💘07 ドキドキが止まらない



 どうしよう。





 ドキドキが止まらない……!!






 吐きそうなくらいに押し上がっていた冷ややかな恐怖は、繋がれた手の温かさでいつの間にか溶けて小さくなっていた。


 けれども、あたしの手を握る力強さとか、公園を出ても一度も振り返ることのない背中とか、ゆったりめのTシャツが空気を含んで揺れる、そこに浮き出る肩や肩甲骨の骨ばった感じとか。


 後ろ姿から滲み出る朴訥ぼくとつとした男らしさが、あたしの動悸を別のドキドキにすり替えていく。



「あっ……」



 彼の早足に必死でついて行っていた足がもつれた。


 そこで初めて彼が振り向いた。


「あ、すまん」


 ぱっと手を離し、夜道でもわかるくらいに顔を赤らめる。


「ここまで来ればもう大丈夫だ」


 そう言って照れ臭そうに白い歯をこぼした彼に、早まっていた鼓動がトクンと大きな音を立てた。


 サイドを短く刈り上げた頭や輪郭から首にかけての筋張ったラインは精悍で、いかにも武道家といった感じだ。

 凛々しく形のよい眉毛はきりりと横に伸びていて、そのすぐ下にある切れ長の目は元々少し垂れ目なのだろう、目尻に皺を寄せて警戒心を解いている。


 さっきはパニックで気づかなかったけど、この人イケメンだ!!



 しかも──



 フンドシの似合うイケメンだあぁっ!!!



 いや、フンドシって言ってもひらひらと風になびく赤フンじゃないよ!?

 あの、神輿なんかを勇壮に担いでる男達が締めてるような、白くてねじり上がったあのフンドシだよ!?




 だ──




 大・好・物……!!





 はっと気がつくと、初対面の人のふんどし姿をうっかり妄想しかけたあたしを、眉根を寄せた彼が心配そうに見ていた。


「まだ動揺してるみたいだな。

 家まで送ろうか」

「えっ!? いえ、もう大丈夫ですっ!!」

「足がまだ震えてる。家はこっちでいいの?」


 彼に言われて足元を見ると、確かに膝が笑っていた。


 くるりと背中を向けて歩き出す彼。

 もう手は繋いでくれないみたいだけれど、歩く速度はだいぶゆっくりにしてくれている。


 転ばないように、そして彼と少しでも長く歩いていられるように、ゆっくりゆっくりついて歩く。


「さっきは本当に助かりました。

 お礼がしたいので、お名前教えていただけませんか?」


「名乗るほどの者じゃない」


 ぶっきらぼうに言われて、さらに胸がキュンとなる。


 お名前教えてくれないのなら、我が心の呼び名を “白フンの君” にしちゃいますよ!?


「あ、じゃあせめて、うちでお茶でもいかがですか? たいしたおもてなしはできないけど」

「若い女が見ず知らずの男を簡単に家に上げるもんじゃない」


 白フンの君は、見た目に違わず硬派な人らしい。


「これからは深夜でなくても暗い道は一人で歩かないようにな」


 アパートの下まで来ると、白フンの君は爽やかに片手を上げてさっさと行ってしまった。

 慌てて頭を下げたあたしは、彼の背中が見えなくなるまでぽわんとその場に立ち尽くしていた。


 👼


『さっきから、“白フン” って単語を何度か呟いてますけど、何があったんですか?』


 ぽわんとしたまま部屋に入ったあたしの目の前に、白いフリルエプロンをつけたリュカが座っている。

 訝しげな顔をしながら、湯気の立つけんちん汁と鯖の塩焼きをテーブルに置く。


『さ、今日もちえりのために腕によりをかけて作りましたよ!

 温かいうちに食べてくださいね!』


 最初はあまり食べる気がしなかったんだけど、リュカに促されて口に運んだ。


「あ、美味しい……」


 リュカお手製の温かいけんちん汁が、心にこびりついていた恐怖や緊張をゆっくりと剥がしていく。


『僕が先に戻って夕食を用意している間に一体何があったのか……』

「そうよ!それよ!すっごく怖い目にあったんだからっ!!」


 ようやく先ほどの出来事を順を追って話せるほどに落ち着いてきて、あたしはリュカに一部始終を話した。


 話しているうちに、リュカの顔がみるみると青ざめていく。


『あああ……!!

 僕がけんちん汁を作っている間に、ちえりがそんな大変なことに……!!』

「白フンの君が通りかかって助けてくれなければ、ほんとにどうなっていたか」

『すみませんでしたっ!! 僕はやはりちえりの傍から離れるべきではなかった! 』


 そう叫んで頭を両手で抱えたリュカが、突然腕を広げたかと思うとがばっと抱きついてきた!


「ちょ、リュカ、くるし……」


『僕は二度とちえりの傍を離れませんからっ!!

 ちえりが幸せになるまでは、半径3メートル以内にずうっと僕がついてますからね!』


 あたしの、幸せ──


 その言葉に、白フンの君の朴訥とした背中が思い出された。


「ねえ、リュカ。

 白フンの君ともう一度会えたら、あたし、神様に感謝するほど幸せって思えるかも」


 ぼそりと呟くと、あたしを抱きしめていたリュカがぱっと腕を解いた。


『それは……本当ですか?』


「うん。白フンの君とお付き合いできたら、きっと幸せって思えるはず」


『……今しれっとハードル上げましたよね?』


 リュカは『しかし名前すらわからないのでは……』とか『ガブリエルに頼めば或いは……』とか『いや、やはりそこは自力で突き止めないと……』とかぶつぶつ独り言を呟いていたけれど、意を決したように顔を上げ、鯖の塩焼きをつつくあたしをはたと見据えた。


『わかりました!ちえりのために僕が白フンの君を見つけ出します!』


 そう言うが早いが、


『では早速その辺で白フンの似合いそうな男性がいないか探してきます!

 ちえり、食べ終わったお皿はそのままにせず、せめて流しに運んでお湯に浸しておいてくださいよ!?

 そのまま放置するとお皿の汚れがカピカピになって取れにくいのでっ』


 ときっちり言い残して窓の外へ出て行った。


 早速あたしから半径3メートル以上離れてますけどー!?


 漆黒の翼を広げた背中にツッコミを入れようとしてやめた。

 あれでもあたしのために一生懸命動いてくれているんだもんね。


 夜闇に完全に溶け込むまでリュカを見送ると、あたしはそっと窓を閉めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る