8 対決
○2012年5月6日 月齢14.8
激しい風の音が聞こえる。頬に冷たい風が当たる。
ヤツカはぼんやりと目を開けた。
ヤツカは横になっていた。地面には鉄を格子状に組んだグレーチングが敷き詰められている。向こう側には鉄柵があり、その手前に置かれている円筒状の物体とともに、ぐるりと円上に囲っている。柵の向こう、下からは、なぜかもやもやと明かりが立ち込めている。
ようやく先ほどの記憶を思い出してきた――そうだ、あれから自分はどうなったのだろうか。
ヤツカは起き上がるため手を動かそうとしたが――何故か力が入らなかった。他の部分も動かそうとしたが、頭の命令に筋肉が反応してくれないのだ。かろうじて、首から上は動かすことが出来る。
この感覚には心あたりがあった。
ヤツカの首には、細長い銀色の首輪がはめられていた。これは月で使用される神経拘束具だ。付けられた者は、首から下の体性神経が阻害され、自由に動かすことができなくなる。
ヤツカは状況を確かめようと、寝転がったまま首をもたげて、後ろを見ようとした。
すると、彼女の目には直径1メートルはある太くて白い鉄柱が映った。鉄柱はぐるりと円上に等間隔に立っており、その中心には幾つもの灰色の鉄柱や鉄パイプと、黒いビニールで被覆された太い電線が見えた。
その鉄柱を追って目を上げていくと――目算150メートル、40階建てのビルほどはあるだろうか、天を突き刺すように円筒状の建造物がそびえ立っていた。途中には、長方形の白い板が並べて取り付けられている。先端は白いライトで明るく照らしだされて不気味に光っていた。
ここは一体どこなのか、ヤツカには分からなかった。一瞬、その奇妙な光景を目にして、地球ではないのではないかと感じた。しかし、夜空に浮かぶ月を見てその疑いは消えた。
ふいに頭の上のほうから物音が聞こえてきた。顔と目をめいいっぱい上げて様子を伺う。
床の上に這う様々なケーブルが目に入った。ケーブルの途中には、月人が使う小型コンピューターがいくつか挟まれている。ケーブルは鉄塔の中心の電線に繋がれているらしい。
鉄柱の陰から人影が姿を表した。
ゴルギアスだった。
彼は鉄柱の中心の電線とケーブルをいじっている。
ふと、ゴルギアスはヤツカと目が合った。
「おお、目が覚めたか。丁度いい。今接続が終わったところだ。お前には特別に特等席から見せてやろう」
「……何をしている?ここはどこだ?」
「分からないか?――そうか、そこでは見えないか」
ゴルギアスはヤツカの襟元を乱暴に掴んで持ち上げ、鉄柱に上半身をもたげるように移動させた。おかげで柵の下に広がる光景を目にすることができた。
柵の下から立ち込める明かり――それは街の明かり、東京の夜景だった。
ヤツカは自分が今、東京スカイツリーにいることが分かった。ヤツカが今座っているこの場所は、高さ500メートルほどの地点、後ろに建っているのはゲイン塔だ。塔に取り付けられている長方形の白い板は、放送用送信アンテナだ。
東京スカイツリー――ヤツカは今までバラバラになっていたパズルのピースが一瞬にして繋ぎ合わさって完成するように、ゴルギアスの計画の全貌が分かり、青ざめた。
奴はこのスカイツリーを使って鉢の電波を増幅させて送信する気だ。
ゴルギアスは柵の方に行き、眼下に広がる東京の夜景を見渡しながら言った。
「旧約聖書創世記11章『バベルの塔』――
世界中は同じ言葉を使って同じように話していた。人の子は天まで届く塔のある町――バベルを建て、有名になろう、そして全地に散らされる事のないようにしようと言った。主は降ってきて、人の子らが建てた、塔のある町を見て、言われた。
『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることは出来ない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう』
こうして主は彼らの言葉を混乱させ、意思の疎通が取れなくなった人の子の間では不和が絶えなくなった――
まさしくこの塔は現代のバベルの塔となるだろう」
ゴルギアスはこのように聖書の言葉を引用して語った。
バベル計画――彼らが地球人に伝わる聖書の言葉を引用して計画名を名付けたのは、地球人に対する皮肉であった。
ヤツカはままならない体に苛立ちを覚えつつ、ゴルギアスに噛み付いた。
「お前が東京をどうするつもりかは知らないが、この東京をどうかしたところで地球は月人達の物にはならないぞ」
例えこの東京スカイツリーで電波を増幅させても、効果が現れるのは、ここから電波の届く関東の一部だけである。関東の一部だけといえど、その被害は考えるのも恐ろしかったが、それでも地球上の極々一部にとどまることは確かだった。
ゴルギアスはゲイン塔に歩み寄ってしゃがみ、鉢を拾い上げた。鉢には、ケーブルの繋がったシールが数カ所貼られており、地面の小型コンピュータを通って、ゲイン塔の電線に伸びていた。
「――ハヤトという奴、広域捜査官からは事情は聞いたんだろう?俺がなぜパイドロスにこの計画の実行者として選ばれたかを」
「……お前が地球人に恨みを持っているからだ」
「ああ、そうだ――俺は子供の頃、魔女狩りにあって地球人に左目を潰された。生きたまま左目を抉り取られたんだ。想像を絶する痛みだったよ。それ以来、この左目は定期的に痛む。もう左目はないのに、何度も何度もあの時の痛みが蘇るんだ――医者は手術して人口眼球を取り付けるように薦めたが俺は断った。なぜだと思う?」
ヤツカは、昨日ゴルギアスが眼から血を流し始めたのはそういう理由だったのかと理解した。
月では人工臓器の技術は進んでおり、事故や病気で体の一部を失っても、大抵は人工臓器で代替できる。
彼がなぜ眼球を失ったまま痛みを受け入れているのか、ヤツカには分からず黙っていた。
ゴルギアスは重苦しく口を開いた。
「憎しみを忘れないためだ。俺のこの憎しみを風化させないためだ。この痛みが、地球人たちが俺達にしたあの所業を思い出させてくれる。この痛みが、俺がやるべきことを思い出させてくれるんだ」
ゴルギアスは語気を強めて言った。彼の血色の悪い顔の下には、マグマのようなどろりとした熱い怒りが流れているようだった。
「――そして俺の持つ、この強い『憎しみ』こそ、パイドロスがこの計画に俺を選んだ重要な理由だ」
ゴルギアスはニヤリと狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「俺が鉢を使って念じるのは、この強い『憎しみ』だ。このシンプルな感情だったら植えつけるのも簡単だし、今日の月の力と相まって人の脳に深く根を張る。今日は東京のみしか植えつけることが出来ないが、憎しみはウィルスのようなものだ。憎しみはこの東京を起点にじわじわと広がっていき、やがて世界を覆い尽くす。地球は地球人同士の手によって血で染められ、その内乱によって滅びるだろう。俺はそれが見られれば満足だ――パイドロスはその後ゆっくりと地球を頂くつもりらしいがな」
ヤツカはゴルギアスが口にした計画に言葉を失った。
パイドロスは地球人同士の戦争が狙いだったのだ。
このやり方なら、月人が手を出すまでもなく、悠々と地球を手に入れることができる。パイドロスはヤツカが考えるよりも、ずっと陰湿で、辛抱強い男だった。
ゴルギアスに説得が通じるとは思えない。しかし、今は時間稼ぎをするしかない。
アガトンが来るまでの間――
「ゴルギアス、やめろ。人類も今では魔女狩りは過ちだったと認めている。お前が考えているように、地球人みんなが悪人ではないんだ」
「……俺を説得しようとしているのか?」
ゴルギアスが、月明かりに照らされて怪しく光る隻眼で、ぎろりとヤツカを睨んだ。
「俺の家族は俺の目の前で、生きたまま焼き殺された。あの時の家族の叫び声、焼ける体の臭い、その回りで狂喜乱舞する地球人――のうのうと地球で生きてきたお前に想像がつくか?俺の友人や知り合いが地球人から受けた凄惨な行為を一つ一つ話してやろうか?――全員が悪人じゃない?――そんなの知ったこっちゃない。いいか、俺にとっては俺の経験が全てなんだ。他人の経験など無意味だ。何一つ価値を持たない」
駄目だ――最初から期待はしていなかったが、やはり説得は通じそうにない。ヤツカはゴルギアスの境遇に同情しないわけではなかったが、彼の考えには同意できなかった。
ゴルギアスは右手に持っている鉢を掲げた。
「さあ、もうじき月が今宵、一番空高く登る――結局捜査官も来なかったな。お前はそこから、とくと見とくがいい」
ゴルギアスが目をつぶって念じようとしたその時だった。
後ろから迫り来る轟音に、ゴルギアスはすかさず身を翻してかわした。
ゴルギアスに向かってスタンボールが放たれたのだ。
何事かと驚いて振り向くと――そこには、宙に浮かんだサーフボードに乗ってハヤトが立っていた。
「ハヤト!?」
「ヤツカ!無事か?」
ヤツカが驚いて声を上げ、ハヤトがヤツカを見て声をかけた。
「!?――ヤツカだと?どうなっている!?」
ゴルギアスは驚いて二人の顔を見比べる。どちらも同じ顔をしており、確かにそこに存在している。
困惑した表情を浮かべていたゴルギアスだったが、突如何かに気がついたような顔をして、薄く笑みを浮かべた。
「お前らは――双子か!」
ゴルギアスは自分で納得したように頷いた。
「ハヤトは草薙京介の息子で――俺を追ってきた広域捜査官も草薙京介の息子なのか!同じ月人の母親の元に産まれたんだな?知らなかった、広域捜査官にも混ざりモノがいたなんて――そうか、俺が冷凍刑務所にいた間のことだからか!」
ゴルギアスは目の前にいるハヤトにお構いなしに考えを巡らす。
「しかしパイドロスがそのことを俺に伝えなかったということは、パイドロスも知らなかったということか?」
ハヤトはなんだか自分が忘れられているような気がして、意を決してゴルギアスに向かって左手を構えて叫んだ。
「おとなしくヤツカを解放しろ!」
それは、落ち着いた威圧の行動というより、腹をくくったやけっぱちの行動に見える。ゴルギアスはその様子を見て、またしても何かに気付いたようだった。
「待てよ――と言うことは、今まで俺が戦ってきたのが広域捜査官のヤツカということか?――そしてヤツカは今や動けない――ならお前がハヤトか?ただの一般人の?」
ハヤトはごくりと唾を飲み込む。ゴルギアスは呆れたように声を出して笑い出した。
「そうだよな、今まで隠れてばかりいたんだもんな。こいつは驚いた。ヤツカ、お前の兄弟は命知らずらしい」
ゴルギアスは懐を探り、琥珀色の玉を取り出した。『龍の首の玉』――龍玉だ。
ハヤトはその龍玉を見て、頭に浮かんだ言葉が自然と口を動かした。
「――まずい」
龍玉から、するりと、小さな龍が這い出してきた。龍は身をくねらせ、ゴム風船を擦り合わせるような嫌な音をたてながら、大きさを増していく。
ハヤトはその恐ろしい光景をただ見つめ、つばを飲み込んだ。
「ハヤト!早くやれ!」
ヤツカの叫び声を聞き、我に帰った。
ハヤトは龍に向かってスタンボールを放つ。しかし、いとも簡単に龍はそれをかわした。
「黙っておけ!」
ゴルギアスは、ヤツカを睨んだ。すると、ヤツカは声が出なくなってしまった。ゴルギアスはヤツカの声帯の神経までも阻害させたのだ。
そうこうしているうちに、龍は本来の大きさを取り戻した。
「おい、ハヤト!お前も月人の血を引いているらしい。俺は地球人は嫌いだが月人には恨みはない。お前がここで手を引くなら、お前らが持つ月人の血に免じてヤツカと共に見逃してやってもいいぞ」
ゴルギアスはハヤトに向かってこう提案した。
ハヤトは構えていた左手を降ろし、少し考えてから口を開いた。
「――ゴルギアス。地球人に恨みを持っているそうだが、みんながみんな悪い奴じゃないんだ。俺はそんな人たちをたくさん知っている。あんたがその人達を傷つけようとするなら――俺はその人達を守るために戦うよ」
ハヤトの瞳には、以前とは違い、ヤツカと同じような強い意志の色が浮かんでいた。
ゴルギアスはその瞳を見て、ため息をついて首を振った。
「さすが双子といったところか――そうだな、結局は自分の経験が全てなんだ。お互い理解することなんてできやしないな」
ゴルギアスは龍玉をかかげ直し、刺すようにハヤトを睨んだ。
「ならば消えろ!」
龍がビクンと体をうねらせ、唸り声を上げた。それは、地面の底から鳴り響くような、人間が本能的に恐怖を覚える類の音だった。
その鳴き声にハヤトは思わず怯んで、反重力装置の操作が乱れてバランスを崩しそうになった。
「ハヤト、怯むな!来るぞ!」
姿は見えなかったが、ティグリスの声が聞こえた。
龍は赤黒くぬらりと光る禍々しい口を広げて、今まさにハヤトに襲いかかろうとしていた。
ハヤトは頭のなかで素早くサーフボードを傾けるイメージをした。サーフボードはその通りに動いたが、予想以上に早く動いたため、滑り落ちそうになり、手をついてしがみついた。
龍はサーフボードすれすれをかすめていき、激しい風切り音が耳をつんざき、風圧でまたしてもバランスを失った。
「はっはっはっ、お前の兄弟はうまいじゃないか」
ゴルギアスが声も出せず後ろに座っているヤツカに話しかけた。ハヤトの稚拙な反重力装置の操作を見て、この状況を楽しんでいるようだ。ヤツカは忌々しそうにゴルギアスを睨んだ。
ハヤトは誰の目から見ても明らかに不利だった。
無理もない。
今までただの高校生として暮らしてきた少年が、一夜にして空を飛び、龍と戦っているのだ。しかし、そんな状況でも、ハヤトは戦意だけは失っていなかった。
今は自分がやるしかないのだ。
自分の大切な人、自分の家族を守るため。
だが、その考えが焦りを生んでいた。
自分は必ず勝たなければならないと言う考えが。
ハヤトは、自分を通り過ぎ、再びこちらに襲いかかろうと旋回する龍に、スタンボールを続けて何発も撃ち放った。
しかしどのスタンボールも、ひょいと、軽やかにかわされた。そればかりか、ハヤトがスタンボールを放つことに集中しすぎたため、サーフボードが、がくんと落ちるように傾き、ハヤトは足を滑らせて落ちる――
「うわっ!」
とっさに手を出し、サーフボードのへりに捕まった。ハヤトは東京の上空、高度600メートルで宙ぶらりんの形になった。
「落ち着け、ハヤト!心を鎮めるんだ!」
ティグリスにそう言われたものの、この状況で心を鎮めることが出来るのは相当な訓練を積んだものだけだ。
「無茶言うなよ!」
ハヤトはティグリスに言い返した。
この危機的状況に、さらに心が乱れる。
サーフボードはいきり立った馬のように、ガクンガクンと暴れ回り、ハヤトは振り落とされそうになった。
「ハヤト、また来るぞ!」
ハヤトは上半身をサーフボードに預けながら、振り向いた。またしても龍がこちらに向かってきている。最悪のタイミングだ。
ハヤトは気持ちを鎮めるため呼吸を整え始めた。
龍の方は見ない。
目をつぶって、深く息を吸い込み、吐き出す。
吸い込み、吐き出す――
サーフボードはピタリと安定して止まった。風を切る音が聞こえてくる。
ヤツカが目を開けると、龍が今まさに咬みつこうと口を開いていた。
次の瞬間、サーフボードはぐるんと上方向に回転した。その回転に合わせて、ハヤトはサーフボードに乗って立ち上がった。まるでプロのサーカス団員を思わせるような滑らかな動きだった。
龍を操作しているゴルギアスも、さすがにその動きにはついていけなかった。龍はハヤトがいたはずの場所、空中を咬みついて通り過ぎた・
ゴルギアスも、さすがにその動きには深く驚嘆したようだった。
「アイツは――何者なんだ?」
ゴルギアスの後ろでその様子を見ていたヤツカも、感心したように笑みを浮かべた。
「すごいぞ、ハヤト!やっぱりお前には才能がある、月だったら反重力飛行士の免許が取れるぞ!」
ティグリスは、ハヤトの肩に乗って興奮した様子で褒めた。ティグリスにしては珍しい反応だった。
「ありがとう、ただのまぐれだよ」
それは本心だった。正直、どうやってやったのか覚えていない。さっきのは何も考えていない、無意識のうちの行動だった。もう一度やれと言われたって、恐らくできないだろう。
「それより、このままじゃ埒があかない。とてもあの龍には勝てそうにないよ」
ハヤトは空中を滑りながらティグリスに言った。龍は向こう側で身をくねらせて、またしてもハヤトに襲いかかろうと体勢を整えている。
「ああ、確かに――例えスタンボールを龍に当てることができても、どれほど効果があるのか分からん。龍を操っているゴルギアスを狙ったほうがいいかもしれんが、そう簡単には攻撃できないだろう……危険を伴うがひとつ作戦がある」
ティグリスはハヤトに作戦を打ち明けた。
「ハヤト、できそうか?お前の技量に関わっている」
ハヤトは迷ったが、この時、ヤツカの言葉を思い出した。
――自分の可能性を信じてやるんだ――
「――分かった、やってみよう」
ハヤトは心を固め、ティグリスの作戦に同意した。
ハヤトは龍をおびき寄せるように空を滑った。龍はハヤトの後を追いかけてくる。
ハヤトは後ろにいる龍を伺いつつ、右へ左へ方向を変えながら滑っていく。
最高速度では龍のほうが勝っているので、直線を滑っていれば追いつかれてしまうだろう。しかし、こうして蛇行していれば、追いつかれずに翻弄することが出来る。だが、それでも追いつかれないようにするには精一杯であった。
時折、後ろにいる龍が首を伸ばして噛みつこうとする。ハヤトは巧みにサーフボードを操りつつ避けていく。
「ちょこまかと動きやがって!」
ゴルギアスは予想以上にハヤトが動けることに苛立っていた。早く仕留めないと、月の光の効果が落ちてしまう。
ハヤトはそうやって攻防を繰り返しつつ、少しずつゴルギアスのいる方に距離を詰めていき、狙いを定めていた。
そして、ゴルギアスと龍、ハヤトが一直線に並んだ時である。
ハヤトは龍に向かっていつもよりも小さいスタンボールを放った。龍はするりとそれをかわす。が、それをかわしたことで、ゴルギアスの方にスタンボールが飛んでいった。
龍の体を目隠しに使ったのである。
目の前に急に現れたスタンボールにゴルギアスは驚いたが、さっとしゃがみ、それをかわした。
「ハハハ、残念だったな!龍玉を持っている俺を直接狙おうとしたようだが惜しかったな!――だが俺とお前じゃ所詮戦いにはならん。そろそろケリをつけさせてもらうぞ!」
ゴルギアスが龍玉を構え直したその時だった。
「俺だったらどうだ?」
ゴルギアスの後ろから声が聞こえてきた。
(――まさか!?)
振り向こうとした時、体に強い衝撃が走り、鉄柵に叩きつけられた。
蹴り飛ばされたのだ。
その拍子にゴルギアスの右手から龍玉は滑り落ち、宙に放り出された。左手に持っていた鉢も滑り落ちたが、鉢に繋がれているケーブルが鉄柵に引っかかり、ぶら下がる形になった。
「ヤツカ!」
ゴルギアスの後ろにはヤツカが立っていた。
でもなぜ?――神経拘束具を付けているはずなのに――
よく見ると、ヤツカの神経拘束具から煙が上がっていた。
ハヤトはゴルギアスを狙ったと見せかけて、実はハヤトの神経拘束具を狙い、スタンボールでそれを破壊したのだった。
「クソ!」
ゴルギアスが忌々しそうに声を上げた。
体の自由を取り戻したヤツカはゴルギアスに殴りかかり、ゴルギアスもそれに応戦する。
ヤツカはゴルギアスにスタンボールを使わせないように、距離を詰めて手を休めることなく打撃を加えていく。ゴルギアスはその対応に手一杯でスタンボールを放てない。
上空をゆらりと飛んでいた龍は突然、悲鳴を上げて悶え始めた。
空中に放り出された龍玉が地面に落ちて砕けたのだ。
龍の体は尻尾の方から火の粉のように散り始め、ついには跡形もなく消え失せてしまった。
「ハヤト、早くヤツカの元に!」
「ああ!」
ティグリスに急かされ、ハヤトはサーフボードを操作して、ヤツカとゴルギアスが戦っているゲイン塔に向かった。
ヤツカとゴルギアスは激しい打撃の応酬を繰り広げている。二人の体術の技量は互角に見えた。
ハヤトはゲイン塔に降り立った。
「ハヤト、あそこに鉢がある!」
ティグリスが顎で指した方には、ケーブルが繋がった鉢が鉄柵にぶら下がっていた。ハヤトはそこに駆け寄って鉢を取り、繋がれていたケーブルを引きちぎった。
「チッ!」
ヤツカと戦いながら、それを横目で見ていたゴルギアスは舌打ちをした。
ヤツカは一切隙を与えてくれない。ハヤトが鉢を手に取るのをただ見ることしかできなかった。
「ハヤト、ゴルギアスを狙うんだ!」
ティグリスが指示した。
ハヤトは左手をかざしてゴルギアスに向けた。しかし、ヤツカとゴルギアスは激しい乱闘を繰り広げており、狙いを定めることが出来ない。
「駄目だ!下手するとヤツカに当たるかもしれない!」
ハヤトも、二人の戦いをただ黙って見ていることしか出来なかった。
ふと、ハヤトはゴルギアスの左目の眼帯の下から、あの時と同じように血が流れ出していることに気付いた。しかし、あの時のように、ゴルギアスは痛みに悶えていない。
いや、傷んでいるのは確かだろう。彼の顔は苦悶に満ちている。だが、彼は決して攻撃の手を緩めない。その痛みを、彼が放つ打撃に乗せて、かろうじて我慢しているという印象を受ける。
事実、ヤツカは、彼が放つ重い一撃一撃に圧倒されていた。
ヤツカが厳しい訓練を積んだ特別機動捜査官であるとは言え、彼もまた、ハヤトと同じ15歳で、さらに少女であることに変わりはないのだ。
二人の間には圧倒的な体格差がある。ヤツカはその体格による戦力の差を、俊敏な動作をもってして埋めていた。
しばらく互角の戦いを繰り広げていた二人だったが、一瞬のことだった。
突如、一際強い風がゲイン塔に吹きつけた。
「うっ……!」
風上にいたヤツカはその風を直に受けてバランスを崩したが、風下にいたゴルギアスは、ヤツカが壁になってくれたために無事だった。
このチャンスをゴルギアスは逃さなかった。
ヤツカのみぞおちに強烈な右アッパーを打ち込む。鈍い音が鳴り、ヤツカは声にならないうめき声をもらした。
「ヤツカ!」ハヤトが叫ぶ。
ゴルギアスは素早くヤツカの後ろに回り込み、首を締めあげた。
「ふぅ、全く、手こずらせやがって」
ゴルギアスは頬に伝わる血を拭い、呼吸を整えながら言った。
ハヤトが動こうとすると、ゴルギアスはハヤトに見せつけるようにヤツカの首を更に強く締めあげた。ハヤトは動くことが出来なかった。
「さあ、まずはリングを外してもらおうか」
二人の間に緊迫した空気が流れる。
ハヤトは自分がどうすべきか迷っていた。その気色がゴルギアスに伝わったのだろう。
「そうか、これならどうだ?」
ゴルギアスはヤツカの首を締めながら、柵の方へとにじり寄った。
「外さなきゃ、こいつをここから落とす」
「ハヤト!構うな!」
ヤツカが声をひねり出すように叫んだが、ゴルギアスが首を締め上げて、それを遮った。
「どうだ?」
少し考えた後、ハヤトは右手を上げ、袖をまくった。そこには銀色のリングがはめられている。
ハヤトはそのリングを外し、ゴルギアスに見せた。
「さぁ、外したぞ」
「そいつを捨てろ」
ハヤトは重苦しい表情をした後、リングを持っている手を開いた。
リングは風に飛ばされ、きらきらと光りながら、夜の闇に消えていった。ヤツカは悔しそうな表情を浮かべた。
「これでお前には何もできない。ただの無力なガキだ――さぁ、鉢も渡してもらおう」
ハヤトはヤツカの顔を伺った。ヤツカは渡すなと首を振る。ハヤトは鉢を見つめた後、決意を固めたような顔をした。
「分かった。渡そう――受け取れ!」
ハヤトは振りかぶって――鉢を思いっきり投げた。
鉢はゴルギアスの頭上高く通って飛んでいく。
ゴルギアスは驚いた顔でその鉢を目で追っていく。自分の頭の上を通り過ぎ、振り返ってハヤトに背を向けた時だった。
背後から轟音が聞こえてくる――まさか!
ゴルギアスの背にスタンボールが直撃し、吹き飛ばされた。鉄柵をも壊し、宙に投げ出される。しかし、捕まっていたヤツカもそれに巻き込まれて宙に投げ出された。
「ヤツカ!」
ハヤトは急いでサーフボードを取り上げて乗り込んだ。ヤツカとゴルギアスを追うために急降下する。
二人はほぼ同じ位置で落下している。二人に追いつくためには、自由落下以上の速度を出さなければならない。
ハヤトはサーフボードにしがみつき、ほぼ垂直状態となってぐんぐんとスピードを上げていく。
高さ450メートルの展望回廊、350メートルの展望デッキと瞬く間に通り過ぎていく。風が顔に強く当たり、目を開けているのが困難になる。眼下にミニチュアのように見えていた建物達がすごい速度で大きさを増していく。
恐怖という感覚が遅れてついていけないほど、速い速度で落下しているのだ。
ヤツカは落下しながら、巧みにマントと体を操作して、気絶しているゴルギアスに近づき、彼を捕まえた。丁度その頃、ハヤトはヤツカのいる地点に追いついた。
既に200メートル地点は過ぎただろうか。鮮明に輪郭を増していく街並みがハヤトに威圧感を与える。
ハヤトは二人を通り越し、下側に潜り込んだ。そしてサーフボードを水平に戻して立ち上がる。徐々に落下のスピードを緩め、サーフボードの先端に乗っける形で、ヤツカとゴルギアスを受け止めた。
既に周りに建つ、50メートル級の建物と同じ高さまで来ている。
ハヤトは思いっきり急上昇を始めた。
下方向にかかる重力加速度のあまり大きさに、ハヤトは手をつき、意識が朦朧とした。頭がぼーっとして、視界が狭まりはじめた。
このまま気絶してしまう――
「ハヤト!」
ヤツカの叫び声が聞こえ、ヤツカの顔が目に入った。表情は分からない。ただ、ヤツカの瞳だけが脳に焼き付く。
ハヤトは気力を振り絞って耐えた。
しばらく自分たちが今どのくらいの高さにいるのか分からなかった。
ハヤトの意識がはっきりしてきた時には、東京スカイツリーの展望回廊が真横に見えていた。
足元を見ると、ヤツカがゴルギアスを抱えて、サーフボードにうつ伏せに横たわっていた。
「ヤツカ、大丈夫か!?」
ハヤトが声をかけると、ヤツカはぼんやりと顔を上げた。
「ああ、大丈夫だ――一瞬駄目かと思ったけどね」
ヤツカはいたずらっぽい笑みを浮かべた。ヤツカにしては珍しい。無事に助かって心から安心したのだろう。ハヤトも、それを見て顔がほころんだ。
「俺もだよ、なんだか今になって足が震えて――」
ハヤトはここまで言って、大事なことを思い出した。
「はっ、鉢は!?」
ヤツカはゆっくりと首を振った。
「俺達より先に落ちて地面に当たって粉々に砕けるのを見たよ」
「ご、ごめん。俺があんなやり方をしたから――」
「いや、いいんだ。お前は何一つ悪くない。それにあんな鉢は壊してしまったほうが良かったのかもしれない」
しゅんと肩を落としたハヤトを、ヤツカは優しく励ました。
「それよりだ。どうなってる?お前はリングを外したじゃないか。一体どんなマジックを――」
ヤツカは自分で何気なく言った言葉にピンときたようだった。
「もしかしてマジックか?」
ハヤトはニヤリと笑って左手の袖をまくった。そこには、銀色に光るリングがはめられていた。
「ヤツカのリングはこっちだ。俺はヤツカと同じように左利きだしね。さっき外した、右手にはめていたリングは母さんのだよ――ここに来る途中に思いついたんだ。ユキの家でヤツカがされたようなことを、またされたらピンチだ。特に俺の場合、このリングがなければただの高校生だからね。こうすれば、もしもの時にごまかせるかもしれないと思ってね――二つ身につけておく――マジックの基本だよ」
ハヤトが得意気に両手を広げた。ヤツカはポカンとした表情を浮かべた後、おかしそうに笑い始めた。ヤツカがこんなに笑っている姿を見るのは初めてだった。
「すごいよ、ハヤト。見事だ。すっかり騙されたよ」
ハヤトもヤツカと共に笑いあいたかったが、それはできなかった。ハヤトは気まずそうに口を開いた。
「……でも、母さんの形見のリングをなくしてしまったよ、ごめん……」
ヤツカは笑うのをやめ、ばつの悪そうな表情を浮かべた。二人の間に沈黙が流れる。
その時、ハヤトは、向こうの夜空に浮かぶ、キラキラと光る物体を見つけた。
「なんだあれは?」
その物体は、風にたなびく銀紙のように光を放っている。そしてそれはどんどんとこちらに近づいてくるのだ。
近づくにつれ、その光る物体の上に、闇に紛れて羽ばたく生物がいることに気がついた。
「ジャックか!?」
ハヤトは驚いて声を上げた。夜空と同化したカラスのジャックが、羽ばたきながらこちらに近づいてくるのだ。
ハヤトが左腕を差し出すと、ジャックはそこに留まった。
「お前、ついてきたのか?」
ジャックは羽をバサバサと広げて、顔を上げた。当然、とでも言っているような仕草だ。
ハヤトがジャックの足に目を向ける。
ジャックが足に抱えていた光り輝く物体――それはなんと、母のリングだった。
「ジャック、取ってきてくれたのか?――って、お前はどうせ、光るものが好きだから取ってきただけだよな」
ジャックは、ガァ、と一声、鋭く鳴いた。
そのやり取りを見たヤツカは、たまらず笑い声を上げた。顔には満面の笑みを浮かべ、腹の底から笑っているようである。
普段とのあまりのギャップにハヤトは驚いてぽかんとしていたが、だんだんとハヤトもおかしくなってきた。
今度はヤツカとともに心の底から笑い合える。
東京の上空で、そっくりな2つの笑い声が、こだまするように響き渡った。
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