3-3 軋む
ペンが滑らかに走る。マザーは何も言わず書類を書いている。マリアも何も言わず、俯き続けた。マザーの目は書類を見ているはずだが、睨まれているようで体が震えた。マザーの目から針を放っているような気さえする。マリアはぎゅっとスカートを握り、マザーの威圧に耐えた。
マザーは何も言わない。爛々と光る青い瞳は獲物を狙う肉食獣に似ている。時折目を細めてはペンを揺らし、思考に耽る。彼女が何を考えているか誰にもわからない。迫力のある顔に恐怖だけは湧くのだが、それは彼女が母親というものだからだろうか。無言空間でマリアはどんどん押しつぶされていった。
マザーは踵を返すと不自然な配列をしたキーボードの一部をゆっくり押した。少し苛立った様子だった。あれほど機敏に動く姿が緩慢になるのは怒りを抑えるため、そちらに意識が行ってしまうからだ。マザーの動きが鈍くなったら要注意だと、エイプリルが教えてくれた。
「グロゼーユ。こっちに来てちょうだい」
スピーカーから雑音が漏れ、その隙間を縫うように返事が返ってきた。通信の糸がどこに伸びているものなのか、そもそもグロゼーユがどこにいるのか。マリアは何も知らない。グロゼーユは塔の外で暮らしているが、今日は塔のどこかに来ているらしい。何をしているのかわからないが、疑問が浮かぶことはない。
エレベーターからグロゼーユが出てきた。水のように静かで細身の姿はマザーとは違う恐怖を覚える。アルコールの匂いを漂わせ、マリアに鋭い視線を投げかける。「これは癖で、睨みつけているわけでもお前が嫌いなわけでもない」と本人がつぶやいていたが、そう言われても慣れるものではない。癖とはいえ、その仕草自体になんとも言えぬ恐怖を覚えてしまう。
「マリアの数値が不安定よ。本当にこれは強い体だったの?」
「仕方ないだろう。女という性別自体が不安定なんだ。これでもエイプリル並みに強い」
「並み、では困るのよ。それ以上を私は求めている」
グロゼーユは僅かに、相手にわかる程度に肩をすくめると疲れを示した。言葉では何も言わず、代わりにマリアを見た。マリアはただただ肩を小さく丸めるしかない。怒られているわけではないが、何か粗相をしたように思ってしまう。そもそも、どうしてこんなにも恐怖を覚えるのかまるでわからず、こういう時に限って幸せの波は訪れない。眩暈がするほど喉が渇いて、なのに体は冷たく湿っていく。
「マリア。君は部屋に戻っていたほうがいい」
「大丈夫よ」
遮ったのはマザーだ。たるんだ顔は表情一つ変えず、目もカルテから離さない。
「あの子は忘却する。数秒後に忘れる」
「それでは意味がなくなるんじゃあ?」
「全て消えてしまったら、それまでよ。クロと同じようにね」
「俺は大して事情を知らない。だが、忘れるとはいえ、忘れる前に何か起きては困るはずだろう。クロは最初から完全に忘却しているが……例えば、眠り続けているのなら眠っていることを知らないが、今から眠るという時の入り口は恐怖を覚えると聞く。それと同じ状態に、俺は見える」
「そう。そうかもしれないわね。じゃあ、マリア。あなたは部屋に戻っていなさい。私が呼ぶまで待機してなさい。わかったわね」
語気を強めることなく、言葉を羅列する。一見すると本当に母親のようだがそれとは違い、熱がまるでなかった。瞬間、マリアはなぜ彼女をマザーと呼んでいるかわからなくなってしまった。母親とは違うそれをなぜそう呼ぶのか。だとしたら、彼女は一体誰だろう……と思ったところで、マザーの思惑通り記憶は忘却され、暖かさがこみ上がった。
「……わかりました」
マリアは立ち上がると、走ってそこから逃げた。逃げた、という表現がぴったりくるほど、マリアの足は速かった。髪が揺れ、息は自然と上がる。だがマザーもグロゼーユも何も言わなかった。冷たい目線だけがいつまでも背中を刺す。
廊下は白く白く伸びている。突き刺す針のような道の先に、ぽつりと一つ、影がある。マリアは顔を上げると、名を呼ぶ前にその姿をじっと見つめた。まるで絵のように、白いキャンバスに張り付くそれは微動だにせずそこにうずくまっている。黒い髪が体にへばりつき、ブロンズのような光沢を見せている。その姿は絵画というより彫刻に見えるのだった。
影がうめく。痛みを訴えている。マリアははっとして急いで近寄り、ようやく名を呼んだ。
「お姉ちゃん。ねえ、お姉ちゃん。どうかしたの?」
エイプリルは真っ白な顔をマリアに向けた。透き通る肌はこの世のものとは思えない、精巧な陶器のようである。しかしその額には玉のような汗が浮かび、時折頬を伝っていた。黒髪は濡れ、だというのにくちびるは乾いている。
エイプリルは軽く首を振った。くちびるが辛うじて「マリア」と言葉を紡いだが、続きはしなかった。
「どこか痛いの? マザーのところに行く? ねえ、お姉ちゃん、大丈夫?」
エイプリルはまたも首を振った。しかめる顔にくぼんだ目は、言葉がなくとも「マザーを呼ぶな」と語る。恐らく、立場が逆だったとしてもマリアもまたマザーを呼ばないだろう。消されてしまうかもしれない。何も知らないマリアも、どこかでそれを感じている。
「大丈夫。平気だ」
「でも」
「少し、眩暈がしただけ。マザーに言うなよ。変な検査されるからな」
先ほど見せた冷たいマザーの目を思い出し、マリアは急いで頷いた。エイプリルはようやく歯を見せたが、笑ったいるようには見えなかった。彼女としては微笑んだのだろうが。
「なあ、マリア」
エイプリルはようやく背筋を伸ばすと、やや背の低いマリアにそっと視線を落とした。黒い瞳は痛みのせいなのだろうか、水面に似た憂う輝きがある。マリアは犬のように鼻を動かすと、表情を消した。白い静けさと、廊下を吹き抜ける僅かな風がおうおうと呻いている。どこからか風力タービンの音がしたが、それは気のせいだろう。音は徐々に消えていく。
「何でクロに頼んだ?」
エイプリルの涙が優しく頬を伝い、床に落ちる前にどこかへ染み込んだ。マリアはそれをゆっくりと見つめると、頭の中で何度か再生を繰り返した。姉の姿は彫刻――聖母の像のようだった。
「マリア。どうして幸せを恐れるんだ。ワタシたちは幸せがあるからこそ、こうしていれる。いや……ここにいるから幸せなんだ」
「でも、お姉ちゃん」
「でも、なんて言うな。消されるぞ」
「消される?」
「ワタシたちは存在していない。この街があるから誕生できた」
「何を言ってるの?」
「マリア……お前のイマジナリーフレンドの名前はなんて言うんだろうな。ワタシの本当の妹。産まれているのに産声さえ上げずに眠るワタシの妹……」
徐々に呪文めいていく言葉の羅列にマリアはぞっと背筋を震わせた。そこにいるのは確かに姉だ。産まれた時から側にいてくれる頼もしい姉の、はずだ。
「お姉ちゃんは……本当のお姉ちゃんなの?」
その言葉にエイプリルははっと顔を上げる。驚愕に瞳孔を揺らすその顔はまさしく、マリアの知る姉の顔。どこか中性的な、時々少年のように歯を見せて笑う姉の姿。だというのに遠い。
風力タービンが耳障りな音波を発している。ふおん、ふおんと回る音に紛れて、不愉快な軋轢音が脳内をかき回す。
マリアは頭を抱える。それらを振り払おうと。――今すぐに幸せが訪れることを願って。いつもの生ぬるい漣が来ることを、早く来いと切に願う。
「マリア、忘れるんだ。生き続けるために」
エイプリルは廊下の奥へと消えた。歩調はごく緩やかなものだったが、心は急速に離れていく。側にいるのに、廊下が急に引き伸ばされたように急速に、一点へ向かう。
マリアの体はここにあるのに心だけがどこかへ分離するような、消えていくような。
「私……なんで幸せじゃないの?」
いつもの忘却はいつまでも訪れることなく、白い廊下だけが収縮を繰り返す。白い街が歪んで見えた
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