👼49 ひとようつしよの鏡泉

 私は今、主の御座おわす千紫万紅殿へ続く階段を上っている。


 昨晩、リュカとちえりはなんとか苦境を脱したものの、の敵意は未だ尖ったまま、むしろその切っ先をより一層研ぎ澄ませているように伺える。

 ガブリエルはすでに彼女との接触を止めたようだが、燃え上がる嫉妬の炎は簡単に弱まるものではない。


 今は彼女の動向から目を離したくないのだが、主御自らの呼び立てがあるからには何か重要な案件が発生したに違いない。


 その名のとおり、天上界の花々が美しく咲き乱れる神殿の中へと足を踏み入れると、“ひとようつしよの鏡泉” の前にお立ちになったボスがこちらを向いた。


 天と地におけるすべてのものの創造主にして、すべての魂を慈しみ育てるお方。

 そのお姿は荘厳にして美麗、厳粛にして寛容。

 主の御元における生に感謝の念が湧き上がり、知らず私は跪く。


『ラファエル天使長。

 君を呼び出したのは他でもない。

 これから地上界にて起こる出来事、そしてその後にこの神殿に現れる者達、それらの行く末を導くにあたり、君の立ち合いが必要だと思ってね』


 天上界で最も美しい翠晶牡丹のように淡く華やかな微笑みを浮かべ、主は私を手招きなさった。

 その御言葉から察するに、待ちわびたリュカの贖罪がいよいよ成される時がきたのかと、胸のざわめきを抑えつつ、主のお傍に立った。


 鏡泉に映るのは、地上界の海。

 青い海面が徐々にクローズアップされていったかと思うと、果たしてそこに映し出されたのは愛しきリュカと彼の贖罪の対象である藤ヶ谷ちえりであった。

 集団から少し離れた沖にいる彼らは、どうやら岸に向かおうとしているらしい。


 そこへ、あのが近づいてきた。

 ちえりとはほとんど接点がないはずの二人の女性を引き連れて。


 浮き輪を着けた彼女とその浮き輪に手を添えて泳いできた二人が、ビーチボールを抱えて浮かぶちえりと向き合う位置までくると、彼女がちえりに親しげに話しかけた。


「ちえりちゃん。今日は私から話があるんだけど、ちょっといい?」


「え? ……うん、どうしたの?」


 明らかに警戒した様子のちえり。

 ちえりのすぐ頭上で、リュカも相手方の動向を伺っている。


「昨日は私を庇って、事件のことを誰にも言わないでいてくれてありがとう」


「え、あ、うん」


 彼女の屈託のない笑顔に、拍子抜けした声色でちえりが応える。

 彼女は笑顔のまま言葉を続ける。


「おかげで、今日はちえりちゃんの犯人説がさらに広まってるみたい。

 主将の下着はちえりちゃんがこっそり返したみたいだけど、もう主将も止められなくなってるくらい皆話題にしてるよ♪」


 彼女は楽しそうにふふっと笑いを漏らすと、途端にその本性を顕にする眼差しをちえりに向けた。


「あなたって、本当にお人好しでお馬鹿さんね。

 黙って主将から手を引けば、私達から今後攻撃を受けることもなかったのに。

“赤フン同盟に一緒に対抗しよう” なんて言われたら、ほっとくわけにいかないじゃない?」


 呆然とするちえりが、絞り出す声で彼女に問う。


「有紗ちゃん、どういうこと……?

 赤フン同盟って……」


「そう。私達のことよ。

 合宿に来ていない柔道部や剣道部にもメンバーがいるけどね」


「じゃあ、昨日の犯行はやっぱり有紗ちゃんが首謀者だったの?

 そして、階段から突き落としたのも……」


「そういうこと。階段で背中を押したのはそっちの美奈子だけどね。もっとも、指示を出したのは私だけど」


「ガブリエルと接触しているのも有紗ちゃんだったのね……」


「ガブリエル? ……ああ、あの喋るカラスのこと? 昨日はとぼけてごめんね?

 そもそもあいつが土壇場で下りるなんていうもんだから昨日の計画が狂ったのよね。

 おかげで私が男湯に忍び込まなきゃいけなくなって、スパポーンに目撃されちゃったんだもの」


 そうぼやいた有紗が目配せをすると、仲間の二人がちえりの脇を固めた。


「だっさいワンピースの水着なんか着ちゃって、これも予想外よ。

 水着ビキニを脱がせて困らせてやろうと思ってただけなのに、おかげでもっと酷いことをあなたにしなきゃいけなくなったわ」


 言葉とは裏腹に愉快そうに口元を歪める彼女。

 その刹那、脇にいた一人がちえりを羽交い締めにし、もう一人が海へ潜ったかと思うと、ちえりは突然水中へと引きずり込まれた。


『ちえりっ!!』


 慌てたリュカが空中から咄嗟に腕を伸ばす。


 「ガボゴボッ」


 呼気が幾つかの大きな泡となり弾けたところで、ちえりの頭が水面に出た。


 ちえりが咳き込みながら有紗を睨みつける。


「ちょ……っ! ゲホッ! 何、す……」


「ちえりちゃん。

 悪いけど、空手部のマネージャーを辞めてくれるかな。

 それから、二度と私達に歯向かおうなんて思わないで。

 その二つを約束してくれたら許してあげる♪」


 有紗が言い終わらないうちに、ちえりがまた海中に引きずり込まれた。


 まずい。

 これは酷すぎる。

 なんとかしないと──


 鏡泉に向かって思わず伸ばした私の手に、主が制するように御手を添えた。


『まあまあ。すべてが終わるまで君は黙って見ていなさい』


『しかし、このままではちえりが……っ』


 主は静かに笑みを浮かべたまま、鏡泉が映すちえりとリュカの危機をお見守りなさっている。


『やめろぉぉっ!!』


 悲痛な叫びを上げたリュカが、ちえりを救い出そうと羽交い締めをする女の腕に上から絡みついた。

 ちえりも全力でもがいて抵抗しているが、泳ぎが得意な上に合気道の有段者であるその女は関節の可動域や力の逃し方を知っているようで、ちえりの腕が解かれる様子は全くない。


 もがくちえりが再び海中へ姿を消す寸前、最後まで海面に出ていた右手首をリュカが掴んだ。


『あっ……!!』


 空中に浮いていた彼がバランスを崩し、海面に左半身を打ち付けた。


 背中に生えた彼の翼に波がかぶる。

 鏡泉から腕を差し伸べてすぐに彼を救い出したいが、主がそれをお許しにならない。


「リュカ……ッ!」


 引き上げられたちえりが息も吸わずに彼の名を叫んだ。


「リュカって何? そんなに苦しいのにまだ約束してくれないの?

 やっぱりちえりちゃんって変わってるよね! キャハッ!」


「ガボゴ……ッ」


『ちえりっ! ちえりっ!!』


 ざぶざぶと慣れない水中で足掻きながらリュカがちえりを引き上げようとするも、大きな翼や黒い燕尾服が水を吸い、非力な彼では己の体すら制御困難となっている。


「リュ……ゴボッ」


 またしても呼吸を忘れて彼に手を伸ばしたまま沈められるちえり。


『うむ。……そろそろか』


 胸を抉られるような光景を静かにご覧になっておられた主はそう呟くと、おもむろに御手を鏡泉の中へと沈ませ、何かを引き上げる仕草をなさった。

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