3-5 夢

 白い肉を揺らし、青い双眸が開く。マザーは、震える手に力を入れ、書類を握りつぶす。マザーは苛立ちながらそれをゴミ箱へ捨てた。

 白くぶよぶよした指先には辛うじて、小さな爪がくっついている。マザーはそれを噛み切り、何度も何度もつま先で床を叩いた。小刻みなリズムが白い研究所に響き渡る。秒針のようにちくたくちくたく。

「これではいけないわ」

 ここにはマザー以外誰もいない。誰かを叱責するように言い放つが、反響する声は己を責める。マザーはさらに苛立つと、パソコンの画面を凝視した。

 そこにはいくつか数字が並んでいる。マザー以外にわかる人間はいないであろう、言語も並んでいた。マザーはその青い目に何度も何度もその数字を映し、顔を青くしたり赤く膨らめたりを繰り返した。ついには顔色すらなくなる。

 その中で唯一、わかる言語が一つある。「マリア」の文字だ。マリアについての数値が並ぶ中、突出してグラフがつりあがっているものがある。

「夢が覚める。あの子は幸せを否定する。それではいけないというのに。なぜ。ここが現実だから? だとしても、幸せであるという事は事実には違いない。毒殺され苦しんだ記憶を洗い流したのに……いつも幸せになるプログラムを組んだのに……それを否定するだなんて……いつでも幸せな気持ちになれる事が幸せだというのに、ばかな子……」

 画面を切り替える。街全体が映る。あれほど幻想的な白さを保つ街も、画面から見ればただの白いブロック。子どものおもちゃでできたような、質素な外観である。そこにあるのは誰もが夢見た儚い姿ではなく、ただの街。

 画面の街は何の変わりもない。今日も白く輝き、何も生み出さない。

 そう、何も。風、すら。

 アイコンをクリックする音がむなしく響く。マザーの足もぴたりと止まる。何もかも停止する。マザーの呼吸すら。

「タービンが、止まった」

画面には静止した風力タービンが映っていた。


「風が止まった」

 エイプリルはベッドに横たわりながら窓を見つめる。白いレースのカーテンは揺れるのをやめた。開け放たれているというのに風も音もなく、白い日差しが頬に差し込む。エイプリルの頬もまた白かった。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「平気だ」

 姉の言葉が「大丈夫」から「平気」に変わったのはいつのことだろう。エイプリルの肌は白く透き通っていく。

 エイプリルの具合が悪くなったのはほんの昨日の出来事、アザレやクロやヴェルミヨンに出会った次の日のことである。マリアはアザレとヴェルミヨンについて言えなかったが、エイプリルはマリアの前に二人に出会ったらしく、ごく普通の顔をして「店が来たんだ」と、思ったよりも別の感想を漏らした。

「マリアは店の事、知ってたっけ?」

「ううん、知らない」

「月に一回、外から店が来るんだ。服やアクセサリー、ジャンクフード、本、ゲーム……娯楽を持ってきてくれる。シロは店が来るといつも浮かれて、クロにおねだりしてる。ヴェルミヨンも買い物好きで、特に服を欲しがるな。アザレの機嫌がよければ、買ってくれる」

「お姉ちゃんは……嫌じゃないの?」

「何に対して?」

「アザレさんとヴェルミヨンさんのこと。アザレさんもお姉ちゃんもお互いの事が好きなんでしょ? だったら、お買い物に行くのはお姉ちゃんとアザレさんじゃない」

 エイプリルは苦笑した。まだ十代の少女の顔に気苦労の多い苦味が走る。

「違うって言わなかったっけ? ワタシはアザレの事が大嫌いで、あいつが好きなのは目玉。ワタシたちはそれ以上を求めないそれだけの関係。それだけ」

 マリアは「変だよ」とつぶやきかけて、飲み込んだ。形にならなかった。頭にはごちゃごちゃと単語が浮かぶが、どれ一つ、マリアの言いたい形にはなってくれない。

 マリアはうつむき、エイプリルは目を閉じた。穏やかな空気が流れる。日差しが暖かい。

 マリアは顔を上げた。エイプリルはマリアの顔を見ると、少年のように晴れやかな笑みを浮かべた。

「どうした? 最近、元気がないな」

「それはお姉ちゃんも、だよ」

「ワタシは時々こうなるんだ。女の体はデリケートだから、休息を求める。ワタシは完璧じゃないしな。夢を見せるのはとっても簡単なことなんだ。現実を取り上げて夢だけ与え続けているのは。だって、千春は眠っている。眠っているのは現実で事実だけど、その中で起きている事は夢なんだよ。逆に、ワタシは夢を見せている。現実にいるのに夢を与える……それを現実のように見せるのは簡単だけど……千春の膿をすするのは大変だ」

 エイプリルの中で楽しそうに笑う千春。愛しそうにアザレを想う千春。その表情は、顔は、姿は、エイプリルと同じだ。エイプリルは人格でしかない。千春の中にいる守護者でしかない。本来姿がないのだけれど、千春を守るという名目で千春の肉体を借りている。別々の二人に無理がないわけではない。

「ワタシの経験じゃないのに千春と半分融合しているから、夢なのに現実になってしまう。ワタシ自信がリアルに体験していないのに全て事実として流れ込んでくるんだ。それは平気だけど、そういう風に作られているけど、けど……ワタシのカテゴリは少年型に一応分類されるから……吐き気がするのは事実。夢の事を現実として受け止めていかなくちゃならない」

 千春を守る存在だということを知らないマリアはきょとんとしたが、そのことについては尋ねなかった。その変わりに別のことを口にする。

「最近、夢を見るの。お姉ちゃんは夢、見る?」

「ワタシ? 夢……見せてる側だからなぁ。それにワタシの場合、夢が現実だから、眠る時に見るものだって何もないよ。マリアはどんな夢を?」

「知らない子と一緒にアイスクリームを食べる夢。でもね、食べきる前に醒めるの。だからどこまで食べたのかわからない。それに、なぜか舌がしびれるの。変な夢」

「ちっとも変じゃない。いいな、アイスクリーム。店に売ってたら買うんだけど……」

「売ってないの?」

 エイプリルは先ほど見せた苦笑よりも少し暗い様子で、笑うというより口の端を吊り上げて笑って見せた。ひやりと染みて痛むような、一瞬の笑みだった。

 ――エイプリルは知っていた。マリアの理由を。ここにいる理由を。

 白い街に情報はない。テレビも新聞もない。マザーが許したものしか入ってこない。なので、アザレやグロゼーユが本当は犯罪者だという事はあまり知られていない。親しくなって、本人の口から聞く以外ないのだが、エイプリルは比較的色々なことをあらかじめ知っているし、当事者だからわかっている。マリアの事も知っている。

「怖い世の中になったものね。殺人事件がまた起きたわ」

 そんな事は微塵も思っていないだろう、マザーはカルテを眺めながら簡単な感想を言った。隣にいる元殺人鬼グロゼーユも同じく頷き、エイプリルは苦々しく顔を歪め、舌を出したのだった。

「アイスクリームに毒を混ぜて販売。苦しむ少女の顔が見たいという理由、ですって。偏愛主義でも流行っているのかしら」

 隣にいる切り裂き魔グロゼーユはまたも頷き、エイプリルは目玉コレクターのことを思い出し、苦い顔のまま肩をすくめた。

「人気のお店だったみたいね。その日に購入した人のほとんどが死んでるわ」

 感動のない目で目の前に横たわる少女の体を見る。微動だにしない四肢はよくできた蝋人形のようだ。

「この子は唯一の生き残り。しかもグロゼーユの検査を切り抜けた子。イマジナリーフレンドを埋め込むのにも耐えられそうな丈夫さね。運の良さもいい。エイプリルの妹になれるわ」

「この子がワタシの妹に?」

「そうよ。これでテレビの報道通り、全滅ね。この子は今から生れ変る。幸せになるために新しい人間になるのよ」

 白い街に来た人は、みんな死んでいる。まるで怪奇現象、ホラー映画だ。エイプリル――千春もそういう扱いになっていることはわかっていた。アザレに両親を殺され、娘も死んだ。一家惨殺事件の首謀者であるアザレは捕まり、死刑を宣告されている。

 白い街。死んだ人が白い骨になるように。何もかも白い。死んだ街。

「お姉ちゃん。アイスクリーム食べたら元気になりそう?」

 ぷつん、と映像が途切れる。エイプリルは慌ててマリアを見た。ハチミツ色した瞳が心配そうに姉を見つめ、エイプリルは話を理解する前に頷いた。

「わかった! 探してくるね」

「え、マリア、何を?」

「アイスクリーム! お店、まだいるかどうか見てくる!」

「マリア!」

 手を伸ばす。マリアは軽やかな足で扉を出ると、あっという間に姿は見えなくなってしまった。

 ざっと血の気が失せる。ただでさえ白い顔が紙よりも白く抜け落ちる。

 エイプリルはベッドから転げ落ちた。痛みやだるさに歯噛みしながら立ち上がると、マリアの後を追った。

あの入口から来る店を追ってはいけない。出口から出てはいけない……。

 白い街に風はない。暖かさがゆっくり沈下する。

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