💘37 方向性が間違っていたというの!?

 救急車が向かった先の町立病院でスパポーンは精密検査を受けた。


 脳に損傷は見られないものの、数時間は安静にして経過観察した方がよいとのことで、入院病棟のベッドに運ばれた。

 夜までに異常が見られなければそのまま帰れるけれど、一週間は激しい運動を避けるようにとのことで、彼の合宿の継続参加は困難となった。


 そして今、あたしは病室の外、ナースステーションの前のラウンジで先輩とソファに座っている。


「お疲れさん」


 自販機で先輩が買った二本の缶コーヒーの片方を差し出され、「ありがとうございます」と受け取った時に、先輩と二人きりになっていることに気がついた。

 途端に緊張で心臓の音が大きく聞こえてくる。


 そう言えばリュカはどこに行ったんだろう?

 気を利かせてどこかで時間をつぶしているんだろうか。


「スパポーン、寝ちゃいましたね」


 さんざん頭の中をひっかき回したのに、見つかった言葉はこれだけだった。

 スリムなリュカなら入れそうなくらいのスペースを開けて隣に座る大山先輩が、ためらいがちに「実はな……」と切り出した。


「ムエタイ同好会が今回の合宿に参加することになったのは急な話だっただろう?

 合宿の日程や費用を確保するために、あいつここ何日かバイトを詰め込んで無理していたんだよ。

 普段ならバランスを崩したくらいであんな倒れ方をするような奴じゃない。

 きっと疲れもあったんだろうと思う」


「そうだったんですか……」


 リュカは自分のせいでスパポーンが倒れたと思っているけれど、スパポーン側の体調の問題もあったんだ。

 スパポーンの検査中もずっと落ち込んでいたリュカに早く伝えてあげたいな。




 それにしても――




「じゃあ、先輩はスパポーンがかなり疲れているのを知っていて本気のスパーリングをしたんですか?

 あんな一方的な賭けなんて、先輩が応じなければそれですんだのに」




「……藤ヶ谷はスパポーンが持ち込んだ賭けの内容を知っているのか?」


 缶コーヒーのプルタブに指をかけていた先輩が、少しうろたえたようにあたしを見た。




 そうだ! これはリュカから聞いた情報だ! あたしが知るわけがないんだった!




「あっ、えっと、たまたまスパポーンと先輩の会話が聞こえたっていう有紗ちゃんが教えてくれて……」


 有紗ちゃん、勝手に名前使わせてもらっちゃった! ごめんっ!


 先輩はあたしの言い訳を聞いて、やれやれといったように頬をかいた。


「すまん。唐突だったし受けるつもりはなかったんだが、途中から俺もスイッチが入ってしまった。

 すぐに熱くなるのが俺の悪いところだな。藤ヶ谷に不快な思いをさせたのだったら謝る」


「いえっ! そんな……」


 あたしに頭を下げた先輩にどんな言葉を返していいのかわからずに戸惑っていると、顔を上げた先輩が苦笑いした。


「そういえば、藤ヶ谷にたしなめられたのはこれで二回目だな」


「えっ!?」


 そうだった! また思い出した!

 スパポーンが先輩にムエタイ転向を断られて涙ぐんでいたのを見たとき、大山先輩が思いを寄せる女の子を傷つけたのだと勘違いして先輩に物申したのだった!


「いえ、あの時は勘違いしてほんっとーにすみませんでしたっっつ!!」


 今度はあたしが先輩に深々と頭を下げると、頭上から「はははっ」と楽しそうに笑う声がした。


「いや。事情を知らない人間があの言葉だけを聞いたら誤解して当然だよな。

 スパポーンはあの外見だし、すぐに悔し泣きする奴だしな」




 先輩、愉快そうに笑ってる……!

 気を悪くしてなくてよかったぁーーーー!!




「でも、先輩はこういうズケズケとものを言う女子は苦手なんですよね。

 以後気をつけます!」


「え?」


 きょとんとする先輩。


「え、あの……。先輩は控えめな女の子が好みなんじゃ……?」


「そんなことを言った覚えはないが……」


「だって、好みのタイプは田中千恵子や倍賞裕子だって」


「は? 誰だ? それ」





 え!?


 えぇ!?


 えええええぇぇぇぇーーーーっっっ!!?





 じゃ、何!?


 有紗ちゃんが教えてくれた情報はデマだったというのっ!?


 将来は国家スパイ志望で情報収集力には自信があると言っていた有紗ちゃんが偽情報を掴んでいたというのっ!?


 昭和の女を目指して、“献身的なマネージャー” になる努力をしていたあたしの方向性は間違っていたというのっっっ!!?




 これまでリュカと二人三脚で積み上げてきたいろいろに、ぴきぴきとヒビが入って今にも崩れそうになったとき――




「控えめだろうがなかろうが、目の前のことに一生懸命になれる人間を俺は認めている。

 スパポーンも強引なところはあるが、あいつは何事にも一生懸命だから俺は好きだ。

 そして藤ヶ谷も……」


 そこまで言った先輩の顔がみるみる赤く染まり始めた。




「マネージャーの仕事をいつも一生懸命にやってくれている。

 ……そんな奴を俺が苦手だと思うわけがない」




 そこまで言ったときの先輩はすでに耳まで真っ赤で。


「スパポーンも異常なさそうだし、皆が待ってるから俺は合宿所に戻る」


 そう言うと先輩はリュックを持って立ち上がった。


「藤ヶ谷はどうする?」


「あ、と、とりあえずスパポーンが目を覚ますまでついていようかと思います」


「そうか。よろしく頼む」




 照れくさそうに背中を向けて、足早に立ち去る先輩を見送る。





 両手で包んだ開けずじまいの缶コーヒーは、気がつけば上りきったあたしの体温ですっかりぬるくなってしまっていた。




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