アンダーハウル
室木 柴
プロローグ
命とは、神のわざにてつくられたもうものである。
一級、劣等、高潔、低俗、大小、
あらゆる
子どもは特に最たるものだ。彼らはなんにでもなれる。そしてなにものをも自由に手に入れ、捨て、選べるだろう。
ある昼前、とある白い砂浜にも、そういう少女がいた。
少女の無邪気な歓声は、無垢な喜びに満ちていた。
白い砂浜に、小さなつま先が沈む。
青い海に近づき、きゃっきゃと浜に戻っては駆け回る。
肩まで伸ばした黒髪が乱れるのも気にしない。
丸い桃色の爪が砂を蹴り上げた。太陽の光を反射して、きらきらと光を放つ。
実際はそんなことはなかったのかもしれない。それほど少女の溌剌とした生気が、清らかな世界を色づけていた。
その十歳程度の小さな背中を、木陰から見守る男がいる。
赤毛の男である。名はアルフ。彼は少女のお目付け役だ。
少女の名はネヴィー。しかし本人は可愛らしい響きが好きでないらしい。『ネヴ』と呼ばせていた。
海辺ではしゃぐネヴの幼い姿に、アルフは安堵のため息をつく。
「よかった……久々に楽しそうだ」
無理矢理にでも連れ出した甲斐があった。
誰に言うでもなく一人ごちる。
一か月ほど前、大きな地震がバラール国を襲った。
その際、ネヴは我が家である父の屋敷で過ごしていた。その際、不運にも彼女のいた部屋の扉が歪んで開かなくなり、閉じ込められてしまったのだ。
見つかった時は、頭をどこかにうちつけたのか額から血を流し、呆然とした状態で座り込んでいたという。
以来、ずっと引きこもり気味だったので、心配で仕方なかったのだ。
目の前で可愛らしい歓声が響く。たまらなく嬉しい。
このところずっとこっていた肩の力が、自然に抜けた。
その、己を見守る存在の変化が伝わったのだろうか。
ネヴが振り向く。
そして何かを探してきょろきょろと左右を見渡した。やがて、大きな黒い瞳がアルフをとらえる。
黒真珠の如き瞳の光沢は、春の朝を閉じ込めたように穏やかな美しさを湛えていた。
アルフは無垢な輝きに目を細める。
そして少し心配になる。
もっと大きくなったなら、きっとこの瞳は男を惹きつけてやまないだろう、と。
それを想像すると、なんとも言い難い感情が芽生える。
「ねーえ!」
やわい日の光から身を守るように木陰に座り込んでいるアルフに、ネヴは腰を折り曲げて呼びかける。
「一緒にあそばないの?」
「ええ。お父様から、代わりにお嬢を見守るようことづかっておりますので」
「うーん。でもアルフに遊んで欲しいなあ。ねえ、二人で水かけ遊びをするのはダメ? 見守るのにも、何より確実でしょう」
お願い! ネヴは両手を合わせ、腰を折って頭を下げた。
東洋出身の母親に教えられた作法だ。
「いやあ、でもねえ。濡れるのはなあ。俺の着替えはもってこなかったですからねえ。迎えの車、濡れちゃいますよ」
スキップで近づいてくるネヴに、アルフは赤い毛の生えた頭をかいた。口もとに苦笑が浮かぶ。
どこにでもいる普通の少女として、遊びに熱狂する少女に、胸が痛んだ。
ネヴの父親は、はっきりいってあまりほめられた男ではない。
娘を案じはするものの、直接てもとに置きはしない。その方が安全だとはしても、少女には不満もあろう。
「どうしてもだめ?」
悩んでいる間に、アルフの前に白いワンピースの裾が現れた。
彼女は腕を後ろでに回して、アルフの顔を覗き込む。
風が艶やかな黒髪を、重みがないかのように舞い上げる。
無垢な愛らしさが人の形になったような動作だった。
小さな命とは、さながら神のわざである。アルフは心のなかで両手をあげた。
「まーでも、砂遊びくらいなら」
「すきありっ!」
腰をあげかけた瞬間、ネヴの笑みが濃くなる。
次いで、驚きの声が響いた。アルフの喉から発せられたものだった。
自分の顔にかかったぬるい液体を不思議そうな顔で撫ぜる。
透明な液体が頬を滑って唇に入り込む。塩辛かった。
舌を覚を刺激する味わいに、ようやくアルフは目の前の少女に海水をかけられたのだと気が付いた。
後ろにまわした手に、海水をすくって隠していたのである。
移動し、話す間に、指の隙間からほとんどこぼれてしまった海水は微量ではあったが。
「このいたずらっ子め!」
小さく愛らしい少女に、まんまと隙を突かれてアルフは笑う。
額を小突いてやろうと指を伸ばす。
しかしネヴは、刺激されたアルフの悪戯心を素早く察知し、たやすくかわした。
好奇心に忠実に、遊び心を全力で。あらゆるすべてとむき出しに接する。少年少女とはそういうものだ。
大人が久しぶりに掘り起こしたものなど、世界と直に繋がっている彼らの感覚に届くべくもない。
ネヴは海へ向かって走る。
腕を大きく前へ振りながら、あたり一帯に歓声を響かせる。
アルフはゆっくりと立ち上がり、小さな足で刻まれる足跡を追っていった。
* * *
遊びに遊び、時はあっという間に過ぎた。
空は吹き抜ける青から、薄暗い熱と冷えをいっぱいに煮詰めた夕闇に変わりかけている。
「そろそろ迎えがくる時間ですね、お嬢」
「うん」
「どうでした、海は? 楽しかった?」
「ええ、それはとっても!」
アルフが、バケツにスコップを投げ入れながら問う。
すると遊び疲れてまなこをこすっていたネヴは、満面の笑みを花開かせた。
そしてしばらく、じい、とアルフの横顔を見つめる。
「……アルフ、アルフ。私ね、今日、本当に楽しかった。あなたのこと、大好きよ」
「そりゃあ光栄です。オレもお嬢が好きですよ」
ネヴが控えめにアルフの裾を引っ張った。
うわめづかいにやさしく語りかければ、彼女は安心した風に顔をほころばせた。
そのまま箱入り娘はあたりを見渡して、声を潜める。海の泡が弾けるような声音なものだから、アルフもつい耳をすます。
「だからね、アルフに私の秘密、教えてあげる」
「秘密?」
「そう。まだアルフ以外には誰にも話していないんだ。お父さんにもね」
初めての行いでネヴの頬が紅潮する。
黒い瞳に夕闇を映して橙色が重なった。
きらきらした瞳は、話をした後の反応に対する期待と不安の色だ。
「この間の、地震の時ね。私、頭を打っちゃったでしょう。あのときに、そのまま眠ってしまったのだけれど。その時の話よ」
無言を返す。
地震が起きて、一部が壊れてしまった屋敷に救出の手が入った時。アルフは外で傘を開いて、運び出される人間を一人一人確かめた。
誰がどのような状態なのか、ボスであるネヴの父親に報告するためである。
担架に乗せられた顔を覗きこむ瞬間、その安否の状態を測っては一喜一憂したものだ。
はたからみれば、淡々と業務をこなす死神めいてみえたという。
そんなことはありえないというのに。幼い少女の、ほんの少し黄色の混じった肌が赤い帯で彩られていた光景は、思い出すだけで肝が冷える。
そんなときにあった、笑顔で打ち明けたくなる秘密とは?
想像がつかない。
「え、えっと。やっぱり興味ないかな?」
いまいち反応が悪いことに、アルフの気分を害したと誤解したようだ。
笑顔が消えて、泣きそうになるネヴの頭にあわてて手を乗せる。
「いえいえ、そんなことないって! さ、おはなししてください」
「光が極まった世界を見たの」
「へえ、本当ですか?」
目を見開いて、驚いて見せる。それだけで素直なネヴはいくらか得意げに唇を歪ませた。
アルフは予想する。
光が極まった世界。頭を打った衝撃による視界の明滅のことだろうか?
いくら十歳とはいえ、不意の災難を誤解している可能性はある。大人だって混乱してしまうのだ。無理もない。
ネヴは続けた。
「本当よ。そこでは虹に紅葉を流し込んだような、透けた美しい色で満ちているの。無限の鮮やかさの後ろにね、うっすら赤い光が重なっていてね。私、まるで神々しいものの内側にいて、内臓のなかから世界の裏側を見つめている気分になったわ」
話しながら、黒い瞳が蕩ける。
橙を乗せた色は、ひどく熱っぽい。
間近で耳を傾けていたアルフの心臓が奇妙にはねた。
その声が、子供らしからぬ陶酔を含んだものだったからだ。
神との精神的な邂逅を果たした、敬虔な信徒めいた姿にぞっとしない。
目の前にいた無垢な生き物が、ただ語るだけで、一瞬にしてくるりと翻ってしまった。
美しい平穏な凪の世界に、太いくぎが打ち込まれて壊れる。そんな印象に、アルフの身体が警告を訴える。
「まるで、天の国を漂うかのよう――」
「ネヴお嬢様。その話、やめにしましょう」
改まったアルフの言葉は、氷の刃となってネヴの興奮に突き刺さる。
己の感動を共有する喜びに輝いていた相貌が、どんよりかげった。
黒い瞳から橙が消え失せ、再び完全な、しかし光を失った黒が戻る。
「せっかく話してくれたのに、すみません。でも、あの事故のことはあまり思い出さない方がいいと思うんです。お嬢様に自覚がなくても、実は心の負担になる、ということもありますから」
「…………」
「本当にすみません。そうだ、今度、病院に検査に行きますよね?それが終わったら、お菓子でも食べにいきませんか? 近くの通りに新しく店ができましてね、そこのマドレーヌが絶品だとか」
つやつやとした黒髪の頭をぽんぽんと叩いて慰める。
ネヴはアルフのいうことに納得する部分もあるのか、ワンピースの裾を握りしめ、砂浜に目を落とす。
「つらいことを思い出すより、楽しいことをたくさんしましょう。そちらの方がお嬢様にとってもいい」
「私に『いい』ってどういうこと?」
いうことを聞きたくても、理不尽に否定され、一方で慰められ、理不尽に反発する気持ちがあるのだろう。
これでまた適当な話題でごまかしたら、ますます機嫌を悪くするに違いない。
アルフはしばらく返答に窮してから、答えを絞り出す
「幸せ、とか?」
「幸せ、ね」
何故かネヴは口のなかで単語を繰り返し、噛みしめる。
アルフが多感な少女の複雑な情緒に振り回されていると、車のクラクションが耳朶を打つ。
音のした方向に目をやれば、黒い車がライトをチカチカ点灯させていた。
「ああ、迎えの車が来たみたいですね」
助かった。脱力して、ネヴに合わせてかがめていた腰を伸ばす。
「とりあえず、帰りましょうか」
ネヴはうつむいたまま、こくんと首を動かす。
「いい子だ」
ぐしゃりと黒髪をかき回した。ネヴは悲鳴をあげたが、まんざら嫌ではないらしい。ほんの少しだけ口角があがる。
安心してネヴに背中を向けたと同時に、ネヴの押し殺した呟きが落ちる。
「あのね、でもね。もう一度、向こう側にいけたならって。ちょっとだけ、思うんだ」
それがどういう意味なのか。アルフにはわからなかった。与える言葉も行動も持っていなかった。
アルフは車に向けて手を振って、もう帰ると伝えた。エンジンがまわされて、ぶるん、と馬そっくりに鳴いた。
「帰りましょう」
一連の会話に、本当に素直に帰ってくれるのか、不安になった。
もう一度、より強い語調で宣言する。そして首を傾げた。
「……お嬢?」
返事がない。
「疲れちゃったかな、車までおぶりますよ」
そうならいい。それなら微笑ましさに和んで、暖かな家に帰れる。
アルフの白い肌を潮風が撫ぜた。うっすら鳥肌がたつ。何故か、嫌な予感がしてたまらない。
そろそろと海へむきなおる。
既に夜のとばりが降りかけていた。沈みかけた太陽が、そのふちにひっかかっている。
アルフは風ばかりでない寒さを感じて、上着を羽織り直す。
海の内側から湧き上がる底なしの黒を、はじける果汁を詰め込んだ新鮮なオレンジをむいて絞って垂らして混ぜて、ごまかそうとしている気がした。
「あれ」
黄昏は魂を捉えるように深く、厚く。魔性の蠱惑が泳いでいる。またたきのあいだ、濃密な色の交わりに吸われてしまった瞳が、改めて砂浜を見渡した。
何度も、何度も。確かめるたび、眉間のしわが深くなる。
やがてアルフはありえないまちがいさがしに気づいてしまう。
「いない」
ネヴが、どこにもいない。
砂浜にぽつぽつと散る足跡だけが、彼女が先ほどまでそこにいたことを物語っていた。
この後、ネヴ――ネヴィー・ゾルズィは約一年にわたって行方不明となる。
探せども見つからぬネヴの行方に関し、不穏なうわさの種が芽吹くのに時間はかからなかった。
科学が広がり、伝承が迷信となり始めた時代でも、奇怪な現象は残っている。
ネヴの事件は様々なオカルト的現象に例えられ、やがて東洋のある現象に落ち着く。
彼女の母親の国、東洋のおとぎ話が、血に寄せられて海をこえた。そう囁かれ、こういわれた。
――あの子は、神隠しにあったのだ、と。
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