3-4 歪む

白い空。白い壁。白い街。白い海。白い風力タービン。風も白い。目に映るものは全て白い。ミルクの中で沈む街は冷たさも暖かさもなく、時間さえ忘れ去られた中でゆったりと生きている。

ふおん、ふおんと羽が回り続ける。ゆっくり、ゆっくり、白い街をかき混ぜる。あの風は、あの風車は何を生み出そうとしているのか。誰も疑問に思わない。疑問に思うことなど永遠にない。

白い街にたった一つの黒い点。白い風はここまで来ない。街の奥に存在する、外へ通じる唯一の出口。永遠に似た遠い遠い道の先に、今日もぽつんと開いている。誰が通り、誰が来るのだろう。地面は真新しく、足跡一つ見当たらない。

マリアはここを「出口」と信じ見つめる。

白い街から出る、ということになるのはわかっている。だがどこへ「行く」ことになるのかはわからない。これより外部というのは、白い街ではなく、色に溢れた世界なのだろうか。四角い家だけでなく、三角や台形の家もあるのだろうか。そして、人は。幸せ以外を持ち合わせた人間とはどんな存在だっただろうか。マリアの脳裏に過去らしき映像が浮かぶ。

そこは雑多な色を含んだ、広い広い街だった。大小さまざまな家とビル、人工的な木やに匂いのしない花、切りそろえられた芝生。のっぺりとした青い空にはくすんだ煙と雲が交じり合い、黒くなった鳥が口やかましく囀る。

マリアはそこに立っていた。一人ではない。両隣には同じ年頃の女の子がいた。みんな同じ服を着ている。ああ、これは制服だと気づくのになぜか時間を要した。学校で指定された鞄にはぬいぐるみのストラップがいくつもぶら下がり、友人――そうだ、二人は同じ学校の友人で――流行のキャラクタについて、どこが愛らしいか、どのキャラクタが好きかを歩きながら語らった。途中、友人の一人がお腹がすいたと言った。すると、途端に欲求を覚え、アイスクリームを買いに向かった。行きつけの店だ。店員の顔も知っている。何の特徴もない青年だが、一人が「かっこいい」と行く度にはにかんでいた。早く告白すればいいのに、とマリアたちは言ったが本人は見ているだけでいいと答え、それがもどかしく、けれどそれが楽しい。

 マリアはイチゴとチョコレートのマーブルを頼み、友人たちはバニラとチョコミントを頼んだ。三人とも違う味だったので一口ずつ交換した。やっぱりイチゴとチョコレートのマーブルが一番おいしい、とマリアは喜んで食べた。

 それを最後に映像は途切れた。いつもの漣は来ない。幸せになるための暖かな空気はまだない。風力タービンが風を送ってくれない。記憶が鮮明に残る。この映像は――現実だから消えないのか。舌先にイチゴとチョコレートの甘い味は残っている。

 舌先がしびれる。痛みに似た、苦い水が込みあがった。苦しい。息ができない。友達とアイスクリームを食べて、笑って、しゃべって……先が見えない。食べた後どうなったの? 苦い……苦しい……!

 途端に、いつもの幸せがマリアを包む。暖かい水が足先から頭のてっぺんまで満たされる。苦味も息苦しさもあっという間に消え、マリアの心は穏やかなものに戻る。

「マリア。大丈夫よ。私があなたを守るから。あなたの過去を請け負うから、思い出さないで。あなたが死んだ時の記憶を取り戻してはいけない」

誰だろう。不思議な声だ。マリアに似た誰かの声が身体から響く。

「大丈夫。マリアは幸せよ。つらい記憶を忘れることができるあなたは幸せなの。だから、ほら、こんな記憶は蓋をしましょう……」

 優しい声は姉? マリアにきょうだいがいれば、きっとこんな声をしているに違いない。――あれ? ではエイプリルは?

「マリア。今日もあっちを見てるんだな」

ふいに声がして、マリアは現実に戻った。幸せがマリアの夢想を消す。

マリアは振り返る。クロが立っていた。シロはいない。

「そうよ。あの出口を見ているの。誰もあれを出口と言わないのね。ここから出て行こうとしないのね……」

「出る必要がないんじゃないか、多分。入って来ることはあるが」

「探偵なのに曖昧ね」

「調べろと言われたらもう少し詳しくなると思う」

「そればっかり。他人に言われるばかりで、あなたとして調べるって事はないの?」

「ないね。今日はぴりぴりしているようだな」

「してない……」

 マリアはハチミツ色の瞳を一旦閉ざすと、ゆっくりと開いた。いつもの甘い光を灯し、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

「最近、おかしな夢を見るの。寝ていても立っていても」

「立っていても? それはすごい」

「からかってるの?」

「いいや。心の底からすごいと思っている」

 冗談の一つも混じっていないクロの真面目な顔に、マリアはまたも息をついた。ため息ではなく、ただの呼吸だ。心は満たされているのだから。それでも体が無意識に息を吐き出してしまう。

「……私はここではないどこかにいるの。ここにはいない人と一緒にしゃべって、甘いアイスクリームを食べる。けど、夢はここで終わっちゃう。食べ終わった記憶がないの」

「なくならないアイスクリーム。シロが喜びそうだ」

「猫なのにアイスクリーム食べるの?」

「雑食なんだ」

 マリアはまた息を吐いた。あまりに吐き続けたので肺が苦しくなり、急いで吸った。心臓が早鐘のようにどくどくと波打つのがわかる。けれど苦しさよりも暖かさが押し寄せる。血流が幸せを運んできてくれるようだ。

「その後、必ず舌がしびれるの。足がしびれたみたいに。そして息が苦しくなる」

「不思議な夢だ」

「でしょう? クロは夢を見る?」

 クロは目を細めると、斜め上を見ながら呻いた。手をあごに沿え、何度かさすった。やがて視線をマリアに戻すと、何の表情もなく「特に」と答えた。思った以上に素っ気ないが、それがクロという人の性格だと、最近になってようやく飲み込むことができた。

「みんな、夢を見るのかな」

「そういえば、シロも時々夢を見ているらしい」

「魚を追いかける夢?」

「いいや。何かはわからない。ただ、うなされる。喉から唸り声を出していた。苦しい、というより威嚇するような感じだったな」

「シロが……」

 マリアはなんとなくだが、マリア以外に「夢」を見る人はいないと思っていた。エイプリルもアザレもグロゼーユもマザーも。今だけを見ているような気がしていた。シロはこの浮遊する街で夢のような生活を送っている。一番見ないと思っていた。

だって、ここは「夢の中」じゃないの?

「こんなところで二人とも何をしているんだい?」

 白い街に似つかわしくない、むせ返るような花の匂い。豪華な花弁を揺らしながら虫たちを誘惑する官能的な匂いだ。マリアははっと振り返ると、見たこともない女性が立っていた。肌を露出したドレスに黒髪がなびき、整った美しい顔立ちの目は布で塞がれている。彼女だけではない。その隣には人懐っこい笑顔を持ったアザレもいた。

「よお、マリア」

「こんにちは、アザレさん。あの……隣にいるのは?」

「ああ。こいつはヴェルミヨン。この街の住人」

「こんにちは」

 ハスキーな声にマリアは寒気に似たものを覚えながら、挨拶を返した。いかにも大人の女性らしい身体のラインに声は同性でも心臓が踊る。

「お、クロも。こんなところで珍しいな」

「そういうお前も。二人でここまで来るなんて珍しい」

「おや、珍しい事が続くもんだねえ。クロ。アザレはもっと珍しい事をしてくれたよ。あたしにドレスを買ってくれた。今日は外から店が来る日だからねえ」

 クロの表情は常に硬い。仏頂面というわけではないが、起伏はあまりない。それが、驚愕している。口を半分開き、目は見開かれている。アザレとヴェルミヨンを交互に見やり、何度も「本当に?」を繰り返す。

それが珍しいかどうか判断でにないマリアは、それよりも胃に痛みを覚えた。黒いものが胃の中で生まれ、のたうっているようだ。その正体はすぐわかった。

「アザレさん……あなたはお姉ちゃんの事が好きじゃなかったの?」

 なぜか三人ともきょとんとした。マリアの言葉が理解できないように、焦点がぶれた。マリアは胸焼けを起こした。

「酷い! アザレさんにはお姉ちゃんがいるのに!」

「俺とエイプリルが?」

「この間だって夜、こっそり会ってたじゃない!」

「おやおや、アザレ。相変わらずエイプリルがお気に入りだねえ。あんまり激しいとあの華奢な体、壊れちまうよ?」

「体は優しく扱ってるつもりだぜ? けど、時々痛みを与えるといい色をするんだ、あの瞳」

「焼けるねえ」

「相変わらず悪趣味だ」

 三人の会話は恐ろしいほどスムーズだ。明るく、楽しく、他愛もない事。けれど、そんなに愉快に話をする内容だろうか。

「お姉ちゃんは具合悪いのに……」

「そりゃあ、女の子の日だろうよ。エイプリルはいつも倒れるからねぇ」

 マリアの中で、はちきれんばかりの怒りが膨らんだ。薄い皮膚を引きちぎってマグマが飛び出そうだ。頭も沸騰して、何も考えれない。

 ――早く白い風が吹けばいいのに。こんな変な人たちも私の苛立ちも何もかも吹っ飛べばいいのに。

 けれど、願えば願うほど白い街が遠ざかる。ゆるりと景色が変わり、急速に吸い込まれる。鮮やかなモザイクロールが流れ、赤い点滅がまぶたの裏を何度も叩く。鼓動が何度も「こんなのはおかしい」と繰り返す。エイプリルの蒼白な顔が浮かぶが、あれは誰だっただろうか……姉なんていたかどうか景色が揺らぐ。

 マリアは急いで振り返る。漆黒の一点が口をあけて待っている。

 さあ、出よう、と。

ここは現実ではない街。あってはならない、偽物の街。

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