4-5 記憶
クロは探偵だ。毎日を家で過ごし、本を読みながら依頼人を待つ。記憶のないクロは思い出を繰り返すという遊びはしない。常に今で、過去も未来もない。
久しぶりに出かけたが結局仕事はなく、依頼と言われたが手伝うこともなく、やはり何もなく、クロはクロとして過ごしたが、得るものは何もない。
何もないクロは何を手にしてもそれは他人のもので、自分に「なる」ということはない。何もないからこそクロはクロなのだ。吸収することはない。
そんなクロは、普段したことのないしかめっ面を浮かべた。手を濡らすアイスクリームは悲劇の塊になってしまった。上からつるつると滴り、こぼれ、童話のように、赤やピンクや紫、ちゃいろ、水色のあらゆる水玉がこぼれている。クロは振り返りながら息を吐き出すと、ほとんど原型のないアイスクリームをボウルに突っ込み、ぐちゃぐちゃにして冷凍庫へ入れた。真っ白なままの冷凍庫にそれは異質に見えた。ここから生物が生まれたとしても誰も疑問に思わないであろう、そんな色をしている。
これを見てシロはどんな反応をするだろう。気まぐれな猫のことを思い浮かべる。わけのわからない不思議なものが大好きな猫が喜ぶ姿を想像すると顔の筋肉が緩む。今、猫はお出かけ中のようだ。ソファにうっすらくぼみが残り、触るとまだ暖かかった。何もないクロが唯一許されているものがシロ、そして――ディスクの引き出しを開けた。
唯一の過去。一つの弾丸。忘れない、と叫ぶ。
それが今日はなかった。弾丸はどこかに消え、真っ白な底しかない。全ての引き出しを開けたが、弾丸はなかった。
クロは首を傾げたが、慌てなかった。何もないクロは失ったところで結局何もない事を知っている。弾丸が消えてもなんの感情も浮かばなかった。変わりにシロの姿が浮かぶ。天使のようにふわふわの白い髪と小さな体。気まぐれで、そのくせいつもそばにいる猫である少女。風力タービンが元通りの風を送り始めたのだ、シロは様子を見に行ったに違いない。
弾丸を持っているのもシロだろう。シロは時々弾丸の位置を動かす。クローゼットの中、ベッドの下、本の隙間。今度はどこに隠したのか。それを見つけるつもりはなく、きっとまた手元に戻ってくるだろう。磁石のように、気がつけば弾丸はそこにあった。引き剥がそうとしてもそれらはついてまわる。きっと、記憶というものもそんなものだろうと思っている。クロの記憶は何もかも失っているけれど、今のクロがあれば充分幸せなのだ。
過去がいつか蘇った時、クロはクロなのだろうか。時々それを考える。記憶がない今はとても満たされていて、何もない。空しさはなく、浮かぶ感情ですら何もない。
過去は、記憶は何を持ってくるのだろう。忘れないと叫んでくれていたあの弾丸は何を意味するのだろうか。そしてどんな意味を得て喪失するのか。そもそも、あれはクロの持ち物なのだろうか? それすら意味も持たないと切り離してしまうクロは、今、この瞬間を過ごす時間が幸せである。
クロは手を洗うと、窓の外を見つめた。空は白い。音を立てて千切れ行く雲もまた白い。一日はゆるりと進み、再び活動し始めた風が頬を撫でて誘う。どこからか甘い香りが漂い、胸がふっと温まる。
クロは冷凍庫を横目で見ると、外に出た。
エイプリルは黒い髪をなびかせ、スカートをはためかせ、走って家に向かっていた。途中、ヨーグルト味のアイスクリームは食べた。ほのかな酸味と後味のさっぱりしたシャーベットに近い食感は食欲を促す。垂れてきてしまったチョコマーブルを食べながらイチゴミルクを舐める。二つとも濃厚だが、イチゴのさわやかな甘さが助けになった。だが、エイプリルは甘いものが得意なのでこれくらいは平気だ。こぼれそうなナッツを頬張りこりこりと食べ、イチゴミルクをぱくりと食べた。憧れのキングサイズはあっという間に二つ消えた。
もう片方の手にあるハチミツレモンとクッキークリームがどろどろに溶け始めていた。しかしこちらは舐めるわけにもいかず、仕方なく手を舐めながら走った。もう間に合わないかもしれない。せめて、家に着くまではこのままでいてほしいと願いながらチョコミントにかじりついた。こちらもエイプリルの好きな、爽快な味と濃密な甘さの組み合わせだ。
「あれ、シロ」
鈴の音にエイプリルはあっと口をあける。もちろん、チョコミントを食べるためだ。シロはおもしろそうにくすくすと喉を鳴らすと、エイプリルのそばまで走ってきた。
「シロ、見てよ。憧れのキングサイズ。千春が食べてるのを見てさ、一度でいいからやってみたくてやってみたくて! マザーに頼み込んじゃった」
シロはぴょんぴょんと跳ねた。食べたいのだろう。
「大丈夫。シロの分はクロが持っていったから。家に帰ればあるよ」
すると、シロは自分の家がある方向と風力タービンを交互に見やった。万華鏡のような虹彩が空に輝く。エイプリルはこぼれるキャラメルナッツをすくい舐め、くるりと思案した。
「帰る頃には溶けてるかもしれないけど……クロの事だから、適当に冷やしてくれてるかもしれないよ。味は保障しないけど。ワタシと同じキングサイズだし」
シロは肩を落とした。きっと、ぐちゃぐちゃの塊になっている事は見なくてもわかった。飼い主は適当だ。とりあえず何かが保っていればいい、一つのことを守っていれば、いや、守っていなくても食べ物だったらとりあえず食べれる状態になっていればよい、ぐらいの適当さだ。それはエイプリルもわかっているので、つい苦笑した。
「またマザーに頼んでアイスクリーム屋さんを連れてきてもらうよ。ワタシががんばれば、いつだって呼べるんだし。アイスクリームは敵じゃない」
そうだね、とシロは笑みを浮かべた。
「じゃあね、シロ。急いで帰らないと、アイスクリームがどろどろ」
ハチミツレモンとクッキークリームは大変なことになっている。しゃべっている間にチョコミントもほとんど消え、チョコマーブルもまだらな模様は消え、ただのチョコとなっている。
「シロ」
エイプリルは鮮やかな笑みを浮かべた。白い街に咲く花のように。
「妹が遊びに来たんだ。アイスクリームを待ってる」
シロは頷くと手を振ることなく走った。エイプリルは目の端で猫を追いながら、同じように走り出す。
「こんなぐちゃぐちゃで、怒るかな、あの子」
どろどろに溶けるアイスクリームを舐めたい衝動に駆られながらぐっとつばを飲み込むと、白く永遠に続く道を見続け、走った。
ふおん、ふおんと風力タービンが背中を押す。もう少しで家に着く。彼女はきっと待ちくたびれてる。大好きなアイスクリームを待ち望みながら。
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