1-6:一章 俺の全裸を覗くな
「大丈夫? 顔色悪いよ」
先輩が心配そうに言う。
真央は俺をじっくりと見つめてから、クスリと笑った。
「大変、すぐに水をお持ちしますね」
頭が痛い。喉の奥が痒い。気持ち悪い。
なぜ彼女がいる。もしかして俺の予定がバレてるのか。
いや、飲み会の予定は急遽決めた、それを誰かに言ってもいない。
そもそもアルバイトといえどそう簡単になれるわけじゃない。
だから、ちょっと冷静に考えれば、これはただの偶然だと分かる。
たまたま彼女のバイト先と飲み会の場所が被っただけ。それだけだ。
だからこそ、俺はどうしようもなく恐ろしかった。
これじゃあまるで……
去り際、彼女が俺の背後でぽつりと囁く。
「……運命ですね」
酒はもう飲めなかった。酔いはとっくに醒めていた。
*
ほどなくして飲み会は解散となった。
雲は薄く、輪郭のはっきりした三日月が浮かんでいた。ぬるい風が吹いていた。
何人かはこの後二次会でカラオケに行くらしいが、交友関係の薄い俺には無縁の話だ。
部長が締めの挨拶を呂律の回らない舌ですると、酔いの勢いのまま横を流れる川にダイブした。
そんな朗らかな空気とは裏腹に、俺の脳内は心底冷え切っていた。
ストーカー美少女と運命的な再会を果たしたあの後、仕事を終え私服(今日もパーカーにミニスカートだった)に着替えた彼女が店を出て行った。
だが奴はストーカーだ、そのまま素直に家に向かったとは思えない。きっとどこかに隠れて俺が来るのを待っている。
そんな微妙な空気に耐え切れず、気晴らしに煙草に火を点ける。
ぼやけた煙の先に、酔いつぶれた部員を見送る桃花先輩の姿があった。
「行かないんですか、二次会」
「うん。ちょっと、疲れちゃってね」
伏目がちに話す。
風が吹き、長い髪がサラサラと流れていった。リンスの甘い香りがした。髪を抑えようと耳元に手をやる仕草が、なんだかちょっぴり色っぽかった。
「また煙草吸ってるんだ」
「俺もちょっと疲れまして。先輩もどうですか」
俺が煙草を差し出すと、先輩は苦い顔をして、首を小さく横に振る。
「……ううん、やめとく」
「あぁ、禁煙したんでしたっけ」
「うん。そういうこと」
「あれだけ吸ってたのによく辞める気になりましたね」
「色々ね」
「色々って」
「ほら、匂いとか、お金とか……あとイメージとか」
「今さらですね」
「ほんと、今さらだよ」
だったらどうしてわざわざ吸い始めたんだか。
こんなくだらないサークルに入ったのも含め、何を考えているんだか何にも考えていないんだか、いつだってよく分からない人だ。
もっとも、俺の場合は酷く単純明快な動機でしかないわけだが。
「…………あー」
「どうしたの?」
「いえ別に、この銘柄やけに不味いなぁって」
おそらく、舌にべっとり纏わりつく苦味は、ニコチンの重みだけじゃなかった。
「これを機に久瀬くんも禁煙してみたら?」
「……いやぁ、俺は意志薄弱ですからね、無理ですよ」
「そっか」
本音を言ってしまえば、煙草なんてさらさら好きじゃなかった。金もなくなるし、面倒事ばかりだ。特に今の銘柄に至っては、長いし重いしで最悪だった。
けれどもどうしても、未練ばかりが俺を離さなかった。これが依存なんだろう。
「ええ、そうです。俺には多分、辞められませんよ」
自嘲気味にそう言って、ロングのピースを深く吹かす。煙が舞った。
先輩は煙を嫌がるでもなく、むしろ懐かしむように、さらりと会話を繋げる。
「あのね、来週の日曜日なんだけど、久瀬くん暇かな?」
「俺なら年中オールフリーですよ」
自信満々に言う。別に誇れることではない。
俺が言うと、口元は笑っていたが、瞳の奥が一瞬鈍く光った。
それから決心するように軽く「うん」と相槌を打つと、続けてこう言った。
「デートしようよ」
……デート?
デートって、あの、男と女が二人きりで一緒に遊ぶ、凄く楽しい行為のこと?
貧困なボキャブラリーが脳裏を過ぎる。
嘘だろ、俺が先輩とデートだって、そんな嘘みたいなこと……
落ち着くんだ久瀬直樹。落ち着け、深呼吸をするんだ、鼻から息を吸って、口から吐く。吸って吐いて、吐いて吸って……ふぅ、よし。時速60キロで歩くたかし君なら1キロ先の学校まで徒歩一分だ。うむ、論理的思考もバッチリだ。
それから童貞を悟られないように澄ました顔で返事をする。
「へ、へぇ、デ、デートですか。えっ、それはつまり、二人で会うってことですよね」
「うん、そうだよ」
奇数だ、奇数を数えるんだ。奇数は物事を2で割り切れない間抜けな数字、俺に勇気を与えてくれる。1、3、5、7、9、11、13……
53を数えたあたりで、先輩が痺れを切らした。
「それで、どうかな」
「いいですよ」
迷う要素なんて一つもなかった。
「それで、どこ行きましょう」
「水族館」
「水族館ですね、分かりました」
初デートの場所としては上々だ。魚はサバとマグロとシーチキンくらいしか知らないが、まぁどうにかなるだろう。
「じゃあ、十四時ちょうどに、駅前の喫茶店ね」
「……あの、先輩」
「ん、なに?」
どうして急に俺を? なんて、野暮なことは聞かない。
今は幸せを享受すればそれでいい。理由なんてどうでもいいじゃないか。
最近は友達同士でデートなんて珍しいことでもないらしい。
それに、もしかしたら本当に……
「送りましょうか?」
「ありがと。でも平気、家すぐそこだから」
先輩がたったと駆ける。それから立ち止まり、振り向いて言った。
「またね。約束破ったらダメだよ」
丁度月光の当たらない陰だった。ほんのりと隠れた表情は、俺には暗く映った。
「おやすみなさい」
空を見上げると月はぼんやり薄く透明な光を発していて、周りは夜の空だった。
俺も帰ろうと道を振り返ったところ、電柱の陰に隠れて、こちらを覗く彼女が見えた。
……やっぱりいるのか。
真央はパーカーに手を突っ込み、ジリリと近づいてくる。
見るからに不満気な顔をしていた。
危険だ。
俺は念のためスマホに手を伸ばしいつでも通報できるよう備えておく。
「久瀬さん、あの人とデートしちゃうんですか?」
真央がぽつりと呟く。声が少し震えていた。
「お前には……関係ない」
距離を取るように冷たく言い放つ。
ストーカーへの対応は、無機質に、かつ毅然とした態度で拒否することが肝心だ。曖昧な言い方は相手を勘違いさせ、行為をエスカレートさせてしまう。
またストーカーになる人間は得てして思い込みが激しい。それをほぐし逆上を防ぐためにも、急に接触を断とうとせずに、いくつかの過程を踏んで後は関与しないことが重要だ。そうネットに書いてあった。
真央はポケットから手を出し、手首を掴んで下を向いた。
風が止んで、生ぬるい空気が肌にベタついた。息苦しくて、水中にいるみたいだった。
「……そうですね、そうですよね。わたしなんて全然関係ないですよね」
そう自分に言い聞かせるように呟くと、そのまま押し黙った。
俺もなにを言うべきか、言葉を選んでいた。しばらくの間、夜の静けさだけがあたりを覆っていて、沈黙がやけに重かった。
そんな俯いた彼女の表情を見て、俺はハッとする。
「……先輩に手を出すつもりじゃないだろうな」
よくある話だ。
不倫をした旦那より不倫相手を憎む心理なんてワイドショーで毎日のように報道されている。
先輩に俺を取られたと感じ、取り返そうとなにかしでかすかもしれない。
不法侵入し無断で人のパンツを漁る女だ、それだけの行動力はある。
「そんなことしませんよ。だって、そんなことしたら久瀬さんに嫌われちゃうじゃないですか。だからしません」
「…………」
「それとも、もう手遅れなんでしょうか」
なぜだろう。
なぜこんなにも、息苦しいんだろう。
慎重に言葉を探す。下手なことは言えない。俺だけじゃなく先輩にまで被害が及ぶ。
情を持つな、相手の気持ちなんて考えるな。無機質に、はっきりと拒絶しろ。
「ストーカーを、やめろ」
凛とした声で告げる。
「……なら、おねがいを聞いてもらえませんか」
顔を上げる、一歩近づいてくる、月明かりに照らされた顔は悲しげで、不安に満ちていた。
「お願い?」
「簡単なことです。わたしとデートしてください」
「は?」
ネットにあった知識を思い出す。
──ストーカーは妥協を狙う。断りづらい状況を作り、要求を『とりあえず』で飲ませる。予習済みだ。
そんなときの対処法は、やはり明確に拒否すること。同情を誘おうなんて可哀想な顔をしてもムダだ。そんな可愛い顔でもダメだ。
ストーカーは犯罪なんだ。
「わたしのことを知ってもらえたら、きっと伝わると思うんです。
わたし、久瀬さんのことが好きなだけなんです。それに、あの先輩とおんなじことじゃないですか」
また一歩近づく。
意識せずに勝手に足を運んでいるようだった。
気持ちが前のめりになっている。
それは危うすぎて、ジリジリと縮まる距離に、引くこともできずにいた。
「ふざけるな。誰がお前なんかと……」
「おねがいします。ゼッタイ変なことしないって約束します」
必死にすがりつく彼女の姿は、今にも泣き出しそうで、哀れに見えた。
そして同じくらい分からなかった。
どうして、俺なんだ。
「……俺は」
悩んでいた。分からなかった。ネットで得た対処法なんて忘れていた。
どうしようもなく気になっていた。
どうして自分がこんなにも決断を躊躇しているのか、さっぱり分からなかった。
「あなたのために尽くします。だから、見捨てないで!」
痛々しい叫びが人気のない夜道にこだまする。
先輩となにが違うのか、そりゃあ違う。でも決定的なのは多分一つだけだ。
俺は彼女のことをなにも知らない。
「……俺は、俺は帰る!」
その場から逃げ出すように走り去る。もう会わないよう、必死で走った。
「本当に運命だと思ったんです! ねぇ、好きなんです!」
後ろから彼女の声が小さく聞こえた。
実のところ、頭はこれ以上ないくらいに冷静だった。
どうすればいいのかくらい分かっていた。
こんな曖昧な逸らし方は逆効果なんだと分かっていた。
でも俺にはできなかった。
俺にできるのはその場から逃げることだけだった。
声も聞こえなくなり、疲れて息が詰まった。
咳き込み膝をつき、深呼吸をして顔を上げる。
視線の先には月があった。いつの間にか薄い雲の膜に隠れていた。陰に隠れて俺を見ていた。色鮮やかで、やけに綺麗に浮かんでいた。
周りには誰もいない。自分がよく分からなかった。
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