第6話 ハリボテヒーロー
一年くらい前の入学したてのとき、なんとなく図書室に行った。
なんで図書室に行ったのかは覚えていない。
用事があったのか、気まぐれか、俺は本をそこまで読まない方ではないけど、俺にとって本は借りるというよりは買うものだった。
本屋に入って、適当に本棚を物色してビビッときた本を買うのが好きだったから、図書室に行ったのは初めてだったと思う。
女の子が泣いていた。
それをよく覚えている。
その涙は俺の目に焼き付いた。
なんで声をかけたのかはわからない。
涙を流す少女、関わったら面倒に巻き込まれるランキングがもしあったら、上位にランクインするだろう。
そういうのが好きなわけじゃなかった。
別に泣きたい理由があるなら泣けばいいし、それを無理やり笑顔にしてあげたいなんて、言うつもりもない。
俺はヒーローになりたいわけじゃない。
ただ、それでも俺は声をかけた。
ヒーローなりたいわけじゃないと思いながらも、俺は確かに彼女と関わることを決めたんだ。
それは気まぐれだったんだろうか?
違う。俺は気まぐれでそんなことを決めるようなやつじゃないんだ。
そもそも気まぐれでなんていかにもヒーローっぽい。だから違う。
声をかけなきゃいけない気がした。
それはヒーロー的な使命感ではなくて、一般的な善意でもない。
もっと、自分のためのもの。
恋、とは違うんだと思う。
そんなのものじゃなくて、もっとぴったりくる別の言葉があるんだ。
でも、俺はこの感情の名前を知らない。
とにかく、泣いていてほしくなかった。
冴木 梓、いや、この時は名前も知らないただの同級生。
それが、泣いているのが嫌だった。
そうして俺は冴木のなかに踏み込んでいった。
「どうしたの?」と、なんてありきたりな言葉なんだろう。
「ハンプティ・ダンプティが塀に座った。
ハンプティ・ダンプティが落っこちた。
王様の馬と家来の全部がかかっても
ハンプティを元に戻せなかった」
予想通り俺はもうとてつもなく面倒なことに巻き込まれているようだった。
突然童謡の詩で問う少女、どう考えても普通じゃない。
でも、自分から巻き込まれに行ったんだ。
後悔はなかった。
「たまご、ハンプティはたまご」
この歌はもともと、ハンプティ・ダンプティとは何か? というなぞなぞ歌だったと聞いたことがあった。
ハンプティはたまご、それが正解なはずだ。
「はずれ。……ハンプティは私。壊れちゃうのは私」
冴木はとても悲しそうな目をしてた。
その澄んだ目から流れる涙は一種の芸術のようで、それでもやっぱり悲しそうで、この時も俺はそれを拭ってあげることはできなかった。
「……冗談。ごめんね、変なこと言って」
俺が何も言えないでいると、冴木は笑いながらそう言った。
いつもだったら、「なんだ、大丈夫だったのか」なんて思ったかもしれない。
でも、このときは違った。この時だけはわかった。冴木の笑顔の裏側に溢れるほどの悲しみが隠れてることを。
冴木がドアを開けて出て行こうとしていた。
やっぱり、俺には人の涙をなんとかするだけの力なんてなかった。俺にはなにもできなかったんだ。
でも…… それでも、俺は……
「俺なら元に戻せるよ、ハンプティを元に戻せる。どんなにぐちゃぐちゃになっても、王様にもできなくても、俺ならできる」
なんの根拠もないとても適当な無責任な言葉だ。でも、俺にはこれしか思いつかなかった。本当は俺にそんな力があったらよかったんだ。だけど、やっぱり俺にはそんな力はない。できることは、気休めの嘘を吐くくらいだった。
「……どうして?」
「ヒーローだから」
そんなわけがなかった。
ヒーローなんかじゃない。なれるわけがない。
似合わないのもわかってる。
ただ、この瞬間だけはそうありたかった。
その後「ふふっ」と冴木の顔が少し綻んだのが見えた。
*
「キササゲ?」
「そう、キササゲ、楸 梓。私の本当の名前。バランス悪いよね。お父さんとお母さんがね離婚したの。冴木は父親の苗字。学校ではそのまま冴木って名乗ってるけど、戸籍上は楸」
ハンプティ事件(俺はそう呼ぶことにした)から数分、冴木は俺に話をしてくれた。
冴木の父親は研究者で、人工知能の研究チームのリーダーだったらしい。
そのチームでは行われようとしてたのが、感情を持つ人工知能の開発、そしてそのために人の脳をコピー(そんなことできるのかはマユツバものだが)した人工知能を作ろうとしていた。
実験は着々と進んでいき、いよいよ人の脳をコピーする直前まで研究は行われ、完成まであともう少しと誰もが意気込んでいたそうだ。
しかしそこで問題となったのが、脳をコピーする人間を誰にするのか、ということだった。
自分の脳をコピーしていいよという物好きは現れず、計画は停滞した。
自分たちの脳を使えばいいじゃないかと思ったが、人工知能についての知識がある彼らは適任ではなかったらしい。
そんな折、白羽の矢が立ったのが冴木 梓だった。
感情が豊かな学生で、適度な学力もあり、なにより開発リーダーの娘、被験体としてはこれ以上ないほど適していた。
冴木は悩んだ。
いくら父親を信頼しているとはいえ、未知の分野、しかも脳をコピーなんていうぶっ飛んだ研究の被験体だ。簡単に頷けはしなかった。
それでも、大好きな父親のために力になりたいという気持ちもあった。
悩んだ末、冴木は首を横に振った。
やっぱり怖かった。自分と同じ思考をするものがある、ということが怖かった。
父親もそれを受け入れてくると思った。
事実、最初は父親も仕方ないさと納得をしたそうだ。
しかし、その後他の被験体も見つからず、プロジェクトは頓挫した。
父親がおかしくなったのはそこからだ。
最初は冴木にしつこく「やっぱり被験体にならないか?」と迫るようになったらしい。
そうしてしばらくすると、暴力的な行動も増えた。冴木の父親は、そのプロジェクトに文字通り命をかけていたらしく、その豹変ぶりは信じられないほどだった。
身の危険を感じた冴木の母親は、離婚を決断した。
そうして冴木の家族は壊れた。
*
「全部、私のせいなんだ。私があのとき、引き受けてればこんなことにはならなかった。お母さんもあれから元気なくて…… 全部……私のせい」
「そんなことない!」
冴木がびくっ、と肩を震わせた。
大声なんてなれないことをするもんじゃないな。図書室ではお静かに、だ。
それでもやっぱり言わなければいけない気がした。
「そんなの、冴木が考えなきゃいけないことじゃないだろ。脳をコピーなんて誰だって怖いよ。冴木が気にするようなことじゃない」
何をわかったようなことを。そう思う。
冴木はたくさん悩んで考えて悲しんで、それを俺が簡単に気にしなくていい、なんて言うべきじゃないんだ。
でも、ヒーローってそういうもんだろ?
似合わなくてもいまだけはそうあるって決めたんだ。
だったら突き通すまでだ。
「それに、いまからだってまだ間に合うよ。生きてるんだから、まだどうにだってなる」
「ふふっ、そっか、そうだよね。ありがと、君と話したら、楽になった。私も頑張ってみるよ、またみんなで仲良く……暮らしたい」
冴木は腫れた目をこすって笑った。
「それに、失敗して私が壊れちゃっても、君が直してくれるんでしょ?」
状況はきっと何も変わってないんだというのはわかってた。
冴木が泣いていた原因は取り除かれてないし、俺には何もできなかった。
それでも、冴木が少しでも笑ってくれたのが嬉しかった。
冴木の問題はきっと冴木にしか解決できない。
だとしたら、もし冴木がそれに失敗したら、そのときは俺が受け止めたい。そう思った。
俺はそれだけでいい。
俺には何もできないけど、君なら何でもできるんだって、そう言ってあげたかった。
だから俺は精一杯の虚勢で返事をした。
「もちろん」と。
*
それがあの日起こった全てだ。
「そっか……私は、君にそこまで話したんだね」
そう、そこまで話してくれた。
話してくれたのに、それなのに俺は、結局彼女を、壊れたハンプティを元に戻せなかった。
違う、気づくことすらできなかったんだ。
そうして冴木を自殺させてしまった。
俺の罪は気づけなかったこと。
「……本当にごめん。俺は気づけなかった。直すだなんて偉そうなこと言って、気づくことすらできなかったんだ」
冴木からの手紙が届いたとき、これは復讐なんだと思った。
気づけなかった俺への復讐だと。
「違うよ、君は直してくれた。私の傷を、家族を」
「何言って…… 俺は何もできなかったんだ」
「そんなことない。私が死ぬ少し前、お母さんとお父さんに話をしたの。そしたらまた、家族三人で暮らせることになったんだ。なんで話をしようとしたのか、いまの私は覚えてなかったけど、それは君のおかげだったんだね。だから、きっと君は私のヒーローだよ」
「じゃあ、なんで冴木は死——」
その先は言えなかった。
何してるんだ俺は、また冴木を傷つけてしまった。
「わからない。でも、きっと答えは図書室にある。明日、全部わかるよ。それに、前の私が君のことどう思ってたって、そんなの関係ない。いまの私は君のこと信じてるから。だから、もう一度お願い。私と図書室に行ってください。そして私が死んだ理由を一緒に探してください。お願いします」
なんだろう、俺はいつも冴木に励まされてる気がする。冴木の言葉でいつも元気付けられてる。
信じてる。
そう言われて逃げるわけにはいかない。
そうだ、真実を確かめよう。
冴木のためにも俺のためにも。
たとえ真実がどんなものであったとしても。
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