💘53 いよいよお別れのとき
「条件って何……?」
『先ほども言うたとおり、天使は天上界に住まう者。
地上界に住まうことはできぬし、人間と寄り添うて暮らすならなおさらじゃ。
そこで、リュカには人間としての体を与えてやろうと思うが、それには条件がある。
リュカの魂を人の体に入れるのには、天使であった時の記憶を消さねばならぬのじゃ。
もちろん、堕天している間の記憶もな』
「じゃあ、リュカはあたしのことを忘れちゃうの……?」
『リュカだけではない。リュカと関わった地上界の人間の記憶からもリュカの記憶を消すこととなる。
……つまり、ちえりもリュカを忘れてしまうのじゃ』
そんなのやだ────
やっとお互いの気持ちに気づいて、幸せになれると思ってたのに……!!
「そんなのやだ! やだあっ!!
それじゃあ結局離れちゃうのと同じじゃないっ!
やっぱり詐欺よっ」
おじいちゃんに詰め寄り、彼のオーバーオールの肩紐を掴んで揺さぶるあたしを、青ざめたリュカが止めに入る。
『ちょっ! 主になんてことをっ!?
ちえり! 落ち着いて!!』
肩紐を握るあたしの手を解くと、リュカはそのまま自分の温かく大きな手で包み、穏やかな瞳でまっすぐにあたしを見据えた。
『それがちえりと寄り添って生きていける条件ならば、僕は従おうと思います。
心配しなくても大丈夫。
僕が地上界に行ったら、必ずちえりを見つけますから───』
「リュカ……ッ!
でもっ、あたしたち二人の思い出が、お互いの大切な思いが、全部消えちゃうなんて……」
穏やかで力強い彼の笑顔が急に滲んだかと思うと、頬に幾筋もの涙がつたう。
あたしの手を握りしめる片方の手を解くと、リュカはそっとその涙を拭ってくれた。
『僕がちえりの傍にいるためには、それしかないんです。
大丈夫。二人の思いや思い出はまた新しく作っていけばいいんです。
僕を信じて』
深い湖の色の瞳は、揺らぐことなくあたしの姿を優しく閉じ込めていた。
その瞳の美しさに惹き込まれるうちに、あたしの心は落ち着きを取り戻していく。
リュカが嘘を吐いたことはない。
だから必ずあたしを見つけてくれる。
これまでリュカがあたしのためにしてきてくれたことだって、過程が斜め上に突き抜けることはあっても、結果オーライでいつもうまくいっていたんだもの。
「わかった……。
けど、そんなに待たせないでよね。
天使と違って、人間はすぐにおばあさんになっちゃうんだから」
冗談めかしてそう言うと、頬の涙をもう一度拭ったリュカがあたしをそっと抱きしめた。
『約束します。
愛するちえりは、僕が必ず迎えに行きます』
「うん。待ってる。
大好きなリュカのこと、あたしも絶対にわかるから──」
少し体を離して見つめ合う。
彼の深い湖の色の瞳は僅かにも揺らめかない。
だからきっと大丈夫。
瞳に映るあたしがどんどん大きくなる。
その瞳がそっと閉じられて、あたしも目を閉じた。
美しい花々が咲き乱れる中、神様のおじいちゃんの目の前で交わす誓いの口づけは、まるで結婚式みたいだ。
もっとも、おじいちゃんの格好は神父さんの厳かな祭服とは程遠い、麦わら帽子にオーバーオールなんだけど。
『さて、そろそろちえりの魂を体に戻さねばならぬ頃じゃ。
タイムラグや人の記憶を調整するために地上界の時間を巻き戻さねばいかんのじゃが、僅かな巻き戻しでもかなりの力を使うでのう。
リュカの方は今しばらく天上界へとどまるように。
人間としての存在が矛盾せぬよう、こちらも色々と調整を行った後に送り出すでの』
「おじいちゃん。なんだかよくわからないけど、とにかくありがとう」
『主の深いお慈悲に感謝いたします』
あたしとリュカは揃って跪き、おじいちゃんに向かって感謝を捧げた。
いよいよお別れのとき。
そんな空気が三人の間に漂う中、一歩下がって見守っていたラファエルが少し慌てた様子でおじいちゃんに歩み寄った。
『主。お待ちください。
何かお忘れでは……?』
『ほっ? 他に何かあったかのう?』
『私が地底界への照会をお願いしていた “あの件” ですが……』
『おお、そうじゃ、忘れておった。
地底界の
おじいちゃんはげんこつで手のひらをぽん、と打つと、リュカの方を見た。
『実は、おぬしの堕天中の目付役であったガブリエルについてじゃがな。
ラファエルからの要請で、使い魔が善行を犯した場合の地底界での罰則規定について魔王あてに照会しておったのじゃ。
先ほど来た回答によると、ほとんど前例はないものの、人間への善行は地底界に生を受けた者としては許されざる行為であり、追放処分に値するとのことじゃ。
先ほどのガブリエルの行動は使い魔としての本分を忘れ、人命救助に加担した重罪になるらしい。
彼にはじきに処分が下るじゃろう』
『では、ガブリエルの処遇はどうなるのでしょう』
「あたしを助けようと大山先輩に知らせに行ってくれたんだもの!
ガブリエルが罰を受けるのはかわいそうだよ!」
ガブリエルを心配するリュカとあたしの顔を見たおじいちゃんは、飄々とした様子で白い顎髭を触る。
『
しかし、彼を天上界に呼び寄せるにはまだまだ善行が足りんのじゃ。
はてさて、どうしたもんか。のう? 天使長』
芝居がかった困り顔でラファエルに視線を送るおじいちゃん。
それを受けて、ラファエルも『そうですねぇ』と困り顔を見せてから、わざとらしく顔を輝かせた。
『そうだ! では、彼の身分はこのラファエルが責任をもって預かることにいたしましょう。
ただし、地上界でさらなる善行を積むことを天上界へ招く条件とし、その間の目付役にリュカとする。
リュカの中のガブリエルの記憶も失われるでしょうけれど、何らかの形でふたりを結びつけることはできるかと。
それでどうです?』
三文芝居のような仕組まれ感に思わず顔がにやけるあたし。
けれども、純真なリュカはそれがおじいちゃんとラファエルの間であらかじめ調整済みの件であることに気づいていないみたい。
『お二人ともありがとうございます……!
なんとありがたい提案なのでしょう……!』
瞳を潤ませたリュカがラファエルに向き合う。
『ラファエル……。僕の友人のために最後までありがとうございます。
結局僕はあなたのお世話をさせてもらうことができないままでしたね』
『それを言うなら、結局私では君の花を咲かせることができなかったのだ。
けれども、そんな私でも祈り続けることならばできる。
君の幸せと、君が愛する者達の幸せを――』
ラファエルはリュカの額にそっと祝福の口づけをした。
続いてあたしの前に立ち、あたしの額にも優しく口づける。
ラファエルは、なんて理知的で穏やかで寛容なひとなのだろう。
このひとを愛していたリュカの気持ちがとてもよくわかる。
ラファエルのためにも、リュカと二人で最高に美しい花を咲かせたい。
この花畑に咲き誇る二輪の花を、このひとにも見てほしい。
最後にもう一度リュカと口づけを交わす。
それから、あたしは垂直に煌めく泉の前に立ち、静かに目を閉じた。
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