日の客がつけててね。それがまぁ恥じらいもなくたっぷりつけてたものだから、昼間になっても匂いが落ちないんだよ」
葛城はそう言ったが、僕はその匂いが気に入ったので黙っていた。
映画が始まっても、昨日と違って僕の嗅覚から匂いが抜けていくことはなかった。新鮮な気持ちで、昨日も見た冒頭の十分を眺める。
「マリアは美しいね」
そう言うと、葛城は含み笑いをした。
それは僕達のような年齢の子供がするものではなくて、どこか大人びていた。去年、東京の親戚の家で会った、従姉妹のことを思い出す。いつも覗いている八重歯を、その時ばかりは唇の下に隠して笑うのだ。あの時は彼女が一番美しいと思っていた。
昨日見た場所まで差し掛かると、葛城は小さく息を吸った。
『これで私のお城が出来た』
家具の揃った部屋で、軽いステップを踏みながら女が言う。実際に声を出しているのは葛城だが、僕にとっては同じことだった。
『こうしてみると、悪くはないわ。壁に染みがいくつもあるのと、隙間風があるのだけはうんざりするけど』
楽しそうに弾む声。僕はうっとりと映画の中に引き込まれる。ベーラムの香りのお陰で、まるで僕まで同じ家にいるようだった。
翻る彼女のスカートを追いかけるように、僕はその家でステップを踏む。
そんな甘美な夢を打ち砕いたのは、スクリーンに突然現れた一人の男だった。
『アドルフ。来てくれたのね』
弾んだ声が男を出迎える。スクリーンの中で、女は玄関に立つ男の元に駆け寄って、躊躇いもなく抱きついた。
『会いたかったわ』
僕は服の胸辺りを強く握りしめる。唐突にベーラムの香りが、煩わしく感じられた。
昨日、葛城が僕に囁いた言葉が蘇る。あの時はただの言葉だったものが、まるで魚の小骨のように僕の頭の中に引っ掛かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます