1-8:一章 俺の全裸を覗くな
ウェスト・カフェの店内はアンティーク調に統一されている。
オカ研の溜まり場ということや家から近いことも相重なりそれなりに入り浸っているが、ブレンドコーヒーはあまり美味しくない。
その代わり、アイスティーは絶品だ。
俺たちは一番奥の、店内を一望できるソファ造りの椅子に座った。
由依ちゃんはあんまりこういう店には入らないのか、キョロキョロと店内を見回し、落ち着かなそうに足をパタパタとさせていた。
「わあ! 見てみて! 角砂糖がたくさんある!」
「一つだけ聞かせろ」
置かれたハムサンドに手をつける前に、厄介な話を終わらせる。
「どうして俺のストーカーをしてるんだ」
真央も頼んだアイスモカには口をつけず、膝の上に手をちょこんと乗せて、体を小さく縮めていた。
由依ちゃんだけが唯一メロンクリームソーダ(520円)を、なんとも美味しそうにすくい舐めていた。
「……好きだからですよ。前も言ったじゃないですか」
「その理由を聞いてるんだよ。なんで俺のことを好きなんだ」
「人を好きになるのに理由なんて必要でしょうか」
俺の言葉に反応して、手がテーブルまで上がった。
萎縮からか緊張からか、それとも別のなにかによる理由からか、それは強く握られていて、細かに震えていた。
「あぁ必要だね。少なくとも知らない男を好きになるのには理由が必要だ」
顔を見たこともないメール相手に恋をしたことならある。
一度も話したことのない図書室の女の子に見惚れたこともある。
だがそんな俺でも、見たことも話したこともない、いるかも分からない宇宙人のような女を好きになったことはない。
人を好きになるには最低限関わりがなければ、どだい不可能なのだ。
などと恋についての考察をしていると、由依ちゃんが銀色スプーンの上にバニラアイスを乗っけて、真央の口に差し出していた。
「ねえねえ、メロンクリームソーダ食べる?」
「…………」
連れて来てよかったと思った。
「じゃあ、一口貰うね。うん、ありがとう」
真央が、あーんとスプーンの上のアイスを食べる。
俺はその間手持ち無沙汰で、アイスティーに口をつけた。
冷たくて、味は濃かった。
「……どこかで会ったことがあるのか?」
「一つだけじゃないのー?」
由依ちゃんが茶々を入れる。俺だって一つで済ませたかったんだよ。
「話したことは、一度もありません。でも、最寄りの駅のホームで二度ほど」
「駅?」
「すれ違っただけですけど。わたし、久瀬さんのこと覚えてたんです。両方とも雨の日で、久瀬さん、二回ともずぶ濡れでしたから」
彼女の言う通り、雨に濡れた記憶はあった。
梅雨の時期だ。
降水確率80%で、傘も持たずに外に出て風邪を引いた馬鹿らしい思い出。
でも、それがなんだ。
「もしかして一目惚れしちゃったの?」
真央はその言葉に、唇を噤んだまましばらく黙り、こくりと頷く。
思わず失笑してしまう。
でもそうか、それなら話は通るのか。納得した。
「……そんなバカげた話信じると思ってるのかよ」
はずがないだろう。
そもそも人を好きになるのに理由がないなんて大嘘だ。
上手く言葉にならずとも必ず理由は存在する。
顔が好みだったり一緒にいると落ち着いたり、あるいは好きになるために好きになったり。
目的のために理由をでっち上げることもある。
好きでいたいがために、後からそれっぽい理由をつけ加える。
でもなんにせよ、なんにもなければ、ただの通行人Aを心の底から愛することなんて不可能だ。
そんな緊迫した場面、由依ちゃんがそうだそうだと俺を援護する。
「そうだよ、お兄ちゃんの顔をよく見て。
全然カッコよくないばかりか、いかにもモテそうにない気配が漂ってるよ。
こんなのに一目惚れなんてゴミムシに恋するより難しいって」
「メロンクリームソーダが嫌いみたいだな」
「あぁ下げないでぇ」
俺と由依ちゃんがメロンクリームソーダの所有権を争っているところ、真央が目線をテーブルに逸らしたまま、ぽつりと呟く。
「でも」
涙は流れなかった。
その感情は、きっと泣くなんて単純な行為では表現できないのだろう。
言葉の先を聞く前から、目を直接見れなかった。
「──好きなんです」
拳は強く握られていて、爪が刺さり痕になりそうだった。
理性は拒絶しろと告げていた。
より正確にいえば、俺の中の常識はやめておけと囁いていた。
関わるなと、立ち入るなと、分かっているだろうと。
「……普通に声かけたりじゃ、ダメだったのかよ」
「その、恥ずかしくって」
真央が言う。
恥ずかしくてパンツを漁るのかよ。
やっぱり頭おかしい、おかしい。
長い間、ちょうど時計の秒針が二周する時間、沈黙が続いた。
「それでお兄ちゃん、返事は?」
沈黙を破ったのは、退屈を我慢できない女子小学生だった。
俺がなにかを言うより先に、踏ん切りがついたように真央が話し始める。
「…………約束します、もう久瀬さんが嫌がることはしません。ストーカーも、やめます」
……そうだ、それでいい。俺はこの言葉を聞きたかったんだ。
「これまで色々とご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」
だってそうだろう。
これで俺や先輩の身に危険が及ぶこともない。
夜道に背後を警戒する必要も。
鍵をちゃんと閉めたか二度も三度も確認しなくてもいい。
ちょいとばかしスリリングな非日常が元に戻っただけ。
それだけ、それだけなんだ。
「…………」
なのに、どうしてなんだ。
どうしてこんなに、息が詰まる。
「お兄ちゃん! 返事は?」
由依ちゃんがうるさく喚く。店員がこちらをジロリと睨む。
「……では、わたしはこれで」
真央がにわかに席を立ち、そっと去ろうとする。
それを俺はただ眺めていればいい。
そうすれば、またいつもの日常に、あの変わらない部屋に、つまらない現実に。
帰れるんだ──────
「待て」
声がした。誰かが待てと言った。
誰が言った?
俺だ、久瀬直樹だ。
俺は声を出して彼女を引き止めていた。
引き止められた彼女は、ぽかんとした顔で俺を見る。
「あ、いや、条件もなしに退くなんて、やっぱり信用できない」
「お兄ちゃんなに言ってるの?」
由依ちゃんが言う。俺だって自分でなにを言ってるのかよく分からない。
「条件を飲んでやる。だから、それでもうストーキングはするな」
「お兄ちゃん、お姉ちゃんはもうストーキングしないって言ってるんだよ」
全くその通りだった。
わざわざ引き止める必要なんてさらさらなかった。
ふいにデートがしたくなったわけでも、本当に真央を信用できなかった訳でもない。
けれども、俺はなぜか、思わず呼び止めてしまった。
「由依ちゃん、ストーキングの意味分かってるのか?」
「知ってるよ。スカートの下に履く長い靴下のことでしょ」
「そりゃストッキングだ」
俺と同じような間違いしやがって、将来は学者か弁護士にでもなりそうだ。
真央は呆気にとられたようで、黒目がちな瞳を点にして、それからふふっと笑った。
「……ありがとうございます。でも、本当にもう大丈夫ですから」
「………………あぁ」
言葉は続かない。
彼女は水玉色の傘を左手で軽く握り、一口も口をつけていないアイスモカの伝票を持って、由依ちゃんに軽く手を振りさよならの挨拶をする。
ともあれ、これでストーカー事件は幕を閉じる。もう会うことはないだろう。
「……さようなら」
あぁ、じゃあな。
いい雰囲気だった。
別れのムードが漂っていた。
ドラマのような別れだった。
そんな最後のはずだったのだが。
「あ、待ってよお姉ちゃん」
だしぬけに由依ちゃんが立ち上がり真央に駆け寄る。
「帰るんならメルアド教えてよ」
「メルアド?」
「うん。私スマホ持ってるんだ。お母さんが心配性だから持ってなさいって。だから、ね」
そう言ってポケットからスマホを取り出すと、真央に向けて元気に差し出した。
真央はしばらく固まっていた。
そしてまた俺をちらりと一瞥すると、トートバッグからガラケーを取り出し、メルアドを交換し合う。
「えへへ、これで友達だね」
「……うん」
由依ちゃんは嬉しそうに笑っていて、真央もそれにつられて微笑んだ。
「そうだ、二人も交換しようよ」
「……は?」
思わず間抜けな声を出してしまった。
いや待て、これまでの話を聞いていたのかこのガキは。
しかし多分聞いていなかったのだろう。
きっと俺と真央は喫茶店でお話をするくらい仲がいいのだと勘違いしている。
小学生なんてそんなもんだ。
「ほらほら、ストーカーの仲なんでしょ」
裾を掴み、ぐいぐいと真央のもとまで連れていく。
そしてドンと背中を押される。俺たちは無言のまま向き合い、ため息を吐く。
「………………」
「その、いいんですか?」
「……いいわけないだろ」
そう、いいはずがなかった。
「ほーらー」
由依ちゃんが焦れったくなって俺たちを急かす。
もう一度、顔を上げて、真央を見つめる。
薄桃色の艶やかな唇、天使のように中性的な顔立ち、その癖ざっくりと切り揃えられた透明感のある漆黒の髪、控えめすぎない胸、頭一個分小さなその身長。
そして。
あぁくそ、綺麗な、どこまでも透き通った瞳。
どれだけ眺めても、やっぱり可愛かった。
俺は、可愛いと思ってしまった。
「あぁもう、分かったよ!」
もうやけくそだ。知るか、もうなにがどうなっても知るもんか。
あぁそうだよ可愛い女の子と話せて嬉しいよ悪いかよ。
好きって言われたら浮かれるだろうが。そんなの当たり前だろうが。
どうせストーカーされようが困るようなことなんてなに一つないし、むしろ夜道だって後ろを任せられていいじゃねえか。
俺は単純なんだ。チンコと脳が直列回路で繋がってるんだよ。男なんてみんなそうだろう。
なにもせずに眺めているだけなんて、できるはず、ないだろ。
「……条件がある」
……でも一応、保険はかけておこう。
「一日一通までな」
俺が言うと、真央はぱちりと瞬きをして、くすりと声をあげる。
「──朝と夜、どっちがいいですか?」
満面の笑み。
天使が舞い降りてきたと勘違いするくらいには、可愛かった。
これからは寝坊することはなくなりそうだ、と俺は思った。
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