第4-3話:遺産

――波音が響き渡る。


 老人が言っていた岬の近くで車を止め、私たちは夜を待った。落ちていく夕日が水平線にまたがり、昼と夜の境界線が美しく浮かび上がる。私たちから居場所を奪った大いなる海。しかし、このときばかりは地球の美しさに目を奪われてしまう。


「綺麗ね……」


 私は車を降りて、ひとりで堤防を歩いた。海風が心地いい、いつもはこの風が大嫌いだが今日はなんだか違った印象を受けた。


 堤防の先へ向かって歩いていく。釣りをしている人は疎らだ。その中で麦わら帽子を深く被った人が目に止まる。遠くて顔は見えないが雰囲気が似ている。


「どう?」


 私はびっくりして後ろを振り返った。いつの間にか兎谷が真後ろに来ていた。私はもう一度麦わら帽子を被った人を見た。


「あの時は暗くてよく覚えてないけど……たぶん」


 私の言葉を皮切りに、兎谷が麦わら帽子の釣り人に近づいて行った。


「爺さん、調子はどうだい?」


 だが釣り人からの返事はなかった。横から見ると白い顎鬚が見える。おそらくこの釣り人もEランクの住人だろう。そんな人は「爺さん」なんて呼ばれて返事をするわけがない。


 兎谷は何度も話しかけるが、釣り人は一向に顔を向けず返事もなかった。


「愛ちゃん」


 兎谷が私を呼んだ。その一言に釣り人はゆっくりと振り向いた。私は釣り人の正面に立つ。すると釣り人はようやく口を動かした。


「なんじゃ……逃げなかったのか」


 釣り人は残念そうに呟いた。たぶん、この人が私に情報をくれた人だ。麦わら帽子を深くかぶって目元を隠し、よれよれの薄青いジーパンと襟元がくたびれた肌着を来た老人。足にはいているサンダルは使い古されていてボロボロだった。


 私はポケットから一枚の手紙を取り出し、老人に手渡した。


「これを……」

「なんじゃこれは」

「私にもよくわかりませんが……」


 私は大神から渡された一枚の手紙を手渡した。老人は乱雑に封筒を破り、中の便箋を取り出す。すると、いきなり老人は手紙を私に見せた。


「読んでみるといい」

「え、あ、はい」


 私は受け取った手紙に目を通した。手紙にはたった一文だけ記されていた。


『鍵を渡せ。これは彼女の意思だ』

「これだけ?」


 私は便箋をひっくり返してみるが他に何も書かれてはいない。鍵とは何のことだろうか。


 私はしばしの間考えてみたが、答えはでない。そもそも答えなんて考える必要すらない。私は老人に向かって手を差し出した。


「……鍵を頂きにまいりました」

「……」


 老人は私の言葉に応じず、針に餌を取り付け海へと投げた。長い空白のあと、ようやく老人が口を開いた。


「受け取ってどうする? おまえさんはこの国に未練がないと思っておったが」


 私はここまで戻ってきた経緯を老人に話した。逃げようとしたが亡命に失敗し、大神の命令でここまで来たことをかいつまんで説明した。


「ふぉふぉふぉ。大神の小僧に見つかったか、それは不運じゃったのう」


 老人は髭を触りながら、豪快に笑い始めた。


「そして再び亡命するために、いまは大神にしたがっとるという訳じゃな」

「……その通りです。その鍵が何のなのか、私にはわかりませんが必要なんです」

「これは、この国を壊すかもしれんのじゃ。それでも欲しいのか?」


 壊す? どういう意味だろうか――。


 しかしこの国がどうなろうと、私にとってはどうでもいい。大神が何を企んでいようと、たとえそれが革命やクーデターであっても、私には関係ない。


「私には関係……」


 私はそこで言葉が詰まってしまった。昨夜大神が話した内戦の事を思い返してしまう。


 もしもこれが引き金となってしまったのならば、関係ないだなんて言えるわけがない。ではこのまま一生不満を持ちながらこの国で生きるのか。そんなこと考えたくもない。いったい大神は私を使ってなにをしようとしているのだろうか。


 私が言葉に詰まったまま固まっていると、ふいに老人が呟いた。


「やめときなされ」

「で、でもっ」


 このまま帰ったら国外へ渡る術がなくなってしまう。それは嫌だ、運よく掴んだ脱出の方法を私は一度離してしまった。もう二度とないかもしれない、私は頭の中で考える。しかし、私は老人の態度からふと気が付いてしまった。


「お爺さん」

「なんじゃ」

「お爺さんは、「渡さない」と言わないんですね。もしもこの国を壊すような代物なら、そんなこと言わずに「知らない」でもよかったのではないですか?」

「ふぉふぉふぉ。頭の回る子じゃわい、父親によく似とる」

「えっ! 父を知ってるんですか?」

「ああ、よく知っとるよ。それにこれはあんたの父親から依頼されたもんじゃて」

「だから、渡さないわけにはいかない……と」

「その通りじゃ」

「……ずるいですよ。そんなこと聞いて、いらないだなんて言えないじゃないですか」


 老人はにっこりと笑いながら、釣り道具を片づけ始める。笑いながらなんだか苦く悲しそうな瞳が、麦わら帽子の隙間から見えた。老人は腰を上げて陸地の方へと歩きはじめる。


「お前さんから欲しいと言われて断る理由がない。付いてきなさい」


 私は兎谷と目配せして、ゆっくりと歩く老人の後ろを追った。


 三十分ほど歩いただろうか、陸地ではない海の集落にたどり着いた。その中にあるひとつのボート、ここが老人の住処なのだろう。老人は何やら忙しく準備をしている。箱の中から物を引っ張り出し、兎谷に手渡した。


「爺。何だこれは?」

「なんじゃお前ら、ヘルメットも知らんのか?」

「いや、知ってるけどさ……」


 兎谷は不安そうな表情をしている。手渡されたのは黄色いヘルメット。ヘルメットの正面にはライトが付いていた。


「さて、自己紹介が遅れたな。わしの名は泉(いずみ) 紅葉(こうよう)、爺で構わんがな。物は別の場所にしまってある。今から取りにいくぞい」


 泉と名乗る老人はリュックを背負い意気揚々と家を出る。私たちも渡されたヘルメットを片手に泉を追った。


 いつのまにか太陽は水平線の向こうへ吸い込まれ、辺りは徐々に暗くなっていった――。

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