7 決意
ハヤトとユキは、息を潜めて家の壁に張り付いていた。心臓の音がゴルギアスに聞こえるのではないかと心配するほど高鳴っていた。
――足音が遠ざかる。
幸運にもバレずに済んだらしい。
心配になった二人は、家に向かい、窓とカーテンの僅かな隙間から様子を伺い聞き耳を立てていたのだが、ヤツカが吹き飛ばされた時にユキが思わず小さな悲鳴を立ててしまった。声をかけられ、こちらに足音が近づいてきた時は絶対に駄目だと思った。しかしカーテンを開けた瞬間、その音に驚いてハヤトの肩からジャックが飛び立ったのだった。
二人はとりあえず胸を撫で下ろした。しかし、状況は非常に悪い。
その時、激しい音と衝撃が走り、ハヤトとユキは顔を覆った。振り向くと、自分たちが今まで覗いていた家の窓が吹き飛んで、ぽっかりと大きな穴が空いていた。そして、そこからあの龍が、ずるんと体を滑らせて飛び立っていった。ハヤトはその背中に、ゴルギアスがヤツカを抱えて乗っているのを確認した。
「お父さん!」
ユキは家の中で倒れている誠一の元へ駆け寄り、その体を起こした。ハヤトも京介の元に駆け寄る。京介と誠一は、目をつむり、力が抜けきったような顔をしていた。
「父さん!」
ハヤトは京介に呼びかける。体を揺らしたり、頬を叩いしたりしてみたものの、反応はなかった。
ハヤトの頭は混乱していた。鉢が奪われ、自分が最も頼りとしていたヤツカがさらわれてしまった。そして、父と誠一も意識を取り戻さない。
安全を確認したのか、壁に開いた大きな穴からジャックが戻ってきて、ソファーの上に留まった。
ハヤトは床に落ちている銀色に輝く帯を見つけた。それはヤツカがつけていたリングだった。ハヤトは近寄ってそのリングを手にとった。
ヤツカはこのリングが無ければ、自分が持つほとんどの道具は使えないと言っていた。リングをなくした今、ヤツカがゴルギアスに勝てる見込みはほとんどないだろう。ハヤトの心に、絶望と、言いようのない恐怖が広がっていく。
「おい、ヤツカはどうした」
突然後ろから聞こえてきた第三者の声に、ハヤトは驚いて振り返った。そこには、ホログラムでできた黒猫のティグリスがちょこんと座っていた。
「ティグリス!?どうしてお前が?」
「お前がそのリングを持っているからだよ」
ティグリスはハヤトとは対照的に落ち着いた声で言った。
「けど、このリングは持ち主しか使えないはずじゃ?」
「リングは遺伝子照合、お前とヤツカは一卵性双生児、全く同じ遺伝子型を持っているんだ。お前にそのリングが使えてもおかしくない」
ハヤトは手に持っている銀色の帯を見つめた。まさか自分にも使えるとは思わなかった。とにかく、今はティグリスが現れてくれて助かった。
「ティグリス、父さんたちはどうしたんだ?」
「大丈夫だ。二人は電波の影響を受けて深く眠っているだけだ。いつかは分からないが、じきに目を覚ますはずだ。心配要らない」
ハヤトは京介を見つめた。
「――ゴルギアスは一体どこに?」
「それは分からん。しかし奴の言動から、今日、バベル計画とやらを、この東京で実行に移すのは間違いないだろう」
ハヤトは慌てた――しかし、どうしようもないように思われた。
突然、ユキが思い出したように声を上げた。
「ハヤト!通信機!あれでアガトンに連絡してみよう」
ハヤトは手を叩いた
「そうか!――でも使い方がわからないよ」
「大丈夫。使い方は俺が教えよう」
ハヤトはズボンのポケットに手を突っ込み、ヤツカから渡された通信機を取り出した。表面をこすると、淡い光が灯り、月文字といくつかの図形が表示された。ハヤトはティグリスの指示通りに、画面を触って操作していく。
通信機の表面にあの時と同じ円が現れ、回転を始める。どうやらうまくできたらしい。ユキもハヤトの後ろに回りこんで、その画面を覗きこんだ。
画面にアガトンが映った。
「おお、ヤツカ、どうした?今宇宙船に乗り込んだところだ。これから向かうよ」
「いや、違うんです。俺はハヤトです」
「ハヤト?――ヤツカはどうした?」
ハヤトはアガトンに事情を説明した。
「とにかく一刻も早くこちらに来て下さい!」
アガトンは困った表情を浮かべた。
「そう言われても――俺がそっちに着くのは最速でも5、6時間後になるだろう」
愕然としてハヤトは壁掛時計を見た。時計の針は22時を指していた。
「そんな!ゴルギアスは今夜、計画を実行しようとしてるんです。6時間も後じゃ、既に手遅れです!何とかなりませんか?――そうだ!あの空間転移ってのを使えば」
「いや、空間転移は距離が離れすぎていて使えないんだ――こればっかりはどうしようもない」
「そんな……どうすれば……」
ハヤトは絶望して肩を落とした。ゴルギアスはそんなハヤトを見て、しばらく思いを巡らせた後、こう言った。
「ハヤト、君が何とかするんだ」
ハヤトは目を丸くして聞き返した。
「――僕がですか?」
「ああ、君ならリングが使えるんだろう?ゴルギアスを捕まえろとまでは言わないが、ヤツカのもとに行ってリングを渡してやるんだ」
アガトンの顔は真剣そのものだった。どうやら冗談ではないらしい。
「アガトン、それは流石に無理があると思うがね」
ティグリスがやや呆れたように言った。
「しかし今はそれしか手はない。それに君はヤツカと同じ血を持っているんだ。ヤツカに出来ることが君に出来ないわけ無いだろう」
あまりにも無茶苦茶な理論にハヤトは言葉を失ってしまった。反論したいことは山ほどあったが、それが喉で渋滞のようにつっかえて出てこなかった。代わりにティグリスが口を開いた。
「アガトンはこういう根性論の持ち主でね」
「リングの操作はティグリスに教えてもらえ。とにかく俺は少しでも早くそちらに着くように出発する。健闘を祈るぞ」
アガトンは画面から消え、暗くなった。ハヤトはしばし呆然とその画面を見つめていた。
「俺が助けに行くなんて出来るわけがない!」
ハヤトは頭を抱えて部屋を歩き回っていた。彼は自分に託された使命を受け入れたわけではなかったが、その左腕にはヤツカのリングがはめられていた。
「確かに無茶なことかもしれないが、今はお前がやるしかない」
ティグリスも最初はアガトンの提案に否定的だったが、今ではヤツカを奮起させようと説得している。
「そうは言われても俺はただの高校生だ。ユキもそう思うだろう?」
ユキは腕を組んで何かを考え込んでいる様子だった。
「どちらにせよ、ゴルギアスが今どこにいるか分からないと動きようがないね」
「そうだ。居場所も分からない。ティグリスは分かるのか?」
ティグリスは首を振った。
「分からないが、見つけ出すしかない。ゴルギアスは今夜中に必ず計画を実行に移す。そうなれば地球人の危機だぞ」
「それは分かってるよ」
困り果てたように力なくハヤトが返事した。
「当然、ヤツカやお前の父親、そしてユキたちにも被害が及ぶ。お前は彼らを助けたくないのか?」
ハヤトは、ソファーでぐったりと横になっている京介と誠一を見た。
ハヤトは京介のことを全面的に許せた訳じゃなかったが、先ほどのヤツカとユキの話を聞いて、彼にも彼なりの事情と考えがあり、それに基づいた行為であったことは理解できた。前ほど父に対して失望してはいなかった。
誠一は自分を我が子のように面倒を見て育ててくれた。
そしてユキに目を移す。幼い頃から家族同然に育ってきた大切な存在。ユキは相変わらず何か考え込んでいる。
「もちろんみんなを助けたいよ……だけど俺にできっこないよ。俺はヤツカとは違うんだ」
ティグリスは黙っていた。ティグリスの猫の顔からは何を考えているか分からない。しばらく沈黙した後、こんなことを話しだした。
「ヤツカは自分のことを珍しくないと言ったが、月で月人と地球人の混血者が広域捜査官になったのは歴史上ヤツカが初めてだ。任命時の年齢は13歳。これは歴史上6番目に若い記録になる」
ハヤトは驚いて目を丸くした。ティグリスはさらに続ける。
「それだけじゃない。機動捜査官は過酷な訓練と試験を乗り越えた捜査官のみが任命される役職だ。この機動捜査官は捜査官全体の3%しかいない。ヤツカが機動捜査官に任命されたのは、捜査官になって1年と5日目のことだ。これは史上3番目に早い記録だ――正直、ヤツカは月ではかなり特別な存在だよ」
ハヤトは驚嘆のあまり言葉を失った――ヤツカは自分の想像を超えて遥かに凄い人物らしい。ハヤトはヤツカを誇りに思う反面、自分を惨めに感じた。
「やっぱり俺とヤツカは違うんだな」
「そうじゃない」
ティグリスはすかさず否定して言葉を続けた。
「俺はヤツカがリングを渡された5歳の時からの付き合いになる。昔からヤツカは月人と地球人の混血だということで虐げられていた。ヤツカも気の弱い子だったから、しょっちゅう泣いていた。
学校に入ってからは毎日いじめられていた。勉強も運動も回りの子と比べたら劣っていた。毎日のように泣いていたよ。そしてさっきのお前と同じような言葉を呟くんだ。私とみんなは違う、だからできないんだ、とね。
ある日、そんな弱音を吐くヤツカに、アガトンはこう言った。『そうだ、お前と俺達月人は違う――いや、それだけじゃない。回りを見てみろ。月人の間でも誰だって一人として同じ奴はいないじゃないか――いいか、人と違うのは当たり前のことだ。誰だって人とは違うんだ。
それを知った上でだ。周りを見て自分と人を比べ合うのはひどく無意味なことだとは思わないか?誰しも違うのが当たり前なんだから。ではどこを見るべきだと思う?お前が見るべきものは、周りじゃない――上だ。常に上を見るんだ。あの空に浮かぶ星たちだ。
上というものは誰にだって、どこにだって存在する。そして決して変わらない。人と比べるな。上だけを見ろ』
そして同時に、アガトンはお前の存在をその時に初めて教えた。地球で暮らすお前にも恥じないくらい、立派な人物になれと。
その日から、ヤツカは弱音を吐かなくなった。失敗しても、常に上を見ていた。何を言われても上を見ていた――気付いたら、学校の誰よりも優秀な生徒になっていた。そして、それでも変わらず上を見続け――ヤツカは広域捜査官になったんだ」
ハヤトとユキはティグリスの話に聞き入っていた。ハヤトはその話に心が震えた。
ヤツカは自分と一緒だった。何一つ変わらない存在だった。ある時までは。
ヤツカはあったかもしれない自分の姿だ。しかし自分はそうはならなかった。そしてその今の姿を選択したのは、他らならぬ自分なのだ。
ヤツカは上だけを見ていた。それは未来を見ることにも繋がっていた。反対に、自分は周りと過去だけを見ていた。人と比べ、人と違う価値を手に入れようとしていた。自分が見るべき場所はそこではなかったのだ。
ユキもその話には深く感動していた。
――上を見ろ。
中でもこの言葉は、ユキの心に深く突き刺さった。ユキは、ぽっかりと穴が開いた家の壁から夜空を見た。
空には丸くて大きな月が浮かんでいる。そしてユキは少しずつ目を下ろす――ユキは視界にそれを捕らえて、頭に電撃が走るような気分を味わった。
「ティグリス!ゴルギアス達の計画名は『バベル』だったよね!?」
しんみりとした空気の中、突然ユキが大きな声を上げて、ティグリスとハヤトは驚いた。
「そうだが?」
「人は天まで届く塔を建設しようとして、神の怒りを買った――旧約聖書の創世記に出てくる『バベルの塔』ね」
ハヤトとティグリスは顔を見合わせた。
「それがどうした?」
ハヤトが訊く。
「鉢の出す電波は強力だけどその範囲がかなり限定される。効果的に結果を出すなら、より広範囲に電波を広げようと考えるんじゃないかな?」
二人は頷いた。
「それができるならね」とティグリス。
「鉢が出す電波自体は何も特別なものじゃないはずよ。そのパターンが特別なだけであって。私達も電波は日常的に使っていて生活に密接に関わってる」
「何が言いたい?」
ハヤトが話の核心を急かす。
「ティグリス、鉢の出す電波は3GHZ~300MHZの極超短波なんだよね?」
「そうだ」
「極超短波――UHFはテレビ、携帯電話に使われている電波よ。日本では地上デジタル放送もこれ。ゴルギアスは東京で計画を実行すると言っていた。それは東京にあれができたから
よ!」
ユキが外を指差した。ユキが指差したのはぽっかりと浮かぶ大きな月――ではなく、その下で、その月を刺すようにそびえ立つ、完成したばかりの東京スカイツリーだった。
「東京スカイツリーは地上デジタル放送の移行に伴って建設された電波塔で、UHFアンテナを所有している。そして、東京スカイツリーは電波塔としては世界一の高さ。その電波が届く範囲内の世帯数、人口密度も世界一。より多くの人間に効果を与えたいなら、あれを使わない手はないよ!」
――東京スカイツリー。
ハヤトは考えもしなかった。世間ではお祭りのように取り上げられていたが、ハヤトはその実態を殆ど知らなかった。
「もうスカイツリーは稼働しているのか?」
ハヤトが訊く。
「開業はまだだけど、スカイツリーからの電波の送信は既に行われているって昨日読んだ雑誌に書いてあった」
ハヤトはユキの知識の豊富さ、考えの鋭さに感嘆して言葉を失った。ティグリスも同じように黙っていたが、今度はティグリスの顔からも、自分と同じ気持であろうことが何故か読み取れた。
「……何よ?」
黙ったままユキを見つめる二人の視線に疑問を感じ、ユキが言葉を促した。
「いや、ただ驚いているんだ。ユキ、凄いよ」
ハヤトは素直に今の気持ちを表現した。
「ああ、俺も驚いている」とティグリス。
二人が褒めると、ユキは今までの自信に満ちた表情を崩し、目が泳ぎ始めた。
「でもこれはあくまで私の推理。ティグリスはどう思う?」
「俺もユキの推理を聞いたらそうとしか考えられなくなった。ゴルギアスの先ほどの言動とも一致する。可能性は非常に高いだろう」
ティグリスはハヤトを見つめた――どうするかと問うような視線。
ハヤトはもう迷わなかった。
「分かった。東京スカイツリーに向かうよ」
* * *
「いいか、リングのBMIをうまく使う上で重要なのは平常心と集中力だ。BMIは所有者の脳波を読み取って動作する。強く念じても雑念が混ざればリングは脳波をうまく読み取れない」
ハヤトはリングの使い方を簡易的にティグリスに教えてもらうことにした。しかし、ハヤトはこの説明を聞いた時点でリングを扱う自信が薄らいだ。
「お前が今使える武器は、前も見たと思うが『スタンボール』だ。他にもいくつか機能はあるが、とりあえず今はこれが使えればいい。このスタンボールの使い方は簡単だ。リングをはめた方の手をかざし、心の中で念じればいい。念じ方は『スタンボール』と心の中で唱えてもいいし、イメージを思い浮かべてもいい。俺のおすすめはイメージを思い浮かべることだ。スタンボールはイメージに応じてその大きさと形状を自由に変えることが出来る。大きさには限界があるがね。最大でも直径15センチと考えてくれ。念じると、掌の先に高電圧の電流が発生し、圧縮され、放たれると直進して飛んでいく。空気中では飛距離に伴って威力を失っていく。そのエネルギー損失量は、地球の空気密度を考慮すると、毎メートルごとに――」
ハヤトはティグリスの話の長さに辟易した。とりあえずやってみようと思い、話が全て終わらないうちに左手を広げて念じてみた。
「おい、よせ!――」
ティグリスがそれに気づいて止めようとしたが既に遅かった。
ハヤトの左手の先でまばゆい青白い光が発生し、それが球状に集まった後、放たれた。まるで空気を砕くような音と共にスタンボールは直進し、前方に置かれていた52型の立派な液晶テレビを吹き飛ばした。
液晶テレビは壁に当たって粉々に砕け散り、煙を上げた。ソファーに留まっていたジャックは驚いて宙に跳ね上がった。
「ちょっと!うちの買ったばかりのテレビが!」
ユキが眉を吊り上げて猛烈に抗議した。
「ご、ごめん!本当に出るとは思わなくて」
「これ以上うちを壊さないで!」
ハヤトはユキの剣幕にたじろいで慌てて謝った。ユキの家は今では、ドアが破られ、壁が焼け、穴が開き、テレビが粉々に壊され、散々な状況だった。
「――しっかり目標を見定めることを忘れるなよ」
ティグリスがハヤトを注意するように言った。
「さぁ、次は飛び方を教えてやる。反重力装置を取ってこい」
ハヤトは絨毯に付いている4つの反重力装置を取り外した。
「それを固くて安定した乗れるものに取り付けるんだ」
「あの絨毯じゃ駄目なのか?」
「布のように柔らかい物を使った飛行は難しいんだ。板のような物が望ましいな」
ハヤトはあたりを見回した。
板――
目の前のテーブルが目に入ったが、脚が付いているし、一人で乗るには少し大きい気がする。どうにも手頃な物が見つからない。
「あ、そういえば……」
ユキは何か思い出したようにつぶやき、唐突に部屋を出て行った。
「ユキ?」
「ちょっと待ってて!」
廊下の奥の部屋からゴトゴトと音が聞こえてきた後、ユキが白い板のような物を両手に抱えて、ふらふらとなりながら戻ってきた。
「これ、使えないかな?」
それはハヤトの身長ほどあるサーフボードだった。
「なんでこんなものが?」
「昔お父さんがやってたの」
あの、インテリでいかにも運動が苦手そうな誠一がサーフィンをやっていたとは以外だった。
昔、ハヤトはユキと誠一と一緒にマラソン大会に出たことがあった。その時、誠一は8キロほど走った所で倒れて、救急車に運ばれていったのだ。
「誠一さんが?想像付かないな」
「友達に誘われて一回だけ行ったことがあるの。けどその時溺れたらしくて救急車に運ばれたの。それ以来海に入れなくなってね」
「――そいつは縁起がいい」
ハヤトはその誠一の不幸なエピソードを聞いて少したじろいだが、それでもこのサーフボードを使うのは名案に思えた。このサーフボードは大きさも丁度良く乗りやすそうだったし、自分がこれに乗って波に乗るように空を飛んでいる姿が目に浮かび、これなら自分でも出来るのではないかと思えた。
そして何より――かっこ良かった。
「ティグリス、これならどうだ?」
「ああ、月で使ってるエアロボードにも似てるし乗りやすいだろう。しかし、これは本来何に使うものなんだ」
「これで波に乗るんだよ。海の」
「なぜ?」
なぜと訊かれるとは思わなかった。
「――楽しいから」
「地球人の遊びはよく分からないな……まぁいい。その裏側に反重力装置を取り付けるんだ」
ハヤトはティグリスの指示通りの位置に反重力装置を取り付け、それから外に出て反重力装置の使い方を教えられた。
反重力装置の操作も脳波で行うようで、頭で思い描いたように動くらしい。
それはある意味簡単ではあり、実際ハヤトもサーフボードを浮かすことは出来た。しかし、気を抜けばすぐに落ちたり、あらぬ方向に動いたりする。ティグリスが言うには、それは雑念のためだという。ハヤトは、ヤツカが喋りながら悠々と絨毯を乗りこなしていたのを思い出して、改めてヤツカの凄さを思い知った。
ハヤトは本当はもう少し練習してスカイツイリーに向かいたかったのだが、そんな時間はなかった。いつゴルギアスが計画を実行してもおかしくないのだ。
「ハヤト、もう時間がない。今すぐ向かおう。今日、月が一番高く登るのは0時過ぎごろだ。ゴルギアスはその時に計画を実行するだろう」
ハヤトは頷いた。時刻は23時30分だった。
「ハヤト、無茶はしないでね」
ユキは心配そうに、目をうるませながら言った。その見慣れぬユキの表情に、ハヤトはドキッとする。
「大丈夫だよ。俺はリングを届けるだけだし、ヤツカがなんとかしてくれる。絶対にうまくいくよ」
ハヤトはユキを安心させるために、嘘をついた。もうヤツカ一人で戦わせるつもりはなかったし、場合によっては自分がゴルギアスと対峙する覚悟もできていた。
ユキはハヤトに歩み寄った。そして唐突に、ハヤトを抱きしめた。
突然のことに驚き、ハヤトは身を固めた。ユキの髪の毛から、ふわっとシャンプーの香りが漂う。行き場を失った手が、宙をさまよっていた。
「お、おい!」
ユキは何も言わなかった。ただ、更に強く、ぎゅっとハヤトを抱きしめた。その無言の行為は――なぜかハヤトを落ち着かせ、ユキを愛おしく思わせた。
ハヤトも何も言わず、ユキの背中に手を回し、優しく抱きしめ返してあげた。
ユキとの長い付き合いの中で、こうやって抱きしめ合ったことはあっただろうか。ハヤトは自分の気持に、ほのかな懐かしさを感じ取ったので、もしかしたら幼い頃にはあったのかもしれない。しかし、例えあったとしても、こんな気持で抱き合ったのは今日が初めてだろう。
その気持ちとは、安心するような、それでいて体の芯をしめつけられるような、ハヤトが今までの人生の中で経験したことのない新しい感覚だった。
二人は何も言わず抱きしめ合っていたが「ゴホン」というティグリスの咳払いに我に返った。ハヤトは、すっかりティグリスの存在を忘れていた。彼に見られていたと思うと、恥ずかしさで顔が熱くなってきた。
「さあ、行ってきて、ハヤト。ヤツカを助けてね」
ユキは、ハヤトとは対照的に落ち着きを払っていた。それどころか、抱き合ったことなどなかったかのように、いつもの距離感と声色でハヤトに言った。
「あ、ああ」
ハヤトはまだ少し動揺していたが、そのユキの対応で自分の使命を思い出すことができた。
ハヤトはサーフボードに足を乗せ、両手を着く格好で乗った。練習通り浮かぶようにイメージすると、サーフボードはハヤトを乗せて、ふわりと浮かび上がった。ハヤトは安定していることを確かめて、ゆっくりと二本足で立ち上がる。
ユキに目を向けると、ユキはまた心配そうな目をして見つめていた。
「大丈夫、必ず戻ってくる」
ユキは唇を固く結んで、ゆっくりと頷いた。
「じゃあな、ジャック。ちょっと行ってくるよ」
ユキの横で地面にちょこんと立ってハヤトを見ていたジャックにも声をかけた。
ハヤトを乗せたサーフボードは空に向かって飛び立ち、満月の下にそびえ立つ東京スカイツリーを目指した。
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