彼女の一日目

 言われた通り、翌日の昼に映画館に行くと、キャシーは受付で転寝をしていた。

 上映用の部屋で待っていた葛城は、彼女は昼頃は常にあんな調子だと教えてくれた。


「さぁ、約束だ。僕に映画の内容を教えてくれ」

「せっかちだなぁ。まぁ兎に角座りなよ」


 昨夜、酔っぱらいでもいたのか、部屋の中には妙に酸っぱい臭いがした。暑さのせいでそれが膨張し、不快な臭いを発している。


「この臭いはどうにかならないのかな」

「なるんだったら、そうしているさ。なぁに、映画の前ではこんなことはどうだって良いことだよ。映画は観るもんだよ。嗅ぐものじゃないったら」


 葛城は僕を説き伏せてから、一度部屋を出て行った。

 部屋が暗くなり、映画が始まったところで再び戻ってくると、僕の隣に腰を下ろした。なんとなく目を向けると、彼のいたずらっぽい目が直視していた。


「僕を見ちゃあ駄目だ。映画を見ていなよ。僕、彼女の言葉を言うからさ」


 スクリーンの中に、田園風景が映し出される。遠くの山々までが美しい、日本にはないような景色だった。


「物語はこの町から始まるのさ。主人公はね、マリア。うん、マリアという名前なんだ」


 馬車に乗る女優。スカーフで髪を隠した姿がとても色っぽい。口元は固く結ばれていて、どこか不満そうに見えた。


「マリアは男に捨てられたんだ。それで田舎に帰ってきたんだよ」

「男に捨てられると田舎に帰るのかい」

「五丁目の米屋の娘がそうじゃないか」

「知らない」

「じゃあ仕方ない。そういうものなんだよ」


 馬車を降りた女が辺りを見回している。その口元が動いた後に、スクリーンが暗くなって、白い文字で台詞らしいものが表示された。

 その時、僕の隣で葛城が口を開く。


『こんな町に戻ってくるとは思わなかったわ』


 女言葉のそれに、僕は心臓が一度高鳴るのを感じた。

 葛城の声は、女に聞こえるように意識しているのだろうか、甘ったるくて軽やかだった。甲高いけれども耳障りということはなく、僕と同じ性別のはずなのに、否、だからこそ不思議な余韻を持っていた。


『あぁ、うんざりする。早くこんなところを出て行ってしまいたい』


 綺麗な田園風景の中で吐かれる台詞は辛辣だ。細い腰を際立たせるコートを身につけた女は、大きなトランクを抱えたまま畦道を歩く。トランクの持ち手に付けられたリボンが風に揺れていた。

 小さな家に入った女は、何もない室内を見回して大仰に肩を竦めてみせる。あまりの何もない家を見て、僕は先ほどの忠告も忘れて葛城を見た。


「この女は田舎に戻ってきたんだろう。家族はないのかい?」


 振り向いた葛城が目を細め、口角を持ち上げる。汚れた鼻の頭が、スクリーンの光に照らされて黒光りしているように見えた。


『父は亡くなって、母は行方不明。この家には私だけ。此処が私のお城』


 スクリーンから目を逸らしているはずなのに、僕は目の前にいるのが葛城ではないように思えた。コートの裾をなびかせ、スカーフをつけた外国の女が、小汚い椅子に座っているように見えたのだった。


「見ちゃいけないったら」


 再びスクリーンに視線を戻す。だが高鳴る心臓は、僕の精神を平常に戻してはくれない。

 横を向いたら、そこに座っているのはみすぼらしい少年ではなく、美しい女なのではないだろうか。そう思いながらも、見てしまえば二度と僕の前に「彼女」が現れないような気がして、僕は必死になってスクリーンを見つめていたのだった。


『私は、此処で生きていかなきゃいけないのよ。この誰もいないお城で』


 入った時に感じた嫌な臭いは、すっかり僕の意識から抜け落ちてしまった。

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