『定期的に美少女の接吻を受けなければ死ぬ病』を発症した女性が山奥の療養院で美少女に世話されながら生きるのだけど(以下略)短編
少女は、山の上の
目鼻立ちが整った、艶やかな黒髪を長く伸ばした少女だ。町を歩けば誰もが振り返るような、冷然とした雰囲気を持つ少女である。
彼女が美少女であることに異を唱えるものはいないだろう。私もそうだ。
なによりも彼女は冗談のようだが、『美少女』の国家資格をもっているのだ。
だからこそ少女は、一日二回、朝と夕方。私の病室を訪れる。
私もまた、冗談のような病気にかかっている。
『接吻病』。それは死に至る病。決して快方に向かうことはなく、ただ緩やかに私を彼岸へといざなう病気だ。
進行を遅らせるためには、国に定められた美少女の接吻が必要となる。少女は私に口づけをするためだけに、このサナトリウムで働いているのだ。
黒髪を揺らしながら、彼女は姿を見せた。
夕暮れ時だ。
きょうは学校帰りどこへも寄らずにここにやってきたのだろう。藍色のプリッツスカートと白のブラウスが、彼女はまだ学生だったのだという当たり前の事実を思い出させてくれる。
壁の白い病室にやってくる制服姿の美少女は、ひどく現実感が薄かった。だからこそ彼女の存在は、このサナトリウムの象徴とも言えるのかもしれない。
「
「ええ」
私はベッドから身を起こす。そよぐ風の涼しさよりも凛とした横顔を見ると、私の胸の中にわずかな熱が点るのを感じた。
少女は窓を閉めた。そうしてブラインドを下ろすと、辺りは薄暗闇に落ちる。
私は色に乏しい自らの療養着を恥じるように、毛布を胸元に引き寄せた。
「別に、いやらしいことをするわけではないのだから、いちいち閉める必要はないと思うのだけど」
「規則ですから」
少女は端的につぶやくと、決まった段取りのように私のすぐ近くにやってきた。
『みだりに情欲を喚起させる行ないは慎むように。』
バカバカしい。これから死にゆくであろう二十三の女から、わずかな楽しみをも奪うような規則など。
上から覗き込んでくる彼女に向かって、私は艶の失われた髪を耳にかけながら微笑んだ。
「そういうのは嫌だわ。ここにお座り」
「……これは治療ですよ」
「たとえ注射でも左右の腕は選ばせてくれるものだと思うけれど?」
そう言うと、少女は存外素直に従った。早く終わらせたいだけなのかもしれない。
彼女はスカートを翻さないように手で押さえながら、私の近くのベッドサイドに腰かけた。
私と目を合わせないようにする彼女の横顔を間近で見つめると、さらに胸の中の熱がもぞりと鎌首をもたげるような気がした。
少女は落ち着き払ったまま、私の後頭部に手を当てた。これから行なうことを盛り上げるためにではなく、ただ手順にしたがって固定するだけの動作。私の心の天秤は落胆と期待に釣り合っていた。
「目を閉じてくださいね」
「ええ」
彼女が目を閉じて顔を近づかせてくるのを、私はじっと見つめていた。
唇と唇が触れ合い、そして離れてゆく。
胸の中の熱が情炎となって噴き上がるのも一瞬のこと。除菌されたノンアルコールのウェットティッシュで唇を拭く少女の姿を見れば、すぐに熱は去った。
彼女にとってこの行為が特別な意味をもつことはない。彼女は私に接吻をし、そうして対価を受け取る。完全なまでのギブアンドテイク。
私はいつまでも未練がましく彼女を見るのをやめて、ブラインドの隙間から漏れた光が部屋の中を泳ぐさまを目でなぞる。
「いつもありがとう」
「いえ」
少女は立ち上がって私に背を向けた。
背筋の伸びた白いブラウスからまだ色気づいてもいない淡い水色のブラジャーが透けるのを見て、私は目を逸らす。
「あなたも学費を稼ぐためとはいえ、朝晩とこんな高原にまでやってくるのは大変でしょう」
この少女はいわば私のために体を差し出しているようなものだ。『治療』が終わるといつも胸が痛む。命欲しさにひとりの美少女の時間を奪っているという罪悪感が、私を刺す。
彼女は本当なら、私のような者に構わず、今しか味わうことのできない青春という時間を謳歌するべき娘だ。
親の遺産で生き長らえる私は、絶世の名花たる彼女の名を呼ぶこともできず、昏い言葉をはく。
「……それともあなたは、籠の中の鳥に餌を与えることに快感を覚えるタイプだったのかしら」
少女は私に背を向けたまま、問いかけてきた。
「志乃さんも美少女の国家資格をもっているって、本当ですか」
私は冷笑した。
「誰から聞いたの、そんなことを」
「ここの看護師さんから」
「そうね。あの頃より痩せたけれど、資格はまだはく奪されていないから」
面白いことを考えて、私はひとりで笑った。
「あなたがもしこの仕事を嫌だと言うのなら、私は鏡にでもキスをしようかしら。もしかしたらこの呪いが解けるかもしれないわ」
少女はゆっくりと振り返る。
私を見る目に、わずかな感情の揺らぎがあった。それがなにかわからぬまま、彼女は口を開く。
「もしわたしが辞めたら、新しい人が来るんですよね」
いつもは人形のような顔で仕事を終えたらさっさと帰るのに。きょうはずいぶんと喋る日だ。
多弁な少女に戸惑いを覚えつつ、私はうなずく。
「ええ、まだ死ぬのはこわいからね。一日二回の美少女の接吻。それを守ることができれば、まあ平均寿命までは難しいでしょうけれど、」
「――わたしを辞めさせたいですか?」
いつも控えめな彼女が、私の言葉を強く遮った。
私は目を丸くする。あまりの珍しさに、思わず心根がこぼれた。
「……別に、あなたはよくやってくれているわ」
「本当ですか?」
彼女の声が少しだけ弾んだ。
ベッドに身を起こす私は、少し離れた場所に立つ少女を見上げながら、わずかにうなずいた。
「……他の人がどうかは知らないけれど、その年で欠勤も少しの遅刻もないもの。しっかりしているわ」
「だって」
彼女は私を見つめながら、ぎゅっとスカートの裾を握る。
「わたしが休んだら、志乃さんは他の人を呼ぶじゃないですか」
少しだけ糾弾されているような響き。
私は髪をかき上げながら、眉根を寄せる。
「そりゃそうよ。生きていたいもの」
「……わたしの治療、変じゃないですか?」
こちらを窺うような顔をしながら、彼女は一歩を踏み出してきた。
少女のこんな弱気になった表情を見るのは、初めてだった。
毅然とした態度の裏には、ちゃんと学生らしい素顔があったのだな、と私は思う。
「変ではないわ。ただ、まだまだ色気は足りないようだけれど」
「……それは、規則ですから」
少女は俯いた。
赤くなった頬は、夕焼けのせいだけではないのかもしれない。
「規則を破ったら、志乃さんのところへいけなくなりますから」
「……それって?」
顔をあげた少女は目をいっぱいに開いて、息を呑んでいた。光に照らされた黒髪が天使の輪を作る。彼女は慌てたように両手を前に出して自分の顔を隠した。
「それは……、あの……」
いくら私でも気づく。
参った。
まさか、そうだとは思わなかった。
私を強く見つめる少女の目には、再び感情の揺らぎがあった。それは先ほどよりもずっと大きい。その名前を、たぶん私は知っている。
だが、彼女はそれを隠すのが、私よりもずっと下手だったのだ。
「わたしは、嫌じゃないです。このお仕事で、志乃さんとであえて、本当に、よかったです」
その一言一句がまるで輝きを放つかのようだ。
少しの間、見とれてしまった。
私よりはるかに若い彼女がもつ、純真さとそのひたむきさに。
ずっとずっと、とても恥ずかしくて言い出せなかったこんな私には、生にしがみついているだけの私には、彼女の光は眩しすぎた。
「わたしがもし接吻病にかかったら、わたしも志乃さんにお願いしたいです。そうしたら、ここで、ふたりで、ずっと、一緒に!」
私は微笑むこともなく、彼女に言い聞かせる。
「ダメよそんなのは。あなたの大事な人を悲しませるつもり?」
「いえ、そうじゃ。あの、違います」
彼女は面食らったようにして胸を押さえた。
自分の言葉がこんなにもダイレクトに相手に伝わってしまう手ごたえに、私は苦笑してしまいそうになる。
彼女はまるで落とし穴に落ちてしまったように顔を青くした。
「ごめんなさい……、わたし、そういうつもりじゃ」
「そうね、わかっているわ」
もう少しその困った顔を見ていたかったけれど、思わず助け舟を出してしまった。私も心が浮足立って余裕がないことを感じていた。
「ありがとう、
花が咲くように彼女が微笑んだ。
「名前、初めて、呼んでくれましたね」
「……そうだったかしら?」
私はとぼけてみせる。
だが、涙が出そうになるぐらい喜ぶ彼女を見ると、また意地悪の虫が騒ぎ出しそうなので、曖昧な笑みを浮かべてごまかすことにした。
こんなに表情が豊かな子だとは知らなかった。
もっともっと知らないことも、たくさんあるんだろうな。
「また明日、来ます」
私は彼女の本心を知り、素肌を鳥の羽でなぞられているようなくすぐったさを覚えながら、苦笑いをする。
「……ええ、別に、無理はしないでね」
少女は黒髪を揺らして首を振った。
「いえ、来ます。無理してでも、絶対、来ます」
力強い宣言を残して、彼女はあっという間に病室を出てゆく。その際に右手と右足が一緒に動いていたのを見て、私は再度苦笑した。
ひとり残された私は、ため息をつきながら天井を見上げた。
「冗談のようなことも、あるものだわ」
彼女は私などに会うために、せっせとこの高原にまで足を運んでいたのだ。
まったく、人ひとりの時間だけではなく、その心までも捕らえてしまっていただなんて。
「本当に、冗談のようなことだわ」
私は自らの唇を撫でる。少しの切なさと、そして芯を包むような喜びがあふれた。
病室の時計を見上げると、進む秒針がやけに遅いように感じる。
早く明日がこないものだろうか。
彼女は今度は、どんな顔を私に見せてくれるのだろうか。
窓も閉まっているのに流れる風は、私の胸の内をそよいでいるものだ。
心にくすぶっていた情炎はもはやなく。
代わりに幼い頃のような、たまらなく甘く、どこまでも淡い乳白色の光が胸の中を満たしていた。
それが恋と呼ばれるものであることを、私もとっくに知っていたのだ。
後日、彼女は通学の利便性と仕事の重要性を盾に家族の了解を(無理矢理)得て、私の過ごすサナトリウムの別荘に越してくることになるのだが。
それはまた別のお話である――。
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