3-6 醒める
それを外と言っていいのだろうか。白い街にとってここが全て。内も外もなく、白い街は白い街。名前もない、ただの白。
それを「永遠」にしてくれない、黒い一点。唯一の出口、四角い扉。扉といっても、本物の扉はない。黒くぽっかりと空いた穴があるだけだ。それが扉のように見えるのは、街の人々の願いかもしれない。自ら外に出ないようにするための戒めに似ていた。
ふおん、ふおんと風力タービンの音が聞こえる。しかし風はない。音も幻聴に過ぎない。それでも心の中でふおん、ふおんと周り続ける。真っ白な羽で白い街をゆっくりとかき混ぜる。ふおん、ふおんと、毎日、毎日。
シロは消失点である出口を見つめながら、心の中で風力タービンを回す。白い街が永遠でありますようにと願いを込めながら。猫である少女は七色の輝きを放つ瞳で出口を凝視する。まばたきもなく、ひたすらに見つめる。
シロは息を吸い、振り返り、口の形だけ「にゃあ」と啼いた。そこにマリアがいる。ハチミツ色の瞳は震え、肩は上下して苦しそうに呼吸を繰り返している。白い街には似合わない、熱い鼓動。シロは凝視することでマリアを覗く。体内を流れる真っ赤な血潮を見つめる。細胞の一つ一つが何を求めているのか探る。
「シロ。そこを退いて」
息を切らし、マリアは言う。広い道を塞ぐのはシロのみ。通り抜けれるはずだ。
「お願い、通して。アイスクリームを買わないといけないの」
シロは首をかしげる。天使のようにふわふわの髪が揺れ、七色の瞳が宝石のように瞬いた。
「お姉ちゃんの具合がよくないの。マザーに見てもらえばいいのに、ベッドから出たくないって言うの。おでこがとても熱かった。口の中もきっと熱いから、アイスクリームを食べればよくなると思うの。でも、街には売ってなかった。もうどこにもなかった。なら、外なら売ってるでしょ?」
シロとエイプリルは友達だ。友達が苦しんでいるのだから、助けてあげたい。シロもマリア同様思ったが、外に出すわけにはいかなかったし、そこまでしなくてもエイプリルの具合はすぐによくなるだろう。エイプリルはたまに体調を崩す。
エイプリルがイマジナリーフレンドであるということをシロは知っている。彼女が彼女ではなく、少年としての人格を持っている、もしくは気性を持っていることはわかっている。千春はアザレによって蹂躙され、両親を奪われた。それに耐えうる精神を持っていなくてはならなかった。それがエイプリルだった。彼女――あるいは彼は千春に穏やかな日常の夢を見せ続け、己は現実を歩く。それがどんなに大変な作業か、それでもやらなくては、それが生きる意味で生き続ける道で、幸せであるための行為。
シロも似ている。弾丸に込められた一つの希望を背負っている。だから猫になった。何も言えない猫に。語るべき口があってしまっては、幸せではいられない。白い街の人たちは、ここだけが唯一の居場所と知っているからここから出ない。
しかし、マリアは違う。エイプリルとは逆に、主人格が面を歩き、イマジナリーフレンドは名前がないまま、眠っている。忘却の波を使い、マリアを幸せにしようと必死に働きかけている。それはもう、限界に来ていた。何も知らないマリアは知るために一歩を踏み出した。これがゲームであれば、勇敢なる者の旅路を告げる鐘が鳴る。けれどここは白い街――。
「シロ。答えられないのはわかってる。でも、お姉ちゃんを元気にしてあげたいの」
シロは首を振る。
――マザー。なぜエイプリルのようにしなかったの。彼女たちも含め、自分たちが異常な事はわかっている。けれど幸せ。幸せの中を生きている。それではいけないの? ここにいて、生きているだけで幸せなのに。
「シロ……何で通してくれないの? 外に何があるの? なぜここはこんなにも白くて、何のないの。ここにいるのはとても幸せ。けれど何か違うの。外にこれ以上の幸せがあるとは思ってない。思ってないのに……別のものがあると思ってしまう。ここに浸りきってはいけないの、きっと。私たちは……みんなは……本当は、幸せは」
マリアは言葉を飲み込む。それ以上は何も言えないでいた。シロは目を見開き、マリアの背後を凝視した。マリアもはっとなって振り返り、その人物を見上げた。
「それは、ここが夢だからだよ、きれいな瞳のお嬢さん。向こうは夢の終わりさ」
マリアは目を凝らす。白い街にふさわしい穏やかな笑みと、不釣合いな不精さ。アザレは目を細め、弱く微笑んだ。
「マリア。お前は積み重ねているものがない。何もない」
「アザレさんはあるの?」
「俺は覚えているし、わかっていてやってる。そもそも、俺は目玉さえあれば幸せさ。グロゼーユも似てるな。人の肌を切り刻んでいれば幸せ。俺たち二人はどこでだって、その行為ができれば幸せなんだ。ヴェルミヨンは自分が美しければそれで幸せで、俺たちと似てる。場所は関係ない。エイプリルは生きている事が幸せ。俺たちと違って、この街じゃないと生きていけないけどな」
「シロと、クロは」
アザレの赤紫の瞳がうっすら光る。シロは黙って見届ける。
「シロとクロこそ、この街そのものだ。何でも知っていて何にも知らない。だからこそ、二人は生きてる。ま、俺の見解だけどな。本当のところがどうなっているかわからない」
「私は、」
「お前は何にもないんだよ、マリア。クロも何もない。けど、シロがいる。お前は?」
「私……」
「ははっ。ある意味、お前はまともさ。わけのわからないものをちゃんと理解している。ここでは理解は不要だ。幸せであればいい。好きな事をすればいい。倫理や道徳なく、貪ればいい。それが幸せに繋がれば一番いいんだよ」
「わたし……」
急速な歪み、眩暈。なぜ幸せにならない?
――いつもの波がやってこない。幸せな気持ちは、忘却はどこに? ああ、今こんなにも幸せを求めているのに、忘れて日常に戻りたい、出口なんていいから、早く、幸せよ、早く来て。
「しあわせになりたいの……」
記憶が歪む。吐気。マリアの中でアイスクリームの夢がよぎる。目を見開き、アザレを見上げる。彼は何も言わず、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ああ、今日もきれいな色をしているなぁ。欲しかったんだよなぁ、ハチミツ色の瞳。マザーの実験は失敗だろうし、どうせ破棄になるんだったら奪ってもいいよな」
アザレは一人空に問う。マリアは目を見開いた。ハチミツ色の動向が広がる。シロは動かない。体を白い街に預け、じっとアザレを見ている。七色の目は何も見てはいない。ここにいるだけを望む目は、そこにあるだけ。
「アザレさん……私は何? この街は何? あなたは、何……。お姉ちゃんは何? ねえ、シロ。シロ……。私だって幸せになりたい……みんなと一緒でいいから、もう出たいなんていわないから、助けて、助けてよ、シロ……」
振り返ろうとするマリアの両肩を大きな手が掴む。マリアは慌てて振り返り、アザレを震えながら見上げた。震えがいつ出てきたかわからない。いつの間にか全身は酷く冷たく濡れ始めていた。
「お嬢さん。君は終わるんだよ」
熱も涼もなく、時間の経過もない。唯一動くタービンも生み出すことをやめた今、マリアの漣は動かない。マリアの中で幸せはやってこない。
アザレは一人笑う。
「目玉がどうやっても欲しくて、殺人ぐらい平気にやっちまうおじさんだよ。俺に幸せをくれよ、マリア。この街は幸せでなければ終わる街なんだ。お前の不安と俺の幸せ。街の幸せの天秤はどちらに傾く?」
マリアの足が無意識のうちに後ずさる。幸せの波の代わりに初めて「恐怖」が生まれた。恐ろしいと、目の前の男と猫である少女に対して思った。いや、この恐怖は以前――七色に溶け合う瞳に似た、ぐちゃぐちゃのアイスクリーム、倒れる人、泡を吹き、吐しゃ物の中で溺れる友人――マリアはあの時、毒によって死んだ――。
「夢のままでいれた方が幸せだっていうこともあるんだよ、世の中には。何もかも理由ありきの幸せを望むな。なあ、シロ?」
アザレの指先が伸びる。鋭利な刃物のように銀色に光った。爪がマリアの頬に触れ、自然と悲鳴がこぼれた。
「やめろ、アザレ! マリア!」
「お姉ちゃん……」
マリアは最後、姉に微笑んだ。
むせ返る血の匂いの中、グロゼーユはアルコールで臭いをごまかしていた。換気しても抜け切らない血の臭いは、いつだって吐き気を催す。だというのに人の肌を切り刻んでいないと、タオルのない赤ん坊のように不安になってしまうのは仕方のないことだと、最近は割り切っている。
「グロゼーユ。失敗よ」
カルテを肩に、けだるくマザーがぼやく。巨体を揺らし、肉塊をだらしがなく壁に寄りかからせていた。グロゼーユは酒臭い息を吐きながら部屋を出る。その後ろをマザーがついて、さらにぼやいた。
「難しいわね、幸せであることは。なのに、なんという贅沢な子だったのかしら。限りなく純粋な幸せだけを与えてあげたのに。エイプリルのような葛藤もないし、あなたたちのような法律の縛りもない。所詮、囲いが無くては幸せも何もないのね」
誰に言うわけでもなくマザーはぼやき続ける。その顔は珍しく疲労の色が浮かび、ため息に似た息を吐き出している。
「すぐに支度をしてちょうだい。もうすぐマリアが来るわ」
「アザレに頼むなんて。今頃どうなっているかわからないな」
グロゼーユは小さく声を落とした。マザーはまったく変わらぬ表情のまま、肩をすくめるような仕草をするだけだ。感情はない。マザーに感情は妨げにしかならない。
「彼は欲望に忠実な男でいいわ。だからとても使いやすい」
「そうですか。全てはマザーの予定通りですね」
「マリアをもう一度殺さなくてはならないなんて、辛いわ。けれど全てはこの街と幸せのため。そのためには何でもしなくてはならない。……確かに、マリアの言う事はわかるわね。何かをしなければ得るものは何も無い。甘いお菓子を食べる前に疑問に思わなくてはならないわね。なぜこのお菓子は甘くてとろけそうなのかを」
白い街が朱に染まる。暗く伸びる影は深く、白い街を侵食した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます