1-7:一章 俺の全裸を覗くな
カーテンの隙間から溢れ射す光がやけに眩しい。
喉が渇いていたので水道水を直接飲む。ぬるくて味がなかった。
窓を開けると蝉の声が遠くから鳴り響く。今日も晴天らしい。
気分は悪くなかった。
なぜなら今日から夏休みなのだ。これからはムダな罪悪感を抱くことなく思う存分寝ていられる。
二度寝しようと寝返りを打ったが、蝉の声がうるさすぎて眠れない。
五分粘ってしまいには隣で道路工事が始まったので、渋々起き上がり顔を洗う。
冷蔵庫の中身を確認すると、水と酒以外はなんにも入っていなかった。
どうしようか少し考えて、ウェスト・カフェに食べに行くことにした。
ラフな格好にスマホと財布だけ持って出かける。鍵はしっかりと閉めた。
*
踏み切りを越えたらウェスト・カフェだが、一息で行くには暑すぎた。
そこで途中、自動販売機で缶コーヒーを買った。
飲まずに首に押しつけると、ひんやりして気持ちいい。
とはいえ買った手前、せめて飲みきってからカフェに向かおう。
通りがけの公園のベンチに座りつつコーヒーを飲む。苦い。
小学生たちも夏休みで、昼下がりから元気に活動していた。
少年がサッカーボールを蹴る。
ベンチ隣の看板にはボール遊びは禁止と書かれていた。
別の太り気味の少年がボールを受け取り弾く。
少女たちの集団もあって、仲良さそうに縄跳びをしていた。
そんな中、ブランコに一人、見覚えのある女の子の姿が見えた。
オレンジ少女だ。
声をかけようか迷ったが、俺と少女は友達なのだ、挨拶くらい当然じゃないか。
「よう元気か」
近づいて話しかけると、オレンジ少女は露骨に嫌そうな顔をした。
「……なんだ、直樹お兄ちゃんか」
少女は退屈そうに顔を背けると、キキィと錆びついたブランコを漕ぐ。
視線の先には、同い年くらいの女の子たちがいて、楽しそうに遊んでいた。
「遊ばないのか?」
「別に。子供っぽいし、私はいい」
明らかに強がりだった。でも気持ちはよく分かった。分かりすぎて痛いくらいだ。
「そうかい。じゃあ俺の暇潰しにでも付き合えよ」
「なんで」
「こないだ手伝ってやったろ」
「無能だったじゃない。結局見つからなかった……」
このガキ、人に奢らせてその上無償で手伝ってもらった癖に……いや、まだ小学生、辛い社会のことなんてまだ何一つ知らないんだ、許してやろう。俺は優しいからな。
「それで、やっぱりお母さんからは怒られたのか?」
気になっていたのはそれだった。
クリスマスプレゼントに人工精霊を娘にやるような親だ、それなりに頭が悪いのは容易に想像がつく。
ただバカなだけでなく、手まで上げるような愚かな母親だったら心配だ。
まぁ精々心配するくらいしかできないのだが。
俺が聞くと、少女は「んーとね」と前置きをして、特に表情を変えずに言った。
「叱られたりはしなかったんだけどね、悲しそうな顔してた。
いやどっちかっていうと、残念そう、なのかな。
これからいいことが減っちゃうかもしれないけど我慢してねって。
ねえ、オレンジはインチキだって言ったよね」
「あぁ、嘘っぱちの紛い物だ。科学的根拠なんて一切ない」
俺は缶コーヒーをすすり舌で転がす。少女たちは縄跳びをやめ、今度は紙飛行機をどれだけ遠くに飛ばせるかを競って遊んでいた。
「でもね、オレンジがなくなってから、こう、心が暗いの。
マイナスイオンを浴びてた頃はこんなことなかったのに。
だからね、やっぱりオレンジは本物だと思うんだ。
だってオレンジを持ってると、爽やかで涼しい気分になるの」
紙飛行機はふんわりと風に乗った。
空を漂うボーイング747は旋回し、ゆったりと軌道を逸してから、俺たちの前にポトリと不時着した。
オレンジ少女が拾う素振りを見せなかったので俺が手に取って投げ返した。紙飛行機は青空に白い染みを浮かべて流れてゆく。
「ただの気のせいだよ。あんなもの失くしたからって、いいことが減るなんてありえない。安心しろよ」
「でも……でも」
「それともなんだ、オレンジが本物だとして、いいことが減ってほしいのか?」
俺が言うと少女は下を向いて黙ってしまった。
少し居心地が悪くなりコーヒーに口をつける。やっぱり苦い。
「そういえば名前聞いてなかったな。なんて名前?」
「……由依」
「由依ちゃん、きっと、そのうちひょっこり見つかるさ。落し物なんて大抵そんなもんだ」
ある日、忘れた頃に、意外な場所に落ちている。だから早く忘れるべきなのだ。
「だからさ、いいことあるぜ。きっと」
俺はなんとなく決めて言う。由依ちゃんはぼんやりと紙飛行機の行方を追っていた。
「遊んでこいよ」
「いつも一人のお兄ちゃんには言われたくない」
「でも寂しいんだろ」
「ブランコ漕いでる方がずっと楽しいもん。全然寂しくなんてないよ」
「そうかい」
缶を傾けても、液体が出なくなった。暑いし汗もかき始めている。
「俺はもう行くよ。腹ペコなんだ」
俺がそう言うと、由依ちゃんはブランコを鳴らし、ちょっぴり曖昧な顔をした。
「ねえねえ、お兄ちゃん」
「どうした妹」
曖昧な顔が一転、もの凄く苛ついた目つきに変わる。舌打ちもされた。
「お兄ちゃんは寂しくないの?」
由依ちゃんは寂しがっている。だから俺はこう答えるしかない。
「全然」
実際の所、一人でもなんとかなるもんだ。
ウサギだって本当は一人でも生きていける。
友達が少なくたって、気分次第でどうにでもなるもんさ。
そう思わなきゃやってけないからな。
「それって彼女がいるから?」
は、煽ってんのか。
「俺に彼女なんていねえよ」
「ならあの人誰?」
由依ちゃんが後ろの電柱を指差す。嫌な予感がした。
覚悟を決めて振り向くと、電柱の陰からパーカーを着た真央がこちらを覗いていた。
目が合った。
彼女は慌てて隠れると、また恐る恐る顔を出した。
目が合う、今度はえへへと気まずそうに苦笑いした。
「……俺のファンだよ」
「んーウソだね。お兄ちゃんには男性的にも人間的にも魅力ないよ」
なぜ人間性まで否定されなくてはならないのか、これが分からない。
真央がさも申し訳なさそうに、ブランコに近寄ってくる。
由依ちゃんを置いて走り去るのは、どうかと思った。
「ご、ごめんなさい。嫌でした、よね。その、本当にごめんなさい」
「お姉ちゃん誰?」
由依ちゃんが聞く。真央は困ったように俺をチラチラ見て、助けを求めているようだった。
「わたしは北原真央っていいます。あなたは?」
「由依。中野由依」
「そっか。由依ちゃん、この人とお友達なの?」
「友達っていうか、ただの知り合い。お姉ちゃんはお兄ちゃんのファンなの?」
「ファンっていうか、そうだね、ただの知り合い……でも、ないかも」
「好きなの?」
小学生特有の唐突な質問、由依ちゃんがなにとなしに聞く。
真央は表情を変えることなく、ほんの少しも躊躇わずに、
「うん。好きなんだ」
そう言った。
「……だって、お兄ちゃん」
少女は楽しそうに笑う。
「…………」
「返事は?」
「……俺は嫌いだ」
「んーウソ。お兄ちゃん嬉しそうだよ」
「え、嘘だろ」
「うんウソー」
憎たらしいガキを傍目に真央を見る。やはりどうしようもなく不安げな表情をしていた。
「本当に、嫌い、なんですか?」
くそ、ストーカーがそんな目で俺を見るなよ。そんな潤んだ瞳で俺を見るな。
どうするか悩んでいるうちに腹が鳴った。指には汗が絡んでいた。
「……場所を変えよう。腹が減ったし暑いんだ」
「え、どこ行くの?」
由依ちゃんはさっきに比べてもずっと楽しそうで、新しいおもちゃを見つけたみたいに面白がっている。
「一緒に来るか? メロンクリームソーダ奢ってやるぞ」
正直言って二人きりの会話が怖かった。
女子小学生を巻き込むのは気が引けたが、流石に由依ちゃんがいれば真央も(よっぽどのことがない限り)常識的な行動をしてくれるだろう。
それに、一人ぼっちでブランコを漕いでいるのを放っておくのも、なんとなく嫌だった。
つまるところは打算の塊だ。
「行く!」
由依ちゃんは即答すると、ブランコから飛び降りてにんまりと笑った。笑顔が少し痛い。
「いいよな?」
「はい。わたしも、そっちの方が楽です」
「ねぇ早く行こうよー」
由依ちゃんに手を引っ張られて足が動く。
公園の真上を紙飛行機が飛んでいた。
子供の声がして、蝉の鳴く暑さだった。
天気予報によると、今日は一日中晴れで、最高気温は34度になるらしい。
なのになぜか、真央は可愛らしい水玉の傘を提げていた。
早くアイスティーが飲みたかった。
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