20.安息の眠り

雨雲の縁から現れた彼女はひと通りと降り仕切る雨粒と共に落ちていく。


ペントハウスのバルコニーに降り立ち、恐る恐ると天眼を開くとその干渉に立ち尽くすしかなかった。

・・・

間も無くしてバルコニーの窓を開けたアナスタシアに言葉はない。

「天生の痕跡は消えたから…だから…」

その声はルシファーの側に付いていたラファールにも天言で伝えた。

「早く入りなさい…」

俯いたアイレーナは力なく歩いた。

部屋に入るとずぶ濡れていた体は自浄した。

ベッドに伏せていたルシファーはまるで人のようにうなされていた。熱を帯び微かに漏らす息。氷水で冷やされたタオルが当てられている。

「殆ど意味なんてないけれど、今はこれ位しかして上げられない」

ラファールはタオルを絞り直すと額に当てがう。

翼を失い人の身に落ちるか…いいや、そもそも天力の多くを失っている今の状態ならば生きるか死ぬかの問題だろう。

付き添い役を申し出たアイレーナは目を覚ますまで側を離れまいと心に誓っていた。


「(…もしも人の身に落ちるような事があれば…彼はそれを望むだろうか…)」

「(…私だったら多分…)」


朦朧とする意識の中でアストラルを手にしたあなたを見て私は思ったのよ。私を解放してくれるのだと…

それなのに…

「何であんなバカな事したのよ…」

横顔に呟くとタオルを新しくした。 何度も何度も新しくした。

そうして時間は流れていった…


…何度かうなされてはいたが今度の様子は変だった。呻き声に俯いていた視線を上げるとアイレーナはその有様に悲しみを露わにした。

「い、いや!」

血塗られて溶けていく瞼の内で、剥き出した眼球も落ちていく。

事態を察した二人は部屋に駆け付けたが出来ることはなかった。天使の輪をかけようにも傷口に触れようにも、やはり傷は癒えてはくれない。彼はまだ天使なのだ。


「私達には何もできないの…」

苦しみに声を上げ、のたうつ姿に、いたたまれずアイレーナは彼を強く抱き締めた。

「…ごめんなさい、ごめんなさい」

そう何度も呟きながら抱き締めていた。


(もう限界だろう…)


天使のまま彼を送る事が私達に出来る最後の事。苦渋の中で手の内を開いていくと、思い掛けずに上がった声に、ラファールはアストラルを手にするのを止めた。

「え⁉︎、どう言う事⁉︎」

アイレーナの翼は元々ルシファーの片翼から成されたものだ。それ以外の理由など考えられなかった。

アナスタシアの声に身を起こすとルシファーの傷が治癒していた事に、彼女自身もそれを直ぐに理解した。

しかしそれも十分ではない。身体が離れると治癒し始めた傷口も引き潮のように開いていく。

彼女は消失させていた翼を途端に背にした。

「目を覚ますまで傍にいるわ…」

シーツを上げると腹部の傷口も開いていた。その腕で抱き寄せ、翼で包み込むと傷の治癒と共にルシファーの様子は穏やかになっていった。

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