17.別れ
「(降りてきてくれ。もう直ぐ着く)」
取り立てて手にする物もなくペントハウスからロビーへと下った三人は、歩道につけていた車に乗り込むと静まり返った夜の道を走り出していった。
一帯に人の気配がなければ場所はどこでも構わなかった。
月明かりが冷めたように、いよいよとその時は訪れようとしている。
夢守りの甲斐あって窺える彼女の心色に陰りなどない。この様子なら何の心配もいらないだろう。
別れの言葉を告げるラファールとアナスタシアに、どう答えていいか分からなくなってしまったアイレーナは、もどかしそうに口を噤む。そんな気持ちは察していた。離れて行く二人の向こうに、欠けた月を見上げるルシファーの横顏が風に吹かれていた。
「…いくぞ」
「えぇ…」
一言だけ口にしたルシファーは胸の内から光球体を引き出すと、それに呼応したアイレーナの身は薄っすらと光りを帯びる。その熱を感じる共に言い表せない気持ちは大きくなるばかりだった。
あの廃墟で以来、彼とは口を聞いていなかった。機会がなかったと言えばそれまでになるのだが…私は怖かったのかも知れない。差し向けられた剣の切っ先、その先に見た眼光が…
それでもと…駆り立てられるように口にした彼女の言葉は、知ってか知らずか。異界伝記に記されている、願い人に天使が問う言葉そのものだった。一瞬考えるように視線を下げたのだが、願いらしい願いを口にする事もなく、穏やかに言葉を返した。
「…何か願い事はあるか?」
「…そうだな…上で大人しくしていろ」
「…」 (…本当に、私は迷惑を掛けてばかりだ)
光球体を送り出すと見届ける事もなくルシファーは背を向けていく。
ありがとう、素直にそう伝えようと心に決めた。
胸の内に取り戻していく光に天生の光は放たれる。しかしここで予想もしなかった事態が彼女を襲ったのだ。
翼の像はその形質を成していくのだが、片翼は中程から構成されずに消失していった。翼を切断された状態で天力を奪われたのだ。ある程度の苦痛は覚悟していたのだが…
地面に崩れ落ちたアイレーナに駆け寄った三人は翼の有様を見て愕然とした。切断された傷口から、枝分かれしたいくつもの亀裂が、事もあろうか翼の根まで達していたのである。
(あの杖の影響か⁉︎)
ラファールとアナスタシアに肩を抱かれた彼女は、二人の呼び掛けにも虚ろな眼差しを漂わせるだけで意識は遠のいていた。あれほど白く輝いていた翼は錆びた鉄のように色を失い、端々から目にしたことのない崩壊因子の暗色を発し始めていた。
…立ち尽くしていたルシファーはアストラルをその手にした。
その様に彼女を守ろうとした二人は反射的にアストラルを手にしていたのだ。
ラファールは細剣・カナディールを
アナスタシアは透剣・アスカロンを
「 ルシファー! 」
「(ルシファー!)」
ルシファーの天言領域は閉じていた。声にも天言にも言葉は返らない。
しかし、そんな二人の行動にも顔色一つ変える事なく剣は振り上げられていく…
確かに"…その時がくれば、オレが始末をつけるさ"、そうは言っていたが…こんな結末を受け入れたくはない。いつになく感情をあらわにしたラファールと、物言わぬアナスタシアも気持ちは同じだった。
だが、それが彼女に向けられる事はなかった。頭上に放たれたアドラスティアを眼にして意図が分からなくなってしまった。一体何をしようと言うのだ?
アドラスティアを手にした斬影は強力に構成され、十一天球を統べていたあの頃の影を帯びていた。ネフィリムに放った斬影など比べ物にならない。そうまでして断ち切らなければいけないモノ…
斬影の込められしアドラスティアが放たれるは他の誰でもなく、翼を構成し片翼を広げた自分自身であった。
ーーー
切り落された片翼は光球と化し、アイレーナへと捧げられるとルシファーは気を失った。
胸の内に再び入る光。
身体は浮き上がり肩を抱いていた二人から反発するように離れていくと、立ち消えた両翼は新たに羽ばたき、その力を取り戻していった。微睡んでいた意識は判然し、見開いた瞳に天眼の彩は宿る。
……だがそこに、息を吐くような安らぎも、喜びもありはしなかった。地面に伏せた片翼の背中を目に、何も言えずに俯く事しかできなかった。
「アイレーナ!、あなたは帰りなさい」
地上へとしじま降りる彼女にラファールは強くいった。
(そうだ…私はもうここには居られない…)
天生した痕跡を残したまま行動を共にする事は出来ないのだ。
「…ごめんなさい」
月影に俯いた表情は影に沈み、彼女は空へと消えていった。
その空は同じく、それは遠くの空で。天眼を見開いた一人の天使は、ティファレトの守護者たる紋章を白面に光らせ、事の成り行きを見守ると姿を消していくのだった。
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