4 対峙

○2012年5月5日 月齢13.8


 午後4時、草薙京介は中国四川省四川大学の研究室の一室でパソコンの前に座り、物思いにふけっていた。彼の考えているのは息子のハヤトのことだった。

 もうハヤトは中学を卒業して高校に入学しているだろう。息子の高校の入学姿くらいは見ておきたかったが、それはできなかった。今取りかかっている鉢の解析が手放せなかったからという理由もあるが、例えそれがなくても、京介は行かなかっただろう――それがハヤトのためであるからだ。

 そして、もう一人の娘――ヤツカのことも一日たりとも忘れたことはなかった。京介は、赤ん坊のヤツカが月人に奪われたあの時以来、一度も会っていなかった。

 しかし、二年前、京介の元に月の広域捜査官が現れた。その彼は、あの後、自分がヤツカを引き取り育てたという。彼は、ヤツカが無事に成長して月の広域捜査官になったということを知らせに来てくれたのだった。そして、京介はその時に初めて、あの後、妻の身に何が起こったのか知ったのだった――

 窓から眩しい西日が差し始め、京介の物憂げな気持ちに拍車をかけた。

「先生、解析が終わりました」

 向こうから助手の声が聞こえてきた。京介はセンチメンタルな感情に浸るのを中断して急いで立ち上がり、その助手の元へ向かった。

 パソコンのモニターの周りを三人の研究者が囲んでいる。

「波形を見せてくれ」

 京介が助手に向かって言う。助手がキーボードを叩くと、画面に波形が映しだされた。

「周波数は?」

「3GHZ~300MHZの極超短波です」

 京介は、この鉢が持つ恐るべき力に足が震えた。

 道具というものは常に使うものの手に委ねられている。多くの人命を救うこともあれば殺すことだってある。この道具もそんな技術の一つだった。信頼出来るものの手に委ねなければならない。

 その時、研究室のドアが開き、助手の男が顔を覗かせた。

「京介さん、面会の方が」

「後にしてくれないか」

「いえ、それが今すぐにと……もうお連れしています」

「なんだって?部外者の立ち入りは禁止だとあれほど言っただろう!」

 京介は語気を荒げた。

「すみません。それが、息子さんだと言うもので」

「父さん」

 ドアから一人の少年が顔を覗かせた。その顔を見て、京介は目を丸くした。

「ハヤトか!?何でこんな所に!」

 京介は唐突に現れた自分の息子にひどく驚いた。長く会ってなかったとはいえ、それは自分の息子に間違いなかった。背はかなり伸び、顔つきも以前より逞しくなっているように感じられた。しかし、黒いマントに身を包み妙な格好をしている。

 京介はハヤトの元へ歩み寄った。そして、顔をまじまじと見つめ、直感的に悟った。

「――ヤツカか!?」

 ヤツカはゆっくりと頷いた。そして、後ろの方に顎をしゃくった。

「ハヤトはこっちだよ」

 その時、京介は初めてヤツカの後ろに人がいた事を認識した。

 その人物はヤツカと同じような黒ずくめの衣装を着ているが、こちらの方はより民族的な衣装だ。すっぽりと頭と顔を隠しており、目だけが見えている。まるでムスリムの女性のようだ。

 その人物はヤツカの紹介の後、顔を覆っていたスカーフをちょっと下げた。

「久しぶり……父さん」

 ハヤトは気まずそうに京介を見つめた。何しろ五年ぶりの突然の再会である。京介はハヤトを一瞥した後、ヤツカに目を戻した。

「何があった?」


「あれほど写真は載せるなと言ったのに!」

 京介はヤツカに手渡された『仏の御石の鉢』の写真が載っている新聞を見て憤慨した。助手たちには席を外してもらい、研究室には京介、ヤツカ、ハヤトの三人だけがいた。

「奴らはこれを?」

「うん、パイドロスに情報を送っていた奴が吐いたよ。そしてハヤトの元に米空軍が来た。彼らもこの新聞を見つけたらしい」

「――!米空軍が嗅ぎつけたか。厄介なことになったな……。ここで行なっている鉢の解析は、ごく少数の人間しか知らないとは言え、見つけられるのは時間の問題だろう」

「うん、ハヤトに送られたポストカードのお陰で分かったよ。奴らよりも早く来ることができて良かった」

 京介は、椅子に座って黙って聞いているハヤトに目を向けた。事態をよく飲み込めていないようで、不安げな面持ちをしている。

「お前の目的は?」

 京介がヤツカに目を移して尋ねる。

「ゴルギアスの逮捕――それが鉢?」

 ヤツカはテーブルの上の方を顎で指した。テーブルの上には、様々な機械類や資料が雑然と置かれている。その中に、黒い布をかけられた30センチ四方の箱のようなものが置かれていた。

「ああ、そうだ」

 京介はその箱のような物の方へ歩いて行き、黒い布を取った。ヤツカとハヤトはその中にあったものを見て、目を奪われてしまう。

 黒い布の下には、鍵の付いたガラスケースが置かれていた。そしてその中には、白い綿の上に『仏の御石の鉢』が置かれていた。が、それは新聞の白黒写真で見た泥だらけの鉢とはだいぶ趣が異なっている。

 全体的に濃い蓬色をしており、青銅を彷彿とさせる。しかし、表面は美しい金属光沢があり、光の角度によって七色の光を反射しているのである。光沢はあるが不思議なことに周りの景色を映し出すことはなく、その深い蓬色が周りの光を吸収しているかのようで、覗きこむと吸い込まれそうになる。

 大きさは直径10センチ、高さ5センチの、片手に収まりそうなお椀のような形状である。

 ヤツカとハヤトは思わずガラスケースの近くに歩み寄り、その神秘的な美しさに目を見張った。

「これが『仏の御石の鉢』?」

「ああ」

 ハヤトが鉢を食い入る様に眺めながら声を漏らすと、京介はゆっくりと頷いた。

「鉢について何か分かったことは?」

 ヤツカは鉢を見ながら京介に尋ねた。ハヤトは感動から顔をほころばせているが、ヤツカはいつもどおりの硬い表情で冷静に鉢を眺めていた。

「これは恐らく人の意識を操ることができる」

 ヤツカとハヤトは鉢から目を離し、きょとんとした顔で京介を見た。京介は腕を組んで、同じような表情をして見つめる二人の姉弟をそれぞれ見た。

「説明しよう。この鉢を発見したものの、どういった用途に使うものなのかさっぱり分からなかった。X線を使って内部を調べてみたら、無数の回路のような物があることが分かったので、確かに何かの道具らしいのだが、その仕組は分からなかった。

 ある日、この鉢を調査中、助手の数人が茫然自失状態となる事件があった。唯一、無事だったのは鉢を持っている者のみだった。詳しく話を聞くと、月明かりの下、鉢を指で弾いてみたところ、仏具の鈴(りん)のような高い音が鳴り響き、周りにいた者が気を失ったということだった。気を失った者は病院に運ばれ、約1時間後に意識を取り戻した。身体的異常は認められなかったが、話を聞いてみたところ、前後の記憶が全くなかった。気を失っている最中の彼らの脳波を記録していたのだが、それは一種の催眠状態に近いことが分かった。

 我々はこの音波に特殊な効果があるのではないかと調べ始めた。そして調査の結果、音波以外の成分が認められた」

 京介は、机の上に置かれたパソコンの方に向かい、二人を手招きした。京介がキーボードを叩くと、画面には波形が映しだされた。

「これは?」

「音波の中に、この電波のパターンが混ざっていることが確認された。そしてこの電波こそ、事件の原因じゃないかと睨んでいる。電波は人間の脳にも強い影響を与える存在だ。この特殊な電波のパターンが人を催眠状態に陥れたのかもしれない」

「ゴルギアスはこれを使って何か企んでいるのか」

 ヤツカが苦々しげに呟いた。

「しかしだ。この電波の伝播範囲を調べてみたところ、非常に狭いことが分かった。この間の満月の下で実験してみても、半径10メートルほどが限界だった。これを使って事を起こそうとも、例え今日のようなスーパームーンの時であろうと、それほど大きなことはできないだろう」

 ヤツカは腕を組んで眉をひそめた。3人の間に沈黙が流れる。

「とにかくこれは危険な道具だ。奴らの手に渡ると何が起こるか分からない。これは俺が月に持って帰るよ」

「――そうか、分かった」

 京介はポケットから鍵を取り出し、ガラスケースを開けた。両手で慎重に鉢をすくい取り、しばらくその鉢を見つめた。ヤツカがちらりと京介の顔を見ると、何か考えているようだった。その妙な間にヤツカは少し不安になったが、京介はその後、ゆっくりとヤツカに鉢を手渡した。

「父さん、研究データも」

「え?」

 手にとった鉢を見ながらヤツカは言った。

「さっきの電波パターンの波形も含めた全ての研究データを持ち帰るよ。地球には残しておけない」

 ヤツカは鉢を見ながらそう言ったが、沈黙が続き、返事が帰ってこないので京介を見た。京介の表情は何やら硬い。

「父さん?」

「このデータは地球人にとって有用な可能性がある。使い方さえ間違わなければ大いに役立つはずだ。信頼出来る機関に手渡そうと思っている」

 やっぱりだ――ヤツカはこうなってしまうことをなんとなく予感しており、恐れていた。極力家族とは争いたくない。父は悪意など微塵もなく、本気でそう思っているのだろうが、ヤツカは絶対に賛成できない。

 それに、どちらにしろ自分が絶対に意見を曲げないことも分かっていた。このやり取りのために時間を割きたくはない。

 ヤツカは一度深く呼吸をし、ゆっくりと話した。

「父さん、知っているだろう。この道具を手にした地球人がどうなったかを――地球人には早すぎる技術なんだ」

「今は昔とは違う。有効に正しい手で利用できるはずだ」

 京介は眉を寄せ、口調を強めて言った。ヤツカがハヤトをちらりと見ると、不安そうな面持ちで二人のやり取りを見ていた。

「父さん、例え正しい人の手に渡っても、この地球上にある限りこのデータを巡って争いが起きるだろう。元々造られるべきではなかった道具なんだ。造り出した月に帰って厳重に保管されるべきだ。それに鉢を見つけた今、そのデータを含めた回収も俺の任務の一つだ――分かってほしい」

 ヤツカは京介をまっすぐ見つめて言った。

 少しの沈黙の後、京介は深い溜息をついた。

「……分かった。お前の手に委ねよう」

 ヤツカは安心して息を漏らした。

「良かった、ありがとう」

「いや、いいんだ。実際、お前の言い分のほうが正しい……ハヤト、隣の部屋の机の上にフラッシュメモリが置いてある。取ってきてくれないか?」

 京介に頼まれ、ハヤトは隣の部屋に向かった。

「しかし、これだけの資金と時間をかけて鉢と研究資料は紛失、大学も黙っちゃいないな。またスポンサーを探さなくちゃならん」

 京介はパソコンをいじりながらぼやいた。

「その心配には及ばない。鉢と研究データは空軍が買い取った」

 突然、ドアの方から低い声が聞こえてきた。ヤツカと京介が驚いて目を向けると、閉めていたはずのドアが開いており、一人の男が立っていた。

 男の容貌で、まず一番最初に目を引くのが、左目にかけられた黒い古めかしい眼帯だ。次に、縮れた暗めのブロンドの髪の毛に目が行く。顔は鼻が高く彫りが深い西洋人の顔立ちであるが肌は浅黒い。顎には無精髭をたくわえている。目は深く窪んでおり、その上、目の下には黒いくまができているため、眼球の白い部分がやけに目立つ。その中でエメラルド色の瞳が怪しく光っている。

 見たところ三十代後半くらいのようだが、それは髪や髭のために実際より老けて見えているのかもしれない。

 服は小汚い髪や髭とは対照的に、綺麗なブリティッシュ・トラッドである。キャメルの光沢ある革靴、ブラウンのツータックパンツ、白いシャツにワイン色のネクタイを締め、その上に濃い緑色のヘリンボーンのベストを着ている。

 彼こそ、冷凍刑務所を脱獄したゴルギアスだ。

 ヤツカはハヤトがいる隣の部屋に、ちらりと目を向けた。ハヤトは危険を察知したようで、ドアの陰に隠れ、こちらの様子を伺っている。幸運にも、ハヤトはゴルギアスに見つかっていない。ヤツカは、来るなと、目で合図した。

「おっと、動くなよ」

 ヤツカの妙な動作に警戒したゴルギアスは、右手をかざしながらゆっくりと部屋の中に入ってきた。

 するとその後ろから銃を持った米空軍の軍服姿の軍人たちがずらずらと入ってきた。十二人の軍人たちは研究室の窓側にいる三人を、ドア側から囲むようにして銃を構えた。

 なぜ空軍がゴルギアスと一緒に?――ヤツカは驚いた。が、その後、考えを巡らせてすぐに分かった。自分がゴルギアスを追って地球に来たということを知り、少しでも優位に立つために、空軍と手を組んだのだろう。

 地球人に恨みを持っているゴルギアスが、まさか空軍と手を組むとは思っていなかった。

「おお、それが鉢か。良かった。広域捜査官が追ってきたと聞いて心配していたんだ。奴らよりも先に着くことが出来たらしい」

 それを聞いた三人は奇妙に思った。ヤツカなら既にここに来ている――ヤツカは、もしや、とピンときた。

 その時、ドアからさらに一人の男が入ってきた。彼はネイビーのベレー帽をかぶり、ダークグリーンの制服を着ている。彼はヤツカを見るなり、驚いてこう口にした。

「なぜ草薙京介の息子がここにいる!?」

 ――やっぱりだ、ヤツカはこう思った。ゴルギアスは広域捜査官が追ってきたことは知っているが、誰かまでは、もしくは、どんな顔かは知らない。目の前のヤツカこそが広域捜査官であるということが分からなかったのだ。

 この勘違いをうまく利用できるかもしれない。

 ヤツカはハヤトを演じることにし、少しでも相手を油断させるため、鉢を持ちながらそっと両手を挙げた。

「こいつがあの逃げられたっていう息子か?」

「ああ、間違いない。部下の話では昨日東京の自宅で発見したが、邪魔が入って逃げられたと……」

 ペンローズがヤツカの顔を見ながら不思議そうに言った。京介も彼らの勘違いに気付いたようで、ヤツカと同じように、彼らを欺こうという考えに至った。

「何の話だ?ハヤトはずっと私の研究を手伝ってもらっていたんだぞ?」

「お前の部下の勘違いらしいな」

 ゴルギアスがペンローズを批難するような口調で言った。

「父さん、この人たちは?」

 ヤツカはハヤトになりきったつもりで京介に訊いた。

「ああ、自己紹介がまだだったな。俺の名はゴルギアス。そして、こちらは米空軍研究所の……」

 ゴルギアスはそこで言葉を詰まらせた。

「ペンローズだ」

「そう、ペンローズ大佐だ――失礼、名前を覚えるのは苦手でね」

 やはりゴルギアスは米空軍と手を組んだらしい。厄介なことになったな、とヤツカは心の中で呟いた。

 ペンローズは落ち着きを払った声で喋り始めた。

「草薙京介さんですね?あなたも月人の存在は御存知のことと思いますが、この度、月からの危険人物が鉢を狙って潜入したとの情報を受けました。このゴルギアスは月の広域捜査官です。その危険人物から鉢を保護するために我々が保管いたします。ご協力下さい」

 ペンローズはすました顔でペラペラと嘘を並べた。そんな嘘に騙されるわけがない。何しろ彼らがハヤトと思っているのが、他ならぬ広域捜査官のヤツカなのだから。

 しかし、京介が疑いの言葉をかける前に、ゴルギアスが苛立った表情でペンローズに言った。

「なぜ嘘をつく?俺は嘘が嫌いだ。やるなら正々堂々だ――俺がその鉢を狙って潜入した危険人物とやらだ。鉢を手に入れるためならなんだってする。おとなしくその持っている鉢をよこせ――さあ、さっきよりもよっぽど渡す気になっただろう?」

 ペンローズが目を丸くしてゴルギアスを見つめた。ゴルギアスはそんなのお構いなしという表情で両手を広げた。

 ヤツカは考えていた。ゴルギアス達が油断しているとは言え、今は多勢に囲まれて身動きがとれない。なんとか彼らの注目を外す必要がある。

 その時だった。

「おお、随分と賑やかだな」

 天井近くの空中、ゴルギアス達の後方に突然ティグリスが現れた。ゴルギアスは振り返り、右手を構えてティグリスに向け、空軍の兵士は銃を向けた。

 ヤツカは心の中でティグリスに感謝すると同時に、素早くマントの下を探り、何かを掴みとって地面に落とした。隣の部屋から隠れて様子を伺っていたハヤトは唯一、彼の静かな行動に気がついた。

 ヤツカが地面に落としたのは、米粒大の数十個の金属の球だった。その球は音もなく床に落ちると、まるで意志を持っているかのように自ら転がり出した。球は静かに素早く床を転げ、空軍とゴルギアスの足元を縫い、最終的に彼らを囲むように配置された。彼らは上方のティグリスに気を取られ、全く気が付かなかった。

「なんだなんだ。豪華なお出迎えだな」

 ティグリスは鷹揚とした動作で周りを見渡した。

「――ナビゲートプログラムか?誰だ!?」

 ゴルギアスは辺りを見回した。兵士たちは不思議そうに顔を見合せている。ゴルギアスの他にリングを持っている月人はいないはずだった。

 その時、ゴルギアスと空軍を囲むように床に配置された金属の球が振動し始める。

 ゴルギアスはその異変に気づいたようでとっさに足元を見たが、既に遅かった。

 ズン――

 と、彼らの立っていた地面は、重厚な音を立てて綺麗に抜け落ちた。

 ハヤトはポカンとした顔で部屋から出てきて、ヤツカの元に近づいた。

 目の前のゴルギアス達が立っていたはずの場所には、ぽっかりと穴が開いている。穴を覗きこむが、土煙がたちこめて下の様子を視認することは出来なかった。

「父さん、早く研究データを」

 京介もハヤトと同じように呆然として穴を覗き込んでいたが、ヤツカに言われてそのことを思い出した。

「あ、ああ。ハヤト、フラッシュメモリは?」

「――あ、うん。これだよ」

 ハヤトは京介にフラッシュメモリを手渡す。京介はパソコンにフラッシュメモリを繋げて、パソコンを操作しだした。

「よし、移動が終わった」

 京介はパソコンに繋がれたフラッシュメモリを外した。

「この中に研究データが入っている」

 京介はフラッシュメモリをヤツカに手渡した。今や『仏の御石の鉢』とその研究データはヤツカの手にある。

「パソコンのデータも言われた通り全て消去したぞ」

 京介は手を広げてみせた。

「父さん、父さんを信頼していないってわけじゃないけど念のためだ」

 そう言ってヤツカはパソコンに左手をかざすと、掌からスタンボールを放った。スタンボールはパソコンに命中し、パソコンは火花をあげて粉々に破壊された。

「――当然の判断だ」

 京介は唇を結んで小さく数回頷いた。

「早くここを離れよう」

 ヤツカは二人に告げ、三人は穴の脇を通って廊下に抜けた。

「これからどうする?」

 ハヤトがヤツカに訊いた。

「とりあえず空間転移の入口を作って日本に帰ろう。そこでこれからのことについて話し合う」

 ヤツカはマントの内側からペンを取り出すと、廊下のリノリウムの床にあの時と同じような図形を描き始めた。

 ヤツカが図形を描き上げるのを黙ってみていたハヤトと京介だったが、突然、ピタリとヤツカがペンを止めた。

「どうした?」

 京介が訊いたが、ヤツカは人差し指を唇に当て、静かに、と促した。三人は息を潜めて聞き耳を立てた。

 はじめは何も聞こえないかと思われたが、次第に、わずかに物音が聞こえてきた。

 キュキュキュ――キュ――ギャリッ――ギュ……

 それは、ゴム風船を擦り合わせるような、何とも奇妙で嫌な物音だった。そして、その中に瓦礫が動く物音も混ざっている。音は階下、先ほどゴルギアスたちが落ちた穴の方から聞こえてくる。

 ヤツカはペンを床に置き、物音を立てないようにゆっくりと穴の方に近づいて行った。ハヤトも近づこうとしたが、ヤツカは声を上げずに右手でそれを制止した。

 ヤツカが穴の手前まで来ると、物音はピタリと止んだ。それに反応するかのようにヤツカも動きを止めた。

 あたりに静寂が流れる。

 ヤツカは穴の下に立ち込める土煙がぐるりと蠢くのを感じた。

 それと同時に、体に強い衝撃が走り、窓ガラスに叩きつけられた。

 ハヤトは穴から何か蠢く物体が出てきて、ヤツカに襲いかかったのを目撃した。しかし、割れたガラスの衝撃で顔を隠して目をそらしてしまう。次にヤツカの立っていた場所を見た時には、ヤツカはそこにいなかった。

 ハヤトは窓の外に目を向けて我が目を疑った。

 外では、太陽の光を浴びて、その身を怪しく光らせ蠢く蛇がいた。あえて言うなら蛇というだけであって、その生物は蛇とは明らかに異なっている。

 まず、その身の大きさは全長30メートルはあるだろうか。体の太さはドラム缶ほどである。体表は苔色の鱗に覆われており、腹の側は菜種油色になっている。

 さらに驚くべきことに、その蛇は、そこがまるで海中であるかのように宙を舞い、身をくねらせて飛んでいるのである。その姿は、紛れも無い、伝説上に語り継がれている『龍』という名に違いなかった。ただ、その龍は、ハヤトの考えていた龍よりもグロテスクで、邪悪な雰囲気を纏っていた。

 目を凝らしてみてみると、ヤツカはその龍の口に咥えられていることが分かった。ヤツカは体をもがき、激しく抵抗しているようであるが、頭を振らせる龍にかなり手こずっているようである。

 龍は、しばらく地上付近で身をくねらせた後、ヤツカを咥えたまま、その身を針のように伸ばして空に急上昇した。

 ヤツカは自分が今格闘している相手が一体何であるか考えている暇などなかった。体を締め付ける痛みと、激しく揺さぶられる頭に意識が遠のきそうになっていた。

 そして、強い重力が体にかかったかと思うと、急にふわりと体が軽くなった。

「ヤツカ!落ちるぞ!」

 ティグリスの声が聞こえてきた。どうやら自分は宙に放り出されたらしい。遥か下に、小さくなった建物が見えた。

 ヤツカはマントの下を探り、反重力装置を取り出した。そして、落ちながらマントを脱いだ。そのマントに反重力装置を取り付けようとするが、風でマントがはためき、思うように取り付けることが出来ない。この間もヤツカは速度を早めて落下している。

「ティグリス!設定を!」

 なんとかマントに反重力装置を取り付けたヤツカは叫んだ。反重力装置から緑色の光がチカチカと輝く。下を見ると、地面が息を呑む速さで近づいていた。

 早く、早く――

 ヤツカはマントを両腕に抱え、握りしめながら呟いた。

「できたぞ!」

 ティグリスの声とともに、マントは急激に空気の抵抗が増えたように落下のスピードが落ちてきたが、それによりヤツカは下方に引っ張られ、振り落とされそうになる。ヤツカは精一杯マントにしがみついて抵抗した。

 ヤツカのマントは地面すれすれの所でやっと落下のスピードを相殺し、上昇した。

 ヤツカはマントに足をかけ、その上に立ってみたが、まるで腐った木の上にいるようで、足場が安定せずに手をついた。

「ダメだ!オブジェクトが薄すぎて安定できない!」

 ティグリスがマントの上に姿を現して叫んだ。ヤツカ自身もこのようにマントのような薄い素材で飛行するのは初めてであったが、現状はこれでなんとかするしかない。

 ヤツカは自分が格闘していた生物、宙に蠢く生物を、この時にやっとその全体を捉えることができた。

「あれは――!?」

「おい!こいつを見ろ!」

 下からゴルギアスの声が聞こえてきた。ゴルギアスは大学の建物の外に出て右手を上にかざして立っていた。その手には、琥珀で出来たようなソフトボール大の玉が握られていた。

「チッ、『龍の首の玉』か!あれまで見つけていたのか!」

 ゴルギアスは握っている『龍の首の玉』――龍玉を見つめ、力を込めた。すると、宙を泳いでいた龍は、マントの上に乗って飛ぶヤツカの方を向き、突進してきた。

 ヤツカは右手をつき、左手をかざしてスタンボールを放った。

 しかし、龍は身をくねらせて、それをするりとかわし、ヤツカに襲いかかる。ヤツカもマントを巧みに操り、龍の突進を避けたが、やはりマントは安定せずに落ちそうになる。

「おい、ハヤトという奴!早いとこその鉢を渡さないと命はないぞ!」

 ゴルギアスが下で叫んだ。ヤツカは左手に持った鉢を強く握りしめた。何があってもこの鉢は奴らの手に渡してはならない。

 ヤツカは大学の校舎に目を向け、三階の廊下からこちらを見ているハヤトたちの姿を見つけた。

 ハヤトはヤツカと龍の攻防を息を呑んで見つめていた。どうもヤツカのほうが不利らしいことは分かっていた。このまま戦っても勝ち目はないだろう。なんとかする必要がある。そう考えていた時、ヤツカがこちらを見つめた。

 それは一瞬のことであり、彼はもちろん何も口にはしなかったが、ハヤトには彼の指示が理解できた。ハヤトは、この時初めて、ヤツカと自分は紛れもない双子なのだと実感することができた。

「父さん、この図形の続きは描ける?」

 ハヤトは京介に尋ねた。

「空間転移コードか?何度か見たことはあるが、描くのは初めてだ。月文字の記憶もあやふやだし……」

 京介は戸惑ったが、龍と戦うヤツカを見て考えなおした。

「よし、やってみよう」

 京介は床に置いてあるペンを手に取り、続きを描き始めた。

 この間もヤツカと龍は激しい攻防を繰り広げている。ゴルギアスもヤツカの――彼自身はハヤトと思っているが――身のこなしに舌を巻いていた。

「一体――奴は何者なんだ?」

 京介はあやふやな記憶を辿りながら必死に転移コードを書き続けていた。あやふやと言いつつも、彼が描く転移コードは、ヤツカが描くものとほとんど遜色ないように見えた。

「ヤツカ!できたぞ!」

 空間転移コードを描き終えた京介は思わず大声で叫んでしまった。それはヤツカの耳には届いたが、同時にゴルギアスにも届いた。ゴルギアスは地上の建物の外から、三階にいるハヤトと京介の存在に気付き、振り返った。

「しまった!」という表情をヤツカが浮かべる。

 ハヤトは顔を隠しているために、彼こそがハヤトだとはバレなかったが、彼らが何か企んでいることは分かった。

「アイツら……」

 ゴルギアスはハヤトたちの方に右手をかざし、スタンボールを放った。

 ゴルギアスのスタンボールがハヤトのいる場所へ一直線に進んでいく。

 が、横から別のスタンボールがぶつかり、軌道が変わった。スタンボールはハヤトの上をかすめて奥の天井に命中し、その部分が砕けた。

 ヤツカが横からスタンボールを放ったのである。

「チッ!」ゴルギアスは舌打ちをし、再び龍玉を構えた。龍がハヤトたちの方を向いた。

「まずい!」ヤツカが思った。二人を庇いながらあの龍と戦うのは難しい。

 しかし、龍は突然、その場で悶えるようにのたうちだした。

 何が起こったのだろうか。

 ゴルギアスを見ると、彼はなぜか頭を抱えて苦しんでいた。

 理由は分からないが大きなチャンスだ。ヤツカはハヤトと京介の元に降り立った。

「一応描いたんだが、合っているかどうか」

 京介は自信無さげにそう言ったが、ヤツカは京介の言葉を無視して、左手をかざした。手首のリングが緑色の光を放ち始めた。

「ティグリス、いけるか?」

 リングから赤い光が点滅した。

「ダメだ!どこかに誤りがある!」

 ヤツカはゴルギアスを見た。彼はまだ頭を抱えて苦しんでいる。早くコードを完成させなければならない。ヤツカは地面のコードに目を通し、確認しだした。

 ハヤトはその間、苦しんでいるゴルギアスを見ていた。ゴルギアスは眼帯のある左目を押さえて、苦悶の表情を浮かべている。しばらく悶えた後、うつむいて動きを止め、肩で大きく数回呼吸し、彼は顔を上げた。

 ゴルギアスと目が合ったハヤトは、恐怖で体が縮み上がった。

 彼の左目の眼帯の下から、赤黒い血が流れ出しているのである。そして、その彼の表情は、この世の全てを憎んでいるかのような、憎しみと怒りに満ちた形相であった。

 ゴルギアスは左手の龍玉をかかげ直した。宙を悶えていた龍はギロリとこちらに視線を向けた。その目は、まるで今のゴルギアスの目を写しとったかのようにギラギラと光っていた。

「ヤツカ!来るぞ!」

 ハヤトが叫んだと同時に、龍はこちらに弓矢のように突進してきた。

「ここか!」

 ヤツカはハヤトの声が聞こえていたが、冷静にコードに目を通し、やっと間違いを見つけることができた。図形の中の月文字が一つ欠けていたのだ。ヤツカはペンで文字を描き加え、再び左手をかざした。

 窓の方を見ると、龍が風を切って突進してくるのが見えた。もう、あと数秒後くらいにはここに突っ込んでくるだろう。

 左手のリングが緑色の光を放ち点滅した。

「よし、認証したぞ!」

 ティグリスの声が聞こえてきた。

「ハヤト、入れ!」

 ヤツカが叫んだ。

「え!?入れって?」

 入れと言われてハヤトは戸惑う。まさか、この床の中に?――床は特に変化もない。とても入れそうではない。

 ヤツカはためらっているハヤトの背中を床に向かって思いっきり押した。ハヤトは前のめりになって床にぶつかりそうになり、目をつむった――ハヤトの体は、床に当たりそうになった所でまばゆい光を放ち、床に吸い込まれるようにして消えた。

「ヤツカ!先に!」

 京介が叫んだ。ヤツカは父を先に入らせるつもりだったが、ここで譲り合っている時間はない。ヤツカは床に飛び込み、同じように光を放ち、姿を消した。

 その後すかさず京介も飛び込んだ。京介の体が床に吸い込まれた直後、龍が壁を破って床に激突した。龍の体は床に叩きつけられ、床を破壊し、建物は土煙を上げた。

 ゴルギアスは左目を眼帯の上から押さえ、顔をしかめた。頬にどくどくと血が流れ続けている。まるで赤い涙のようだ。その血を荒々しく手で拭うと、土煙をあげる建物に近づいた。

 すると、ガラガラと音を立てて土煙の中から龍が、蛇のように這い出てきた。見ると、龍はその頭だけがなくなっており、切断面が赤黒くぬらりと光っていた。しかし血は流れ出ていないようである。

 這い出た龍は次第に風船のようにしぼんで小さくなっていき、ついにはミミズほどの大きさになった。

 ゴルギアスが足元に龍玉をつけると、小さくなった龍はその龍玉の中に入り込み、琥珀の中に閉じ込められた模型のようになった。

 その時、建物の瓦礫の中から、ペンローズが兵士たちに肩を借り、足を引きずりながら出てきた。顔のところどころから血を流している。

 ゴルギアスはペンローズを見つけると、彼のもとにずかずかと近寄って行き、彼の胸ぐらを掴んだ。

「どういうことだ!?草薙京介の息子は月人の血を引いている!奴の母親は!?」

「私達も知らなかった!母親の情報は一切記されていなかったんだ!」

 ペンローズは痛みに顔をしかめながら弁解した。ゴルギアスはさらにまくし立てる。

「おまけにリングを持っていて、広域捜査官並の訓練を積んでいる!――それに広域捜査官は既に駆けつけていたようで身を隠していたんだ!」

 ゴルギアスは、先ほど三階で京介と共にいた、黒装束のハヤトこそ、広域捜査官だと思ったらしい。ゴルギアスはペンローズを乱暴に突き放した。よろけたペンローズを兵士たちが受け止める。

「それで、鉢は奪われてしまったのか?これからどうする?」

 ペンローズが焦ったようにゴルギアスに問う。ゴルギアスはぎろりとペンローズを睨んだ。

「――大丈夫だ。居所は分かる」

 ゴルギアスは落ち着きを払った声で答え、持っている龍玉を見つめた。

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