第一章 誰しも頭のなかに
第1話 イデ
己が憎いと、そう思うことは?
腹の底からわきあがる憎悪と自己愛に、はらわたを灼かれてはいまいか。
そこから救われたいとは?
私は、ある。
* * *
人を殴ると手が痛くなる。
イデにとって、そんな当たり前のことがどうでもよくなって、ついでとばかりに良心が痛まなくなったのはいつだったか。
フードを目深にかぶり、殴られた横っ面の痛みにふと思う。
すぐに意味のないことだと切り捨てた。
腫れかけているのか頬が熱を持っている。
怪我をした顔を隠すためにフードを目深にかぶった。だが、いずれにせよすれ違う人々がイデに向ける視線には恐怖があった。
昼間は美しいレンガが彩る街も、夜、しかも雪がふりそそげば、白い吐息が固まりそうなほど冷え切った場所に顔を変える。
そんな薄暗い夜を、身長2メートルにも迫ろうかという大男が歩いていれば自然と人は避けていく。
近づくのは、イデの頬を腫らし、殴られた男と同じ出来損ないの不良か酔っ払いぐらいだ。
「ちっ、鬱陶しい雪だ」
イデは雪が嫌いだ。
何もかもが台無しになった三年前の日も、肌がじっとりしめる雪の夜だった。
三年前、十七歳のイデは今と違った。
酒浸りで素行の悪い父。逃げ出した母。そういう、いかにもツイてないやつの境遇にも耐えて、真面目に勉学に励む少年だった。
大学にいくための大事な試験を前にした時期のことだ。
誰もが悪童に染まる地区に生まれ、同い年の周りが当たり前に悪行に手を染めるのを見ても、まだ別の世界へ行けると信じていた。
だが何もかも無駄だった。
試験のノートを盗まれた。ただそれだけのことだったが、こういったことは一度ではなかった。
重なるストレスに緊張が拍車をかければ、堪忍袋のおがきれる。
抑え込み続けた不満が爆発し、気づけば自己弁護と卑怯者の非難をせずにいられなかった。
誰も盗まれたと信じれくれず、嘘だと非難された。
野次馬の一人がいった。
「どうせあいつの母親は新しい男に誘われて出て行ったんだ」
イデは初めて人を殴った。
それで全てが終わった。どこにでもある話だった。
三年前のイデのままなら、もしかすると今頃、暖かい宿舎のなかでホットミルクでも嗜んでいたかもしれない。
「なにもかもが終わった話だ……」
それ以来、何もかもに妙なところで気が短くなってしまった。
自分で自分を切り捨てる。
吐き捨てた言葉は誰にも届かない。
最悪に苛立った気分は自然とイデを早足にさせる。
そのまま歩いていると、数分もしないうちに周りは誰もいなくなった。
しかし、ただ一人、そういった変化に気が付かず、イデにまっすぐ向かってくる男がいた。
やけにふらふらして、全身をばたつかせるようにして走っている。奇妙な男だ。
また麻薬をキメた不良か。あるいは今度は酔っ払いか。こっそり拳を握りしめる。
「おい、君! ちょっと頼まれごとをしてくれないか!」
どちらも違った。
これはこれで狂ったことだ。その男は、どうしてかイデに話しかけ、あろうことか頼みごとをしようというのである。
「はあ?」
「いきなりすまない。だが何も言わず、これを預かってくれ!」
話しかけてきたのは、ぼさぼさの赤毛にメガネをかけた中年の男だ。
酒の匂いはしない。だが微かに香るツンとした匂いにイデは眉をひそめる。
かぎ慣れたそれは、消毒液の匂いだ。
嫌な予感がして、イデは男を突き飛ばそうとした。
それよりも先に、男は意外な俊敏さでイデの手をとる。
気が付かぬうちに、自らの大きな掌にトランクを押し付けられていた。
「必ずあとで連絡する。謝礼もたっぷり払う」
「おい、」
「ああ、誰か来た! いかなければ!」
消毒液の男は、一方的にまくしたてる。
口の端から唾が飛ぶ勢いだ。
しかもいうだけ言って、イデにはおかまいなしである。
何か言う前に、消毒液の男は慌てふためいた様子で背後を振り返った。何かが目に映ったらしく、顔面蒼白になってまた走り去る。
あれでは冷静に周りを見れていないだろうに違いない。
「なんだあいつ」
頭のネジが外れかけた
男はほつれひとつないブレザーを着ていた。
職務や血筋はなんにせよ、それは中流階級以上である証拠だ。
街のはずれに近い居住区には珍しい。
消毒液の男がやってきた方角も古びた屋敷ぐらいしかない。
しかも、普段はイデのような不良のたまり場になっている。
「俺たちなんかとは違う人種だろうに。なんであっちから?」
屋敷でイデの同類に、カツアゲのカモとして目をつけられたか。
あるいはこんなクソッタレな掃き溜めに、何かが起こっているのか。
イデは好奇心を刺激され、医者が見た方向を目で追う。
風のように来るものがあった。
一輪の自転車だ。赤い塗装にところせましとステッカーが貼られている。
イデには自転車に見覚えがある気がした。
だからというわけではないが、イデは長い足をいたずらにのばす。
自転車が浮いた。心なしか放物線を描き、ろくに整備もされていない地面に激突する。
けたたましい音が耳朶を打つ。
「んぎゃぴっ」
蛙がつぶれたような声が自転車のそばから聞こえた。女の声だった。
車輪がからまわる不快な金属音がわめく。
自転車が倒れる瞬間、ろくに見ていなかった女の方で、ひらりと白い花弁が舞った気がした。
不意に柔らかな香りも鼻腔をかすめ、半ばイデは反射的に振り返る。
女はちょうど立ち上がるところだった。
転んだ際にうったのだろう、腕やら膝小僧やらをさすった。この事態の原因であるイデに、うっすら涙の浮かんだまなこを動かす。
「……なんで転ばしたんです?」
眉は八の字を描いている。だが嫌悪の色はなかった。
純粋な戸惑い。理不尽な困惑だけがある。
大きな瞳と目が合う。
気づかず吐息をのむ。真黒な月があるとすれば、こんな色だろうか。月光とガスライトで煌めきを放つ黒い虹彩は、底なしに深い色の重なりを宿していた。
細かな雪が黒い闇を飾るなか、彼女の姿が光をまとったかのように浮かび上がる。
――小せえな。
イデに比べれば、たいていの人間は小さい。
それにしても女は小柄だった。
おそらく、150センチ少ししかないのではないだろうか。
大きい瞳だけでなく、顔だちも可愛らしい。幼い少女かと思う。
だがイデはその女がいることに、強烈な違和感を与えられた。
何故か、この女がここにいることが、ひどく「おかしく」感じる。
見れば、黒い瞳の女は制服に似たデザインの白い服をまとっていた。
滑らかで、いかにも着心地の良さそうな生地である。
ひとめでわかった。かなりの上物だ。
そして、こういった服は胸部が目立たなくなるものだ。
それでも女の胸元は、暗闇でもわかる程度に押し上げられている。
無垢な少女の顔と、大人の女の体。下級層に見合わぬ綺麗な服。ちゃんと見れば、何もかもがチグハグだった。
わずかな時間でも見とれてしまったのが馬鹿らしい。
「おっと、悪い悪い。ドレスコードも教えて貰わなかったお嬢様がいたもんだからよ。とっとと綺麗なおうちに帰んな、姉ちゃん」
はっと鼻でわらって見下す。
悪意をどこかに忘れてきたような目をした、品のいい女が、傷ついた顔で立ち去れば胸がすく。
「はい?」
意図に反し、少女はきょとんと首を傾げた。
見上げるほど身長差のある大男と見合ったまま、長いまつ毛を瞬かせた。
ぬるま湯育ちの娘にしては、おびえた様子が微塵もない。イデの方が目を丸くする。
雪が降るだけの間の抜けた時間が過ぎた。
先に動いたのは、女の方だった。「ぽん!」と手を叩く。
「あっ、成る程。転ばせたのは八つ当たりでしたか。理解できました」
「……ぁあ?」
「お互い出会うタイミングが悪かったのですね。よし解決。よかったわ、大きな人! 貴方に何かしてしまったのでなくてよかった! それでは私、急ぎますので。失礼」
――底なしの能天気かよ。こいつも変人か。
一方的にまくしたてる女に呆気にとられた。若干呼びかけたことを後悔する。
それ以上ちょっかいをかけないイデに軽く微笑みかけ、女は自転車に跨った。
途端、絶叫が耳をつんざく。
「って、ああっ! 自転車壊れてるぅ!? こうなったら走ってやる私の足が二本なのは何のためーっ!」
一人で勝手に慌てふためき、嵐の如く走り去る。見目にそぐわぬ騒々しさだ。
打ち捨てられた自転車が、濡れた通路に倒れた。
とてもあの女の持ち物とは思えない。
ステッカーも、色も。イデの周りの出来損ない達が持つようなデザインだ。
これまた富裕層らしくない行いだが、屋敷のあたりから盗んだのではないか。
もちさられて疾走して壊れて捨てられて。
この自転車は全く災難としか言いようがない。自己主張の強い赤が、かえって寂しかった。
* * *
棲家に帰るなり、イデは濡れた上着を椅子の上に放り投げた。
北生まれの祖父の血のおかげか、寒さはほとんど気にならない。
父親も仕事から帰ると、よく上着を脱ぎ捨てていたのを思い出して、舌打ちする。
あの男は一人になっても酒におぼれる日々を過ごしているのだろうか。
イデが家に帰らなくなってから、三年が経つ。
追い出される前に飛び出した。
そうして路地裏の人間になり、ああはなるまいと思っていた『周囲の育ちの悪い同胞』の知り合いが増え。
この下層らしいロクでもない理由で殺された男の家に住み着いている。
乱立したボロボロの家と住みかとゴミ溜め、入り組んだ通路で迷路と化した場所の隙間に、落とし穴のように潜む家はなかなか住み心地がいい。
だが買い手が誰もいなかった。
それをいいことに、イデは無断で立ち入り、我がもの顔で過ごしている。
近頃は、科学こそが「災害により孤立し混乱した国の未来を切り開く希望」だかなんだかと賛美される世の中だというのに。
力に目のない一部の肥えた富裕層と、頼るもののない枯れた下層には、根強く迷信を信じ続ける者がいるのだ。
適当な椅子を引き寄せて、どかりと背を預けると木がきしむ。
この家にもともとあった古い椅子だ。これが嫌なら買い換えねばなるまい。
細かな不満を失くすだけの余裕は、イデたち下層民にはない。
「ふぅ」
「どうしたんだ、随分不機嫌じゃん。おっと、いつものことだったかな」
ひとりかと思いきや、背後から話しかけられて、イデはきょう何度目かの舌打ちをした。
「勝手に入ってきてんじゃねえ」
「空くような鍵なのが悪いんだよ」
目だけを動かして睨む。
はいってきたのは、『周囲の育ちの悪い同胞』の一人である、やせぎすの男だった。
悪びれる様子もないやせぎすの男に、イデは黙って瞼を閉じる。
このやせぎすは、イデとさほど年齢が違わないせいか、やたら絡んでくる。
遊びで付き合う女や、一時的に手を組むだけの奴らのように、利用し利用されるだけの仲にしては距離が近すぎる。
正直、鬱陶しい。
無視するイデに、やせぎすの男はやけに機嫌よく話し続ける。
「なあ、あの自転車どうしたんだ?」
「自転車?」
「裏にとめてた、赤い自転車だよ」
「俺のじゃねえよ」
「知ってるよ、あれオレのだもん。ほら、ちょっと外れの方に誰もいない屋敷があるじゃん。オレたちみたいなのたまり場になってるから、オタクも行ったことがあるんじゃないの。あそこにおいといたら、盗まれちゃったんだよね」
――今日はとことん人運がねえな。
「で?」
「ところで、オタクの足元にあるカバン。随分立派なカバンだよなあ」
ねっとりとした目がイデの足元を舐めるのが伝わってくる。
飢えた人間というのは、実に目敏い。
「だからなんだよ」
「自転車の縁もあるし、一枚かませてくれないかなーって」
イデはかかとでトランクを軽く揺する。
捨て場所も思いつかず、とりあえず持ち帰ってきたものだ。
眠って、いい捨て場所が思いついたなら、変人とかかわらないためにも捨ててしまおうと思っていた。
だが、鬱陶しいやせぎずに付きまとわれて、少し誘惑を覚える。
確か、あの奇妙な男は「たっぷり謝礼は払う」といっていた。
古い椅子を買い替えることすらままならない生活。それが当たり前で、泥の底で見下されながら生きることを当然のものと受け入れる日々。
もしかしたら、そこから抜け出すきっかけになるのでは、と夢を見る。
三年ぶりに、胸にともしびが灯った気がした。
腐っていた中心部が少し燃えたように、わずかに呼吸が楽になる。
それだけで、本当に久しぶりに「やる気」というものが呼び覚まされた。
「……そういえば、」
「おっ、いいのか?」
「アンタの名前、なんだったか」
「覚えてねえのかよ?!」
このどうでもいいやせぎすと付き合うのも、この一件が最後になるかもしれない。
記念に名前ぐらいはきいておこうか。そんな気になった。
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