6 誤算

 三人を乗せた絨毯は、空高く舞い上がり、ハヤトの家を目指した。春の夜の豊かな香りが鼻をくすぐる。ハヤトは上空の冷たい風に思わず身をすくめた。

 ハヤトは先程聞いた母親の話を考えていた。

 ハヤトは自分の母親が既に死んでいるという事実を聞いて、もちろんショックを受けていた。ただ、既に死んでいるという事実は、それほど悲しみをもたらさなかった。ハヤトは自分でもこれには驚いていた。

 それは、ハヤトが母親というものに少しも触れず生きてきたからかもしれない。ハヤトが世話になったユキの家も父子家庭であったので、母親がいない環境とはごく自然なものであった。ハヤトにとって母親とはいなくても当然な存在であるのだ。

 もし生きてるならば、もちろん会いたいとは思う。しかし、死んでいるなら、それは仕方ないと割り切れることは出来た。ハヤトは、母の本当の姿、そして自分は母に捨てられた訳じゃないという事実を知れただけでも満足だった。

 だしぬけにハヤトの腰にぎゅっと圧力がかかった。

「お、おい!なんだよ!」

 ハヤトの腰にはユキが腕を回して固くしがみついていた。

「だ、だって、落ちたら危ないじゃない」

 見るとユキは怯えた顔をして、下を見ないように目をつむっている。空を飛ぶ前は、あれほど期待に満ちた顔をしていたのに。

 ユキは以外にも高いところが苦手らしい。いや、年頃の女の子なら怖がるのも当たり前かもしれない。

 ハヤトは、高い所は平気だったが、腰にしがみつくユキの体が柔らかく、相手は幼馴染と言えども、内心ドキドキしていた。

「大丈夫だよ。じっとしていれば落ちないさ」

 ヤツカが後ろを振り返って言うと、ティグリスが、ぼぉっと姿を現した。

「そうさ。ヤツカはこう見えても広域捜査局内では優秀な飛行成績の持ち主だ。最初は落ちて怪我ばかりしていたんだがなぁ」

 ティグリスの声には、ヤツカを少しからかうような色が含まれていた。その言葉は、ユキを安心させることができなかったらしく、ハヤトの腰にはさらに強くユキの腕が食い込んだ。

 ハヤトは目の前にいる、自分と同じ顔をしたヤツカという人物に、親しみを抱くようになっていた。ようやく、彼女が自分の双子であり、家族であるという実感を掴むことができはじめたのである。

 しかし、彼女が女性であり、自分の姉であるということには、どうにも慣れなかった。自分と同じ顔をした人物が、違う性別として存在しているのであるから、それも当たり前のことである。

 しかも彼女は、彼が知る男達の中でも、格段に男らしかった。言動、行動、仕草、どれをとっても逞しさに満ちている。ハヤトが憧れを抱くほどである。

 ヤツカは、その姿こそ自分そっくりであるが、内面は彼女のほうが遥かに優れている。ハヤトの知る同年代の人間の中で、いや、全ての世代の人間と比べても、ヤツカほど優秀な人間はいなかった。ハヤトはヤツカの事をもっと知りたいと思い始めていた。

「ヤツカ、どうやってこの絨毯の操作を?」

「このリングだよ。BRAIN-MACHINE INTERFACE――略してBMIと言って、このリングが俺の脳波を読み取って、反重力装置に動きを伝えているんだ」

 ヤツカは左手首にはめられた銀色のリングを見せた。ハヤトは、ヤツカが様々な場面でこのリングを使っていたことを思い出した。

「そのリングってのは一体なんなの?」

「汎用携帯端末だ。このリングに様々な機能が詰め込まれている。動力は月光だが、バッテリーも備えられている。あまり長持ちはしないけどね。月人はみんな産まれた時に科学技術府からこのリングを支給されるんだ。DNA照合によって自分しか使えない自分専用のリングをね」

「それじゃ、月人はみんな、あの光る弾を打ち出すことができるの?」

 ヤツカは少し笑った。

「いや、俺のは広域捜査局が発注した特別なリングだ。スタンボールは広域捜査官にのみ使用が許されている制圧用プログラムなんだ」

 ハヤトは、彼女が広域捜査官という、いかにも凄そうな名の職業であることを改めて思い出した。

「その広域捜査官ってのは?」

「広域捜査局の捜査官だ。広域捜査局はセレネ共和国の法執行機関で月全土の捜査活動を行なっている。凶悪犯罪、テロ・スパイなど国家の安全保障に係る公安事件、政治汚職、大規模事件を捜査して月の治安を維持するのが任務だ――そうだな、地球で言うとアメリカの連邦捜査局、FBIに近い」

 ハヤトは驚いた。

「ヤツカは俺と同い年だよな?その歳でその捜査官に?」

「とは言っても俺が広域捜査官になってからはまだ2年しか経ってないし、地球課に配属されて、実際に地球に来たのは今回が初めてだよ」

 ヤツカはハヤトの驚きを抑えるためにそう言ったのかもしれなかったが、ハヤトは余計に驚いた。

「13歳で捜査官になったっていうことか?――月では普通のことなのか?」

「まぁ月では地球よりも教育技術が多少進んでいるからね。何も珍しいことじゃないよ」

「月ってのは凄いんだな」

 ハヤトは感嘆の息を漏らした。月では自分と同じ世代の少年少女が社会的に活躍しているのが普通らしい。

 ハヤトは、ふと、ヤツカではなく、もし自分が月に行っていても、そうなったのだろうかと考えた。

 こんな自分でも、今のヤツカのように逞しく、頼り甲斐のある人になれたんだろうか。

 ――いや、なれたわけがない。

 どう考えても、そんな姿想像がつかない。きっとヤツカには、双子とはいえ、自分とは違って才能があったんだと思った。

「いや、俺は地球と変わらないと思っているよ。確かに月人は地球人よりも寿命は長いし体は丈夫だけどね。だけど、今の俺だってこのリングを外してしまえば、ほとんど何もできない。大部分の道具はこのリングを介して操作するからね。それに月では今も、原理が解明されてない技術に頼っているんだ。月人は地球人を野蛮で劣っている種族と見ているが、俺から言わせてもらえば本質は地球人と同じさ――月でも犯罪は起こる。科学技術という剣と盾を外した時にこそ、その種族の真の強さが発揮されるんだと思うよ」

 ハヤトはヤツカの話を聞いていて、先ほどの話を思い出した。

 月では月人と地球人の混血は迫害に遭う――

 やはりヤツカも迫害されたのだろうか。しかし、彼女はこうして捜査官として逞しく生きている。ハヤトはそのことを聞きたかったが、それがヤツカに嫌なことを思いださせるかもしれないと考え、躊躇していた。

「二人は今何をしているんだ?」

 今度は逆にヤツカが尋ねてきた。

「高校生で二人で同じ学校に通ってるよ、なぁユキ」

「う、うん……」

 ハヤトがユキに話を振ると、ユキは聞いているのか聞いていなのか分からないような声で返事した。

「へぇ、地球の学校か……もしかしたら俺も二人と同じその学校に通ってたかもしれないんだよなぁ」

 ヤツカはしみじみと呟いた。その声色には、ヤツカらしからぬ、悲哀の色が混じっているように感じられた。そんなヤツカの言葉を聞いたハヤトにも、それは伝染したようである。

「……なあ、ヤツカは地球で暮らすことはできないのか?」

 ヤツカは前方を向いたまま少し沈黙した。

「……さっきも言ったとおり、月は地球での月人の暮らしを許可してない。残念ながらそれはできないんだ」

「なんでなんだ?それは本人の自由だろ?」

「……月人は地球人を恐れている。地球人の繁殖力と進化のスピードに脅威を覚えているんだ。そして、同時に月人の血の純粋さも重視している。彼らにとって最も危惧しているのは、月人と地球人の混血が進むことなんだろう。変化に恐れを抱くのはどの生命体も持つ固有の感情だ」

 二人の間に悲しげな沈黙が流れる。人種問題――ハヤトの頭にそんな言葉が浮かんだ。まさか、地球内に留まらず、宇宙規模でそんな問題を抱えているとは思わなかった。そしてそんな問題とは無縁と思っていた自分達が、その被害者になっていたなんて。

「……でもいいんだ。俺も今では月での生活を結構気に入ってる。だけど一度くらいは地球の学校にも行ってみたいね」

 ヤツカは先程とは一転して、声色を明るくしてそう言った。ハヤトにはそれが、ヤツカが無理をしているように感じられた。

「なら行ってみるかい?」

「え?」

 ハヤトは雰囲気を明るくしようと冗談を言った。

「ヤツカが俺と入れ替わって学校に行くんだ。俺達は双子だ。きっと誰も気が付かないよ」

「――そいつは面白そうだな」

 ヤツカはハヤトの冗談に笑ってくれ、ハヤトは嬉しくなった。と同時に、ハヤトは昨日のマジックの失敗を思い出し、憂鬱な気持ちが呼び起こされた。

 きっとヤツカだったら学校中の生徒から尊敬を集め、人気者になっていたに違いない。大勢の前で髪の毛を焦がすこともなかっただろう。ハヤトはちょっとだけ、本当にヤツカと入れ替わって欲しいと感じた。

「それにしてもこの地球は本当に素晴らしいよ。俺が地球に来て驚いたのは、この自然のことだよ。この星の自然は月の技術よりも遥かに優れて神秘に満ちている」

 にわかにヤツカが話を始めた。

「中でも驚いたのは、この地球の海だよ。ホログラムでは何度も見たものだったが、実物は全く違うね。浜辺に立ったときは感動で足が震えたよ。すべてを飲み込んでしまいそうなその深い色と、まるで生きているかのような波の動きにね。それに、あの潮風ってのは不思議な臭いだ――こう言ってはなんだが、パイドロスが地球を欲しがるのも分かる気がしたよ」

 ヤツカは、少し興奮気味に、無邪気な笑いを浮かべて話した。その表情は、普段の大人びた雰囲気とは違い、歳相応の15歳の少女らしいものだった。

「ふぅん、そういうものなのかな」

「近くにありすぎるとその貴重さが分からなくなるものさ――さあ、着いたぞ」

 会話を切るように、ヤツカが言った。その顔からは既に笑みが消えており、氷のようないつもの表情に戻っている。

 ハヤトが下を見ると、月明かりに照らされた家の屋根がぽつんと見えた。どうやらハヤトの家の上空に着いたらしい。自分の家を真上から見たことがなかったので、最初はあれがそうだとは分からなかった。

「少しずつ降りてみよう」

 絨毯は旋回しながら少しずつ高度を下げていった。ハヤトは頭を動かして下を覗いた。本当はもう少し身を乗り出したかったのだが、ユキが腰を押さえているためにそれはできなかった。

 ハヤトの見たところ、家の周囲は、特に変化がないように感じられた。家の中は電気もついておらず真っ暗だった。

「ヤツカ、誰か見える?」

 ハヤトが訊くとヤツカは首を振った。

「以外だな。てっきり見張られてると思ったんだが」

 絨毯はさらに高度を下げ、屋根の上空30メートルほどに滞空した。やはり、人影は見られない。

「大丈夫そうだな。しかし正面から入るのはやはり怖いな」

「なら、二階のベランダから入ろう。俺の部屋の窓なら開いているはずだよ」

 絨毯は二階に張り出したベランダに近づいていった。ベランダは絨毯が降り立つほどのスペースはなかったので、ベランダの壁に横付けする形になった。

「ハヤト、先に降りろ」

「……ユキ、手を離してくれないか?」

「あ、ごめん……」

 ユキは、やっとハヤトの腰から手を離した。

 ハヤトは絨毯からベランダに降り立った。ユキに手を差し伸べると、彼女はその手を借りて、恐る恐るぴょんとベランダに降りた。続いて、ヤツカも降りる。ヤツカは宙に浮いている絨毯を丸めると、足元に置いた。

 ハヤトが自分の部屋の窓に手をかけた時、「待て待て!」とヤツカが声を潜めてすごい勢いで制止した。

「明かりがつくとまずい。先に電源を止めよう」

 ハヤトは何のことを言っているか全く分からずに戸惑った。

「ヤツカ、スイッチを入れないと明かりは付かないよ」

 ユキが言うと、ヤツカは額に手を当てた。

「ああ、済まない――そうか、スイッチか」

 ハヤトは、ヤツカが言ったことが分かった気がした。おそらく月では入室と同時に明かりが自動でつくのが一般的なのだろう。アナログな方が時には便利なのかもしれない、ハヤトはそう思った。

 ハヤトが窓に手をかけ、ゆっくりと動かすと、案の定鍵は開いていた。二人を見て、目で合図する。

「俺が様子を見るよ」

 ヤツカがそう言って、ハヤトと体を入れ替え、音を極力立てないように窓をゆっくりと引いた。ヤツカは忍び足で家の中に入る。

 ハヤトは後ろから部屋の様子を覗いた。月明かりがあるとはいえ、部屋の奥までは暗闇に包まれてよく見えなかった。しかし、一見すると何も変化はないように感じられた。

 ヤツカは手を上げ、二人に待っているように合図し、奥に進んでいった。部屋のドアを開け、廊下を覗く。異常はないらしく、手で入るように合図した。

「大丈夫みたいだが、念のため大きな音は立てないように。明かりもつけない」

 ハヤトとユキは頷いた。

「で、どこにある?」

「押入れの天井裏って言ってたな」

 ハヤトは机の下に置いてある懐中電灯を手に取り、ドアの横にある押入れの扉を開けた。押入れは二段になっており、下には衣装ケースが、上には本や学用品などの小物を詰めたダンボールが雑然と積み上げられている。ハヤトはそのダンボールをずらしてスペースを作り、上に登った。

「懐中電灯をつけていい?」

 念のため、ハヤトはヤツカに訊いた。ヤツカはなぜかユキの方を見た。

「小型のライトのこと。このくらいなら大丈夫だと思うよ」

 ヤツカはなるほどと頷いた。どうやら懐中電灯というものが分からなかったらしい。ハヤトはそのことよりも、ヤツカがユキをすっかり頼っていることが不思議で、少し面白かった。

 懐中電灯をつけて上を照らすと、天井裏に通じる天板が見えた。ハヤトはこの天板の存在を知ってはいたが、開けたことは一度もなかった。

 ハヤトは立ち上がって天板を押し上げ、そのまま横にずらして置く。頭を天井裏に出すと、冷たく乾いた空気が鼻に広がった。懐中電灯で辺りを照らしてみる。天井裏の高さは50センチほど。天井裏と聞くと、ほこりっぽく汚いイメージがあったが、以外にも清潔ですっきりとしていた。

「何かあったか?」

 下の方からヤツカが尋ねた。

 ハヤトが、ぐるりと回ってあたりを照らしてみると、焦茶色の木の箱が置かれているのが目に入った。それほど大きくはない。

「箱がある」

 ハヤトは手を伸ばして箱を引きずりよせた。重さもあまり感じられない。箱の大きさは縦20センチ、横15センチ、高さ15センチほどの直方体で、目が細かく丈夫な木が使われているようだった。

 懐中電灯をおろし、両手で箱を持ち上げ、下にいるヤツカに手渡した。ハヤトは天板を戻して押入れから降りる。

 ヤツカは箱を床に降ろし、蓋を外した。ハヤトとユキは後ろから興味津々に覗きこんだ。

 箱の中には、その箱の大きさとは不釣り合いな、銀色の帯のような物がちょこんと入っていた。ヤツカはそれを手にとった。

「その帯みたいなのは?」

 ハヤトは不思議そうに尋ねた。

「これは――母さんのリングだ」

「母さんの?」

 ハヤトは驚いた。そうだ、ヤツカが腕にはめているリングと同じような素材だ。

「ハヤト、これは今はお前が持っていてくれ」

「俺が?なぜ?」

「いいから」

 ヤツカは半ば強引にハヤトにリングを渡した。ハヤトはそれを受け取って、まじまじと見つめた。このリングはハヤトが知る中で唯一の母の形見ということになる。自分がまだ見たことも会ったこともない母がこのリングをつけていたと考えると奇妙な感覚に陥った。それにしても自分が長年過ごしていた部屋の天井裏にこんな物があるとは思いもよらなかった。

 一見すると、部屋の暗さのせいもあり、箱の中にはもう何も入っていないように思えた。しかし、ヤツカは箱から何かを取り出した。それは、クレジットカードほどの大きさの透明なガラス板のようなものだった。

「それが通信機?」

 ユキがヤツカの持っているガラス板を指差して尋ねた。ハヤトは母のリングを大事そうにポケットにしまいこんだ。

「ヴァロノス13世代型の星間通信機だ」

 ヤツカはそう言って手で表面を撫でた。

「使えそう?」ユキが尋ねる。

「分からない。やはり故障しているみたいだ」

 ヤツカはマントの下を探って、十円玉サイズのコインを取り出した。コインは、通信機と同じような透明な素材でできている。それを床に縦横三枚並べ、その中央には、他の透明なコインとは違って、銀色の金属のような素材でできているコインが置かれた。

 ハヤトとユキは後ろからその様子を見て、一体何が起こるのだろうかと顔を見合わせて首を傾げた。

 ヤツカはそのコインの上に、通信機を置いた。すると、下に置かれている透明のコインがぼぉっと緑色の光を放ち、その光は上に置かれているガラス板の通信機を通過し、空中に、見上げるほど大きな立体的な映像を映しだした。映像は緑色のホログラムで、たくさんのパイプのようなものが入り組んでいる迷路のようなものだった。

「すごい!」

 ハヤトとユキは、目の前に広がった美しい光景に思わず声を上げた。

「ティグリス、どうだ?」

「――回路がいくつか切られているな。しかし個々のパーツは無事らしい」

「どういうことだ?意図的に切られているってことか?」

「どうもそうらしい。自然にこうはならないだろう」

 ヤツカは訝しげな表情を浮かべた。

「……そうか。とにかく好都合だ」

「直せるの?」

 ハヤトが尋ねる。

「あぁ、すぐに直せそうだ」

 ヤツカは振り向いて自信ありげに頷いた。

 ハヤトとユキは顔を見合わせ、安心したように笑みを浮かべた。

 ヤツカは両手を上げると、ホログラムを触りだした。ヤツカの手の動きに合わせて空中のホログラムがその映像を変えていく。時にはその映像が大きくなったり、小さくなって全体が写ったりする。まるで立体的な図面を感覚的に操作しているようだ。その流れるような手さばきは、一流のピアニストを彷彿とさせる。コインの上に置かれた通信機は、時に青い光を放っていた。

 ハヤトは、ヤツカの作業に目を奪われ、釘付けになっていた。ヤツカも自分の作業に没頭しているかと思いきや、突然口を開いた。

「ハヤト、なぜマジックを?」

 唐突な質問に目が丸くなった。

「え?」

 ヤツカは顎をくいっと動かしてで本棚の方を指した。ハヤトの本棚には、マジックの本がたくさん並べられている。ヤツカはその本棚を見て、ハヤトがマジックをしていると知ったのだろう。

「ああ、なんでだったかな。よく覚えていないよ」

 ハヤトはこう答えたが、それは嘘だった。なんだかそのことを話すのはとても恥ずかしかったのだ。

「確か中学一年生の時に一緒にマジックショーを見に行ってからだったよね」

 ハヤトの代わりにユキが口元に笑みを浮かべて、いたずらっぽく答えた。どうやらユキにはハヤトの考えていることが筒抜けらしい。

「へぇ。それで?」

 ヤツカは自分の作業を続けながら話の続きを催促した。

 考えてみれば、ヤツカも生き別れになった双子にやっと会えたのだ。ハヤトがそうであるように、ヤツカもハヤトのことをもっと知りたいと思っているはずだ。ハヤトは包み隠さずに話してあげることにした。

「……俺は昔から内気で何をやってもダメな奴だった。そんな自分が嫌いで嫌いでたまらなかった。

 ある時、誠一さんとユキの三人で世界的に有名なマジシャンのショーを見に行ったんだ。俺はそのショーを見て感動した。そしてこれしかないと思ったんだ。俺はショーの後、裏に押しかけてスタッフにマジシャンに会いたいと申し出た。もちろんスタッフは断ったけど、それを偶然見た彼は快く俺と会ってくれたよ。俺は彼にマジックを教えて欲しい、弟子にして欲しいと頼んだ――今考えてみれば無茶苦茶な行動だろ?」

 ハヤトは昔の自分を思い出して笑いが漏れた。

「けど、その時は本当に周りが見えてなくて必死だった。そのくらい感動したんだ。

 彼は真剣に話を聞いてくれたが、今はもっと色んな物を見て勉強しなさいと言って優しく断った。だが代わりにあるものをくれた――ジャックだ。彼はマジックにカラスを使う変わったマジシャンでね。俺に産まれたばかりのジャックを譲ってくれたんだ。それ以来、アイツは俺の相棒なんだ」

 ヤツカは黙々と作業を続けながらハヤトの話に耳を傾けていた。ハヤトは、なんだか心の内から言葉が溢れてくるような気持ちがした。

「――実を言うと、別にマジックでなくたってよかったのかもしれない。ただ――何か取り柄が欲しかったんだ。自分でも誇りに思える何か、自分に価値を与えてくれる何か、こんな俺でも輝ける何かがね。……でも、結局駄目みたいだ。いくら練習してみてもうまくいかない。俺にはマジックの才能がないらしい」

 ハヤトはマジックを練習して習得しても、結局内面は変わらなかった。いつまでたっても失敗することを恐れている。それでいて、人からは認められたいとも思っている。

 ハヤトがマジックの舞台で、自分の技術を披露せずにジャックに頼っているのは、そういう心の動きからだった。

 ハヤトは普段なら絶対に口にしないような自分の気持を、すらすらと口にした。こんなことを人に喋ったのは産まれて初めてだ。ハヤトとユキは沈黙したままだ。ハヤトは急に恥ずかしさがこみ上げてきて、二人の顔を見ることもできなかった。

「ハヤト、俺もお前の気持ちは分かるよ」

 ヤツカは手を止めてこちらを向いた。

「俺もお前と同じことを考えていた時期があった」

 ヤツカはそう言ったが、ハヤトは、にわかには信じられなかった。ヤツカは自分とは正反対の人間に思えたからだ。

「ただし、俺はハヤトのように心奪われた何かがあった訳じゃなかったけどね……だから俺は、とにかく上を見ていたよ。上だけは、どんな人にも、どんな時にも常に存在するものだからね」

 ヤツカは遠い記憶に思いを馳せるような目をして言った後、ハヤトを力強い目で見つめた。

「そして、ハヤト。お前は自分を信じなくちゃならない。お前が自分を信じなくてどうする?自分で自分の可能性を狭めるな。誰だって、無限の可能性を持っているはずだ。自分の可能性を信じてやるんだ」

 ヤツカの声は力強く、相手の心を包容し、それでいて奮起させるような色であった。ハヤトはヤツカの言葉を聞いて、彼女の人間性の素晴らしさを心から痛感し、感動のあまり震えた。ハヤトが生きてきた中で、これほど勇気づけられる言葉をかけてもらったことはなかったように思う。ヤツカの言葉は、決して上辺だけではない、血と肉が通った生きた言葉であると感じた。自分と同じ年齢の少女がそんな言葉を発することが出来るだろうか。ハヤトは、目の前にいる人物が同い年であり、双子の姉であるとはとても思えなかった。

 ハヤトが言葉も返せないでいると、ヤツカはホログラムの方に向き直った。

「……とにかく、今は時間がないのが残念だ。お前とはもっと語り合いたいんだが……」

 ヤツカは再び手を動かしながら、ため息混じりに呟いた。ハヤトもそれは同じ気持だった。

「よし、終わったぞ」

 そう言ってヤツカが右手を大きく振ると、空中のホログラムは消え去り、コインの明かりも消えた。ヤツカが通信機を手に取り表面を触ると、ガラス板全体が光るように、ぽぉっと明かりが灯った。「よし」と、ヤツカは満足そうに頷いた。

「これで通信はできるようになった」

 ヤツカは床においてあるコインを手にとってマントの内側にしまった。

 ヤツカが通信機の表面をタッチすると、いくつかの図形と月文字が現れた。その中の右上の図形をタッチし、続けてヤツカは表面に現れた文字列を幾つかタッチした。さながら、現在地球でも使われているスマートフォンを操作しているかのようである。しかし画面は、無駄が一切無くシンプルで、より洗練されている。

 画面に円が現れ、それが回転を始める。

 しばらくすると、画面にパッと男の姿が映った。

「――ヤツカか!?なんでこんな古い型の通信機で連絡を?」

「アガトン、良かったよ、繋がって」

 アガトンと呼ばれるその男は、黒い短髪、彫りが深く精悍な顔つきをした壮年の男だった。

「で、どうした?明日帰ってくると聞いていたが……」

 ヤツカもさすがに驚きを隠せなかったようで、目を丸くした。

「なんだって?――アガトン、詳しく聞かせてくれ」

「いや、お前からの連絡でそう言っていたと聞いたぞ?ゴルギアスは既に捕らえたから明日に月に帰ると……」

 アガトンも困惑した表情を浮かべている。

「アガトン、事情を話すよ」

 ヤツカは今までのことを手短に話した。アガトンは終始真剣な顔で、時折頷きながらヤツカの話を聞いていた。

「そういう訳で、その連絡は偽物だ。俺の通信コードをハッキングして、パイドロス側の奴が偽造してるんだろう」

「ああ、分かったよ――それにしても五宝か。ついに見つけたのか……」

 アガトンは何やら深刻そうな表情を浮かべた。

「とにかく俺は今そっちに帰る手段がない。一人でもいい。上層部とかけあって、なんとか応援をよこしてくれないか?」

「上層部とかけあう必要はない。あいつらに相談したら許可が降りるのに1週間はかかる。俺が行くよ」

 アガトンは軽く返事をした。

「大丈夫?他の事件は?」

「何、部下に任せるよ。みんな優秀だから大丈夫だろう」

「――ごめん、ありがとう」

 ヤツカはその時だけ、少し女の子らしい、弱々しい口調で言った。それを聞いて、アガトンは顔をしかめて首を振った。

「よせ、礼なんていらない」

 アガトンは、ヤツカの後ろから画面をのぞき込んでいるハヤトの存在に気付いたようである。

「もしかして、君がハヤトか?」

 ハヤトは突然話しかけられて驚いたが、こくりと頷いた。

「よかったな、ヤツカ。やっと会うことができたんだな」

 アガトンは感慨深気な表情を浮かべ、ヤツカに語りかけた。ヤツカは少し笑みを浮かべて頷いた。

「で、場所はどこだ?」と、アガトン。

「東京都の八王子だ。着いたら連絡してくれ。詳しい場所はその時にまた説明する」

「了解。気をつけろよ」

 画面からアガトンは消え、通信は途絶えた。

「良い人だね」

 ユキがにっこりと笑ってヤツカに言う。

「ああ――彼は俺を引き取って育ててくれた、もう一人の父さんなんだ」

 ――なるほど、彼が。ハヤトとユキは頷いた。

「ハヤト、もしも時間があったなら彼のことをゆっくり紹介したかったよ。きっとハヤトもアガトンの事を好きになる」

 ヤツカとアガトンはお互いに信頼しあっているらしい。

 アガトンは見るからに真面目で逞しく、優しそうだった。ヤツカが彼の元で育てられたことをハヤトは喜んだ。彼がいたからこそ今のヤツカがいるのだろう。

 しかし、ハヤトは皮肉だと思った。自分は京介に守られて地球に残ったが、ほとんど放置されて父親というものに失望している。ヤツカは月に連れ去られ、京介と離れ離れになったが、素晴らしい父親に出会うことができ、このように優秀な捜査官になっている……。

「さあ、ユキの家に戻ろう」

 ヤツカは二人に言って、ベランダに向かった。


   * * *


 三人は絨毯に乗って空を飛び、ユキの家へと帰っていた。月は段々と高さを増し、東の空から南の空へとその姿を移動しつつある。

 ヤツカは黙って、京介のことを考えていた。

 ヤツカは、実の父親である京介を写真では何度か見ていたものの、実際に会ったのは今日が初めてだった。もちろん自分が赤ん坊の頃には会っているのだろうが、全く覚えていない。ヤツカは京介の事を努めて父さんと呼ぶようにしていたが、実はそう呼ぶのにはまだ慣れなかった。

 ヤツカにとって父といえば、自分を引き取って育ててくれた広域捜査官のアガトンだった。アガトンも昔は今のヤツカと同じ地球課の機動捜査官だったが、今は違う課で指揮を執っている。彼は広域捜査局内でも多くの尊敬を集める優れた人物だ。

 彼は厳しく、優しく、独特な考えを持つ人だった。ヤツカは月人と地球人の混血であったため、学校では酷いいじめに遭った。しかし、アガトンは決して助けようとはしなかった。

 では何をしてくれたか。

 彼は、とにかく教えてくれた。身の守り方、戦い方などの実践的な戦術、そしていかにして身を振る舞うべきかなどの日常的な動作や考え方まで。

 アガトンこそ生き方を教えてくれた父であり、先生であり、尊敬する師匠だった。彼がいなければ自分は月の生活で土に埋もれて窒息していたであろう。

 かと言って、ヤツカは京介を蔑ろにしていたわけではない。彼女は自分の実の父親と会えることを楽しみにしていた。そしてそれ以上に楽しみにしていたのが、ハヤトとの再会である。

 アガトンは、ヤツカの父親が京介であり、双子の弟であるハヤトがいることを知る、数少ない人物の一人だ。彼女は幼い頃から、自分には双子の弟が地球にいるということはアガトンから教えられていた。もちろん誰にも口外しないという約束でだ。

 月で友達ができずに孤立していたヤツカにとって、そのハヤトの存在はどれほど心の拠り所になったことか――自分は決して一人ではないと――そして、弟に恥じることのない立派な人物にならなければいけないと心に言い聞かせていた。

 弟は、自分の存在を知らずに空に浮かぶ月を眺めているだろう。しかし、自分は月の裏側から、見えない地球に住む弟の存在を思っているのだ。

 ヤツカはアガトンと同じ広域捜査官になることに憧れを抱くようになる。そして、自分の母親がパイドロスに裏切られて殺されたと知ったあの時から、いつかパイドロスを逮捕してみせると心に固く誓った。

 今回、ゴルギアスを追ってハヤトと京介に会えたことは、全く予期していなかった出来事だったが、本当に、心の底から嬉しかった。自分は彼らを守らなければならない。ヤツカは鋼のように固い使命感を心に背負っていた。

 ヤツカはハヤトの方をちらりと見た。ハヤトは空からの眺めを見ながら、複雑そうな顔をしてなにか考えていた。ヤツカにはハヤトが何を考えているか分かった。

「ハヤト、父さんの事を考えているのか?」

 図星だったようで、ハヤトはちょっと驚いた顔をしたが、すぐに遠くの景色に目を移し、返事はしなかった。

「父さんのこと怒ってるか?」

「……」

 ハヤトは沈黙したままだ。

「父さんが今までハヤトのことをほったらかしにしていたのは……極力自分から遠ざけることがハヤトの身の安全に繋がるからじゃないか?――父さんは月のこと、月人のこと、そして五宝のことについて知りすぎている。今回みたいに狙われる可能性も高い。五宝を追っている限り、ハヤトには近づけなかったんだろう」

「……私もそう思うよ」

 相変わらずハヤトの腰に抱きついているユキが口を開いた。しっかりと話を聞いていたらしい。

「京介さんがハヤトに送っていたあのハガキ、本当にほったらかして忘れてるんなら送ってこないよ。自分は無事に暮らしていて、ハヤトのことを忘れてないっていうメッセージなんじゃないかな。詳しく連絡先を書かない――いや、書けないのは、やっぱり深く関係を持つとハヤトが巻き込まれるかもしれないから――京介さんも辛かったんじゃないかと思う」

 ハヤトは眉をひそめて沈黙したまま、何も言わなかった。またヤツカが口を開く。

「……そして父さんが五宝を今でも探し続ける理由――それはさっきのハヤトの話と同じようなことじゃないかと思う」

「えっ?」

 ハヤトはやっと声を出して訊き返した。

「ハヤトがマジックにどうしようもなく心奪われたように、父さんは五宝に心奪われたんだ。自分でもなぜここまで熱意を注げるのか分からない、一種の狂気的な感情に捕らわれているんだと思う」

 ハヤトはここで言葉を止めたが、それ以外にも、父が五宝を探し続ける理由は、母に関係しているのではないかと考えていた。何しろ、父が母との時間を共に過ごしたのは五宝を探し求めている最中のみであったのだ。

 もちろんこれはヤツカの推測にすぎないので父の真意は分からない。ただ、ヤツカには、無関係なこととは思えなかった。

 ハヤトは二人の言葉を聞いてじっと考え込んでいる――少しでも父への不信と怒りが和らいでくれるといいのだが。

 ヤツカは二人の関係性について詳しくは知らなかったので、それ以上は踏み込めなかったが、家族同士で対立するのは、やはりしてほしくはなかった。

 その京介が待つユキの家に近づいてきた。

 その時、丁度ユキの家の方角から、家で待っているはずのジャックがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。

「ジャック?」

 ジャックはハヤトが差し出した左腕に留まった。

「お前家にいるんじゃなかったのか?」

 ジャックは何も反応を示さなかった。三人は不思議そうに顔を見合わせ、ヤツカは嫌な予感を感じた。

 ユキの家が見えてきて、ヤツカは異変に気がついた。

「おかしいな」

「何が?」

「見ろ、明かりが点いていない」

 ユキの家の窓からは光が漏れておらず、暗くなっていた。

「本当だ。何かあったのかな?」

 ユキが心配そうに言った。

「分からない。身を隠しているのかもしれない」

 ヤツカは焦った。もしかしたら居所が知られたのかもしれない。ここでゴルギアスや空軍に見つかったら明らかに不利な状況だった。

「居所がバレたってこと?」

「いや、単に警戒して明かりを消しただけかも」

 ヤツカは内心動揺していたが、二人の前ではそれが現れないように、落ち着きを払って振る舞うように努めた。

 ヤツカは家から百メートルほど離れた木の影に絨毯を着地させた。

「俺が様子を見てくる。二人は待っててくれ――そうだ、念のためこれを渡しておく」

 ヤツカはハヤトに通信機を渡した。

「え、ちょっと――」

「大丈夫だ。念のためだよ」

 心配そうな顔をした二人にそう言うと、闇に紛れるようにして家の方へ向かった。

 ユキの家は、しんと静まり返っていた。窓から中を覗こうとしたが、カーテンがかかっているし、中が真っ暗なために何も見えない。

 ヤツカは玄関のドアを静かに開け、中を覗いて嫌な汗が流れた。出てきた時と違い、玄関の靴が乱れ、床には泥が落ちている。誰かが入ってきて乱した跡だろう。ヤツカは左手のリングを触って身構えた。

 息を殺して壁に沿いながら家の中を進んでいく。外は月明かりのためによく見えるが、家の中となると暗くてよく見えない。

 ヤツカがリビングに足を踏み入れた瞬間――

 パッと部屋の明かりが点いた。

 目の前には、ゴルギアスと米空軍のペンローズと黒服の男十人ほどが立っていた。

 ペンローズは顔のあちこちに傷を負っている。そして、ゴルギアスの横には、なんとあの龍が、京介と誠一をその長い胴で巻きつけて、部屋の中で窮屈そうに身構えていた。

 ヤツカはとっさに左手を広げ、ゴルギアスに向けた。

「おっとおっと、その手を下ろしてもらおうか」

 ゴルギアスは、京介と誠一の命は自分の手の内にあるということを示すように、隣にいる龍の体を撫でた。なぜあの龍がまだ生きているのか。テーブルの上にあった龍の頭を入れた瓶を見ると、その瓶は割れて中身が消えていた。

「迂闊だったな、ハヤト。この龍は簡単には死なないんだ」

 確かに迂闊だった。ヤツカは舌打ちをしたが――ゴルギアスは自分のことをまだハヤトだと思っている。この勘違いがこの窮地を切り抜ける突破口となるかもしれない――

 ヤツカは左手を下ろした。黒服の男達はヤツカを取り囲むように移動した。

「さあ、また何かされたらたまらない。まずはそのリングを外してもらおうか」

「こいつの言うことは聞くな!」

 京介が叫んだが、その後、苦悶の表情を浮かべてうめき声を漏らし始めた。ギリギリと龍が二人の体をさらに締め付けたようだった。

 このリングはヤツカにとっては生命線だった。このリングがなければ彼の現在の武装は全てといっていいほど無力化されてしまう。しかしながら、ヤツカは今はゴルギアスの命令に従うほかなかった。左手首に巻きついた銀色のリングを外し、ぽとりと床に落とした。

「素直で結構。さぁ、鉢も渡してもらおうか――お前が持っているのか?」

 ヤツカは迷った。例え持っていないと言っても、服を調べられるだろう。そうしたら、持っている数々の月の道具から、自分が広域捜査官のヤツカであることがばれてしまう。

 ヤツカはしぶしぶ、マントの下から鉢を取り出し、手に持ってじっと見つめた。なんとかこの場を乗り切る方法を考えてみたが、残念ながら思いつかなかった。

「おお、以外だな。お前が持っているなんて――てっきり広域捜査官の奴が持っていると思っていたが。いるんだろう?」

「――なんのことだ?」

 ゴルギアスはヤツカをきつく睨んだ。

「とぼけるな!この混ざりモノが!昼間中国でお前たちと一緒にいた奴だよ!――お前ら混ざりモノも地球人と変わらない。息を吐くように嘘をつく」

 混ざりモノ――こう呼ばれることはもう慣れている。

「――彼は今はいない。本部に連絡を取るために通信機を探しに行ったよ」

 こう答えたのは、決してヤツカがゴルギアスの迫力に気圧されたからではない。これ以上白を切り通すのは得策ではないと踏んだからだ。ゴルギアスはじとっとヤツカを睨んでいる。

「――まぁいい。俺が鉢を手に入れれば向こうから姿を現すだろう。早くその鉢をよこせ」

 ヤツカはゴルギアスの方に鉢を投げた。ゴルギアスはそれを手に取る。京介と誠一は、悔しそうな表情を浮かべて俯いた。

 ゴルギアスは手に持った鉢をくるくると回し、全体を舐めるように見つめた。

「これが地球人が月人に造らせた『仏の御石の鉢』か。全く、皮肉なもんだな。これが自分たちを滅ぼすことになるんだもんな」

「残念ながらそうはいかない」

 ゴルギアスの後頭部に拳銃が突きつけられた。

 ペンローズだった。

 黒服の男の半分も、ゴルギアスを威圧するように取り囲んだ。

「さあ、その鉢を渡してもらおうか」

「おい、ペン……」

「ペンローズだ」

 ゴルギアスが振り向こうとしたが、ペンローズが銃を押し付けてそれを制止した。

「――ペンローズ大佐。話が違うようだが?――俺に鉢を渡す代わりに、俺は月の技術をお前らに幾つか提供する――そういう話だったよな?」

「お前は何でも正直に喋りすぎだ。我々が黙ってお前の計画を見過ごすとでも?我々はこの鉢を手に入れることができればそれでいい」

 ゴルギアスはニヤリと唇を歪め、静かに笑い声を立てた。

「安心したよ。お前らはやっぱり地球人だ。クォグヤヌス事件の頃から全く変わっちゃいない」

「早く鉢を渡せ。そしてその鉢の使い方を教えてもらおう」

 ペンローズはゴルギアスの後頭部に更に強く銃を押し付ける。

「ああ、いいともいいとも。使い方を教えてあげよう。しかし、お前ら地球人ときたら本当に物分かりが悪い――実際にお手本を見せてあげるしかない」

 ゴルギアスは手に持った鉢に指を近づけた。「待て!」とペンローズが制止したが既に遅かった。

 ゴルギアスが指で鉢をはじいた。

 ポーーーーーーー……

 それは、宗教的な何かを思わせる不思議な音色だった。その音は部屋を包み込むように鳴り響いた。

 ヤツカ自身は特に異常を感じなかったが、その音を聞いたペンローズと周りの黒服の男、それに京介と誠一は、全身の力が抜けたようにだらんとし、瞳孔が開いて、我を失ったような表情を浮かべていた。

 ゴルギアスは鉢を高く掲げ、何かを念じるような表情を浮かべた。すると、ペンローズと黒服の男は、何かを思い出したように部屋を去り、家を出て行った。京介と誠一は、龍の体に拘束されたまま、ぐったりとしていた。

「――何をした?」

 状況の読み込めないヤツカは素直にゴルギアスに尋ねた。

「これがこの鉢の力だよ。人の意識と記憶を操作することができる。空軍の奴らには一連の出来事を全て忘れさせ、おうちに帰るように命令したよ。こっちの二人にはしばらく眠ってもらうことにした。それにしても……」

 ゴルギアスは目を細めて訝しげにヤツカを見つめた。

「お前は何者なんだ?」

 ヤツカは何と答えるべきか迷い、唾を飲み込んだ。

「――お前に教えてたまるか」

 ヤツカが選んだのは、今の気持ちを正直に答えることだった。ゴルギアスは呆気にとられた表情を浮かべた後、鼻で笑った。

「素直で結構。嫌いじゃない――まぁ、いい。リングのないお前は無力だ。もう計画に支障はきたさないだろう」

 ヤツカは悔しさで唇を噛んだ。負けじとヤツカはゴルギアスに食ってかかる。

「お前は知らないだろうが、その鉢はこのスーパームーンの下でも効果範囲はせいぜい直径十メートルほどだ。何を企んでいるか知らないが、あっという間に計画は阻止されるぞ」

 ゴルギアスはきょとんとした顔を浮かべたが、すぐにせせら笑った。

「――知らないのはお前の方だ。この鉢が出す電波の伝播範囲は常に一定だ。電力の増加に伴って大きくなるもの――それは効果だ。電力が大きくなればなるほど、その電波は人の奥深くに作用する。表面的でなく、潜在的にな。その人の人格を根本的に変えることまで可能にする」

「!――」

 ヤツカは鉢の持つ圧倒的な力に愕然とした。

「まぁ確かにお前の言う通り、伝播範囲は狭すぎて事を起こすにはちょっと不十分だ。だから、ある物を有難く使わせてもらう。お前たちが東京に戻ってきてくれて助かったよ。おかげで手間が省けたし、無事今夜に間に合いそうだ」

 何のことか分からなかったが、ゴルギアスには何か壮大な計画があるらしい。ヤツカの顔に焦りの色が浮かぶ。

「――しかし、お前は既に無力とは言え、野放しにしとくのは厄介そうだ。それに、まだ広域捜査官が追ってくるだろうし、人質として使えそうだ」

 そう言うとゴルギアスは右手を広げ、ヤツカにスタンボールを放った。スタンボールの命中したヤツカは、後ろに吹き飛び、ドアに強く叩きつけられた後、ぐったりと床に倒れた。ヤツカはそのまま意識を失ってしまった。

 その時、窓の外からかすかに物音が聞こえた。

「誰だ!?」

 ゴルギアスは右手を構えて窓の方に向けた。広域捜査官に違いない――ゴルギアスは右手を構えながらじりじりと窓に寄って行き、閉まっていたカーテンに手をかけ、思いっきり引いた。

 すると、バサバサと音を立ててカラスが空に飛び立つのが見えた。

「チッ……」

 ゴルギアスは舌打ちし、その姿を睨みながら右手を下ろした。

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