第3話 アニーの葛藤と母の優しさ

 アニーの住む町の場所を聞いて、竜は一直線に夜の空を駆けた。夜が開けて町の人々に姿を見られたら騒ぎになってしまう事を恐れ、少女を気使いながらも夜の闇を突っ切った。彼女の心に抱えた闇を突っ切る様に。なんとか月が山に隠れる前には彼女の住む町に着く事が出来、町外れに降りると背中の彼女に別れを言い、自分の住む湖へと帰って行った。


アニーは重い足取りで家へと歩いた。母はどんな顔をするだろう?兄はがっかりするだろうか? 二人の顔を見るのが怖かった。しかし、竜の言葉を思い出して勇気を振り絞り、頑張って歩いた。彼女の頭に思いが巡る。

「何て言おう……」


「竜の逆鱗は手に入らなかったって言った方が良いのかな?」


「でも、それじゃまだ帰らないよね。正直に言った方が良いのかな?」


「そんなの言えないよね。自分の願いが叶っちゃったなんて……」


 堂々巡りの自問自答を繰り返しているうちにアニーは家の前に着いてしまった。母は寝ているのだろう、灯りは点いていない。

「ただいま」


 扉を開け、誰に言うでもなく口から出た言葉。荷物を置いて一息付くと物音を聞いて起きたのだろう、母親が寝室から出て来てアニーを抱き締めた。ちなみに彼女は母親と兄との三人暮らし。父親は顔も知らない。母に聞いても父の事は何も教えてくれない。よほど嫌な記憶なのか、隠さなければならない秘密があるのか……


「おかえり。無事で良かった」

母は笑顔で迎えてくれた。


――きっと竜の逆鱗を手に入れて帰ってきたと思ってるんだ――


アニーの心がちくりと痛む。何か言おうとしたが言葉が出ない。そんな彼女に母親は疲れを取る為に風呂に入る事を進めた。アニーは先に兄の顔を見たかったが、寝ているであろう兄を起こしてしまうかもしれないという思いと、もし彼が起きたらどんな顔をすれば良いかわからなかったので、とりあえず素直に風呂に入る事にした。


かけ湯をして、身体を荒い、髪を洗う。残念ながらアニーの家の風呂にはシャワーなどと言う気の利いた物は無い。湯船の湯を木の桶で汲もうとする度にザーガイに襲われた時の傷が痛む。右腕を見ると、ザーガイがしがみついた時に付けられたのであろう痣が生々しく残っている。左足にも同様の痣が。もし、あの時竜が助けに来てくれなかったらと思うと背筋に冷たいものが走る。彼女はそれを振り払う様に湯船に飛び込んだ。


 口まで湯に浸かり、膝を抱えるアニーの頭の中は後悔の念でいっぱいだった。

「なんであの時すぐにお兄ちゃんの病を治してってお願いしなかったんだろう……」

 いくら悔やんでも悔やみきれない。また、いくら悔やんだところでどうする事も出来ない。アニーが吐いた溜め息がボコボコと口から泡となり弾けて消える。全身の力が抜け、そのままお湯に沈んでしまうアニー。彼女は派手な水音を立ててお湯から顔を出すと、もう一度深い溜め息を吐いた。


風呂から上がったアニーの鼻腔をくすぐる良い匂い。彼女が大好きな母特製のスープの匂いだ。幼い頃からこのスープを飲むと元気が出た。機嫌が悪い時でも落ち込んだ時でも幸せな気持ちになれた。

母親は温かいスープの皿をテーブルに置いた。言葉も無く席に着くものの俯いたまま少女はスープに手を付けようとしない。

「どうしたんだい、このスープ好きだったろう?」


 母親の言葉にのろのろとスプーンに手を伸ばすアニー。あれだけ大好きな母のスープの味すらも今の彼女には感じられなかった。

スープを飲み終えたアニーに母親は疲れてるだろうからと早く寝る様に勧めた。

 彼女はベッドに入ったが、眠れない。朝が来たら母に何と言えば良いのかまだ考えていたのだ。隣の部屋では兄が眠っている。時折が激しく咳き込む声が聞こえ、彼女の心を苛める。アニーは朝が来るのが怖いと生まれて初めて思った。


 アニーが嫌がっても朝は来る。眩しい日差しで目が覚めた彼女は昨日の事が夢だったら良いのにと思ったが、現実は厳しい。昨日の事が夢だったら良いのにと思ったが、右腕の痣が全てが現実に起こった事なのだと雄弁に語る。


「おはよう、だいぶ疲れてたみたいだね」

 母親はパンと温かいミルクをテーブルに置いた。言葉も無く席に着くものの俯いたままアニーは手を付けようとしない。


「疲れてるだろうけど、ちゃんと食べないと」

 母親がアニーに優しく言うと、彼女は肩を震わせ始めた。母親は優しく言った。

「竜の逆鱗なんてそうそう手に入るものじゃ無いからね、仕方無いよ」

 母親は、アニーが家に帰ってきた時の顔を見て、竜の逆鱗を手に入れる事が出来なかったのだと思っていた。だからその事は何も言わないでおこうと思っていたのだが、声を押し殺して泣いている彼女の姿に思わず口に出してしまった。


 アニーは首を横に振った。そして全てを母親に話した。妙な男が現れて竜の逆鱗をくれた事、そして帰り道にザーガイに襲われた時、助けて欲しいと思ったのが願いとしてかなってしまい、せっかくの竜の逆鱗が砕けてしまった事。

「もらった時すぐにお兄ちゃんの病気が治ります様にって願ってれば……」

 後悔の涙を流しながら自分を責めるアニーに母親は優しい目で言った。


「でもね、それでその願いが叶っちゃったてたら、お前はザーガイに食べられてたかもしれないんだよ」

 マイクの病気はまだこの先何とかする手立てが見つかるかもしれない。しかしアニーがザーガイの餌食になってしまった後ではどうする事も出来ない。だから竜の逆鱗のおかげで彼女が助かったのはとてもありがたい事だと。病のマイクを見るのは辛いが、アニーを亡くしてしまうのはもっと辛いのだと、マイクも自分の為にアニーが死んだとなるとどれぐらい悲しむことかとこんこんと解いて聞かせた。


「お母さん……」

 やっとアニーは顔を上げた。

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