第2話 妹と初めての出勤。
「ほんといいかげんにして。これで会社に遅れたらおにいちゃんのせいなんだからね」
こうして、また妹の台詞から始まる物語。君の中だか君の那覇だか、そんな物語を思い出した。そこでは、時をかける少女のように古典的な男女入れ替えを果たした主人公が、戸惑いながらもそれなりに「入れ替わった相手」の日常に紛れ込む姿が描かれている。僕もそうするべきなのだろうか。しかし、そんなにうまくいくのか。
携帯電話の日付を確認すると2020年5月となっている。しかし、僕は昨日が何年何月の何日か記憶していない。これ自体は不思議ではない。代わり映えのしない毎日を過ごしていれば、何年何月まではかろうじて覚えていても、何日までは覚えていないだろう。しかし、僕は何年何月すらも覚えていなかった。ここまで覚えていないともはや大往生を待つ老人の域だ。そう、僕が記憶しているのは、昨日の帰り道、「secret base」を聞いていて、夏だったということだけなのだ。それ以外はもやがかかったように曖昧で、そもそも、それは会社の帰り道なのか、大学の帰り道なのか、それすらも定かでは無いのだから。
妹は古典的にほおをぷんすかと膨らませて隣を歩いている。僕も彼女もスーツ姿だ。まあ、我々、会社員らしいからね。せっかくなので隣を歩く僕の妹とは思えないほどの美少女の妹のふわりとゆれる赤茶色の髪の毛とかそのささやかな妹キャラにふさわしいささやかなおっぱいとかそういう容姿の描写でもしようなかなとも思うが、僕の心は混乱の中さきほどの彼女とやらのメールをずっと反芻していた。
「昨日のデートの帰り、ちょっと冷たくなかった?」
僕はこれまで彼女がいたことは無い。記憶が曖昧でも、アイデンティティは曖昧にならない。僕はこれからだったはずだ。これから、婚活サイトなりオフ会なり友達の紹介なりで初めての彼女ができて、少し不細工だけれど、笑った顔が可愛い彼女に一生分の勇気を振り絞って告白し、そんな彼女と初めてのデートをして、映画館で君の縄なりを見て「私、主人公が縄を握りしめて叫ぶシーンで泣いちゃった」とか(どんな映画だ)そんな感想を笑いあって、その帰り道にはじめて手をつなぎ、次のデートで初めてのキスをして、そこから初めて相手の家に遊びに行って「今日、両親旅行に行ってていないんだ」とかそんなこんなで大人の階段を上るつもりだったのだ。
ここが仮に異世界なり時間軸のズレた世界なり誰かとの入れ替わりだと仮定して、そこから一足飛ばしで階段を登ってしまってはたまらない。まあ、百歩譲って、告白を飛ばすのはよしとしよう。あれ、すごく緊張しそうだし。しかしそのあとの
(1)はじめてのデート
(2)はじめての手繋ぎ
(3)はじめてのキス
(4)はじめてのお泊り
(5)倦怠期
あたりの階段をどこまで飛んでしまったのか。(1)ぐらいで、せめて(2)ぐらいで止まっていて欲しい。記憶の無い僕は記憶の無いまま清純派でいて欲しい。(3)(4)が終わっていたとしたら、そして今はじめての(5)とかだとしたら。僕は発狂する。元の世界に戻りたい戻して、と強く願う。誰だってそうだろう。友達にゲームを貸して、よし自分のセーブデータの続きをやろう、と思ったらすでにバラモスが倒されていたらどう思う? ピカチュウが勝手にライチュウに進化させられてたり、イーブイが勝手にブラッキーに進化させられたりしたらどう思う?
僕は神様、というか、僕をここに呼び寄せた何者かに早くも恨みを抱いていた。泣きそうである。怖くて過去のメッセージや写真を遡れない。なんかお泊りの写真とか、ノーメイクの横顔あっと彼女の家とか、そんなの残ってたら、そのまま君の縄で、この異世界からも旅立ってしまいそうだ。昨今の異世界転生系ライトノベルは、そういう風に元の世界に戻るとか無いんだっけか。
「おにいちゃーん。生きてるー? なんかもうやばい感じだよー」
「おう。もうやばい感じだよ……目が覚めたら浦島太郎。もしくは夜明けの
「私は
「うむ。冷静な現状分析どうも。ていうか冷凍メーサー先輩って誰だよ……すでに名前からして怖すぎるんですけど」
「命名者はおにいちゃんらしいけれどね……まあ、職場の新人を谷底につき落として、そのあと側面を冷凍して登れなくするぐらいの恐ろしい上司だって、最近おにいちゃんが愚痴ってたんだよ? はー私は平和な職場で本当に良かった」
「ねえ、ついでに聞いていい? 俺って彼女いるよね」
「えっ、おにいちゃん、彼女いたの? うそ! そんな話いもうとの私に全然してくれて無いんだけど。それも突然今してるんだけど、どうしたの? 本当に、頭がおかしくなってるの?」
「だからそうやっていっているじゃないですか」
「うわーショック。妹の私にすらひた隠しする彼女の突然の開示! いつから、いつから彼女いたの!? 正直に答えて!」
「いや、俺も知りたいんだけれど」
「とぼけないで。名前は。いつ付き合ったの。どこつながりなの。私を差し置いてなに一人で幸せになろうとしてるの。死んだほうがいいの?」
「いやまて、怖い怖いから。ヤンデレ系妹キャラとかマジでお腹いっぱいだから。えーっと名前は……」
見たく無いメッセージを開いてみる。送信者の名前は……。
と、その時、メッセージ受信の通知。
「ていうかさ、最近シキさん、私に冷たいと思うんですよ。若干セックスも作業めいてきてる気がするし。これが倦怠期ってやつですか。私は悲しい(泣き)(泣き)(泣き)というか、早く返事を返しなさい。まだ出社してない時間のはず!」
メッセージ通知の時「(泣き)」とかでるの、なんか笑えるよね。特に連打した時とかすごくダサい。そんな感想で現実逃避。僕の最も恐れていた事態。ていうか、彼氏彼女になるとセックス、とかそういうの普通にメールするものなの。この朝の爽やかな並木道で。そんなこと、知りたくなかった。知りたくなかった!!!!
「名前は……ナツ。わりとさばさばして、思ってることはっきりいうタイプ」
苗字は……わからなかった。なぜなら携帯登録名が「(ヤシの木)ナツ(ヤシの木)」だったから。ヤシの木。この異世界は、すでに、エンディングを迎えた後に南の島に隠居した主人公の世界だったようだ。
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