3.老婆

白髪を結った老婆にとってそれは最後の朝だった。病室のベッドに伏せているでも、どこからか身を投げ出そうとしてる訳でもなかった。

カーテンの締め切られた居間に立ち尽くしていたのだ。

朝食を終え洗われたいくつもの食器はまだ乾ききってはいなかった。長年に渡り居住し続けたマンションの一室には、幸せに彩られたフォトグラフの一枚さえ飾られてい。

レストランの裏方として長年勤め上げ、定年を迎えてからは自宅に引きこもる毎日が続いていた。人との関わり合いを避け、孤独を愛した老婆に訪ねてくる者など誰一人いなかった。

週に何度かの買い出しに出ると、その姿を目にした近所の子供たちは、銀眼の魔女、などと言って噂を立てていたが、その見慣れぬ灰色の瞳を目にすれば仕方なかったのかもしれない。

老婆にとってそんな日々の生活も、人生さえも一抹の郷愁だけでしかなく、左手を置いた胸の内、その瞳は静かに閉じられるのだった。

するとどうだろうか…

その老いた背に翼が花開いた。

幾何学的な片によって織り成された鮮やかな翼は、それぞれの一片一片で様々な色彩をかえしていたが、老体を包み込んでいくとその彩を白い輝きに変え、一瞬何もかもが光の中え消えていった。

それは閑静な住宅街での一室。カーテンの隙間から漏れ出した天生の光を偶然目にしていたのは、ベビーカーのひさしの向こうに目を向けていた赤子だけだった。


記憶の中に留めた懐かしい感覚…


銀髪を流した美しい少女が解けていく光の内から現れると、浮き上がっていた身は静かに降りて行く。

光の余韻を散らして消え去る翼を背に、僅かばかり上げていた鼻先が下がると灰色の瞳は見開かれた。

少女は一瞬元のままの出で立ち気を回したが、眉際を一上ひとあげるとつまみ上げたカーディガンのボタンをポッンと離した。

(もう、ここに戻る事もないだろう…)

玄関先のキーボックスから車のキーを持ち出し、事もなげに、一瞥を送る事もなく去りゆくだけだった。

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