第3-1話:玖国
小鳥の鳴き声が耳を通り過ぎていく。
目の前には白い壁紙が張り巡らされた天井、そしてふかふかのベッド。空いている窓からは太陽の光りが舞い込み、シルクのカーテンが風に揺られてひらひらと動いている。
隣の部屋からだろうか、珈琲の香ばしい匂いが漂ってくる。
どれもこれも私の住んでいた海の上では味わえない。快適極まりない空間に、私の眼はまたうとうとして、
「……え?」
私は眼を閉じる寸前に飛び起きた。辺りを見渡すと木のフローリング、ベッドの横には可愛らしい動物たちのぬいぐるみ。それと顔だけでなく、全身も見える大きな鏡がドアの横に置いてある。
「女の子の部屋?」
女の子といっても私じゃない。でも、私の部屋じゃないことだけは確かだ。私は顎に手を当てて考える。
「昨日、何かあったかな……?」
昨日は確か家を出て、電車に乗って……。そう、密航するために船に乗って――。
「うわっ!」
ようやく昨日のことを思い出せた。思い出したと同時にお腹の辺りが酷く痛む。服を捲ってみると、拳大の痣が浮き出ていた。
「そういえばあの後……」
私は兎谷ともう一人の男にさらわれたはずだ。抱きかかえられたことは、確かに憶えている。ならば此処は兎谷の住処なのだろう。
こんなとこにいつまでも居たら、何をされるかわからない。私は勢いよくベッドから起き上がった。
「もしかして拉致ってやつかな? あ、いてて……」
殴られた腹部が痛む、それに全身筋肉痛だ。昨日の全速力のせいか思うように足が出ない。まるで壊れかけのロボットみたいだ、ゆっくり歩いてドアの前に辿り着く。私はそのままドアに耳を当てた。
「これは、包丁の音かしら?」
トン、トン、と包丁とまな板が奏でる美味しそうな音が聞こえる。珈琲の香りに、香ばしいベーコンの香りが混ざった。フライパンから脂が飛び跳ね、ジュウ、とこれまたいい音が胃袋を刺激する。
「お腹減ったな……」
緊張感はどこかに吹っ飛んでしまった。私は音がしないようにゆっくりと扉を開けた。
ドアを開けると、リビングの奥に清潔感溢れるキッチンに一人の少女の姿が見えた。
腰のあたりまで長く伸びた絹糸のような柔らかな金色の髪が、朝の光りを浴びてキラキラと輝いている。
少女がピンク色のエプロンをなびかせてキッチンを動き回る。幼いとも見れる低い身長、踏み台を使って戸棚から食器を取り出そうとしている姿が見えた。
可愛いなぁ、まるでフランス人形みたい──。
私が無用心に見惚れていると、
「あ、おはよう~」
「え? あ……」
少女が元気いっぱいの笑顔を私に向けてくる。私は結構長い間、少女に見惚れていたみたいだ。金色の瞳と深い藍色の瞳をした金髪の少女が小走りで近寄ってくる。
「よかった~目が覚めて。悪いけど、お話は帰ってからね!」
金髪の少女は笑顔のまま、さっとエプロンを脱いで私が寝ていた部屋へと入っていってしまった。
私も少女の後を追う。肩が見えるようなシャツと赤いショートパンツに着替えた少女。先ほどまでのフランス人形のようなお淑やかさではなく、はつらつとして元気な印象を受けた。
少女は鏡の前で軽くファンデーションを塗って、薄いグロスをつけている。出かける前の身支度が終わるまで、私はドアの横に立ったまま待つしかなかった。
「よいっしょ」
「あの~」
「ん? あ~色々訊きたいことあると思うけど、いまからお仕事なのだ! なんかあったら、うさちゃんに訊いてね~、んじゃ!」
少女はそれだけを言い残して、ドタンバタンと豪快な足音を立てながら家を出て行った。
「ちょ、ちょっと……」
私は独りで部屋に取り残される。辺りは化粧道具が散乱していた、まるで台風のような女の子だ。私は散らかった化粧道具を見てなんとなく片付けを始めた。そしてようやく一息つく事ができた。
「ここはどこなんだろう」
私は窓から外を眺めると、住宅がびっしりと敷き詰められているのが見えた。閑静な住宅街の様だ。時折子供の声や自転車の音が聞こえてくる。私はなんだか毒気を抜かれたような気分になった。昨日のような緊張が嘘の様に、もしかしたら単なる夢だったかと思ってしまうほどだ。
私は少し欠伸をし、両腕を天に伸ばして大きく伸びをした。気分は悪くない、とりあえず外に出てみようと私はドアノブを捻った。
「あ……」
「お、早いじゃん」
さっきまでは誰もいなかったリビングに、昨日みた不良男、兎谷が席に座って朝食
を食べていた。
「あ、あ、あんだ政府の人間だったんでしょ! 私を拉致してどうするつもり!?」
私は軽いパニック状態になってしまったかもしれない。昨日のことが鮮明に思い出され、動機は激しく、足は今すぐにでも駆け出せるように力を入れ始める。
しかし、私の様子に対して、兎谷はまるで興味がなさそうに答えた。
「まぁ落ち着けよ、朝食でもどうだい? 鈴の料理は結構いけるぜ?」
リビングにはパンと珈琲の香ばしい匂いが漂っている。六人掛けの大きな机の上にはラップに包まれた食パンとスクランブルエッグ、山盛りに詰まれたサラダとウインナーがところ狭しと置かれていた。
「……すごい量ね」
私は料理を遠めに見ながら兎谷に呟いた。確かに美味しそうではあるが、あまり食べる気にはならなかった。お腹は相応に減ってはいる、でも昨夜のことを思うと食べるのには勇気が必要だった。
「五人分だからな、珈琲でいい?」
珈琲を淹れようとしている兎谷を、私は首を振って応対するわけでもなくただ睨みつけるように眼で追った。
「そんな恐い顔やめろよな~。大丈夫、な~んも入っちゃいねぇよ、ほら」
兎谷は無作為にパンをひとつ掴んで自分の口に放り込んだ。もぐもぐと口を動かしながら私のほうを見てにっこりと笑った。船の上と同じ笑顔に、私は安心感なんて欠片も感じなかった。
「これ、あの金髪の娘が作ったのよね」
「ん、そうだよ。俺が作るように見えるか?」
「見えないわ」
私は彼女が作ったものならなぜか安心できそうな気がした。たくさん積んであるパンをひとつ掴み、手でちぎって食べる。
「鈴がつくったんならいいのかよ」
「貴方よりも、信用できそうだもの」
「はいはい、どうぞごゆっくり……」
兎谷は食器を流しに運び、ピンク色の兎柄の描いてある灰皿を持ってベランダへと出て行った。リビングには私一人取り残されることになった。
私はもう一つパンを取り、口にはこぶ。兎谷が言っていた五人分のパンも少なくなっていた。おそらくまだ食べていない人がいるのだろう、私は珈琲を飲み干して食器を台所へと運んだ。
「あ、いいよ。そこ置いといて」
兎谷がベランダから戻ってきた。台所へと向かうついでに私の食器を奪い取り、自分の食器と一緒に私のも洗い始めた。ジャーと流れる水道の音、カチャカチャと食器が擦れあう音。何気ないいつもどおりの生活音が私の周りで奏で始めた。
「……なんなのよこれ」
私は椅子に座りもせずその場に立ち尽くしてしまった。私がいまおかれている状況に対して、周りがあまりにもいつもどおりのような気がしたからだ。
私って、なんでこんなところにいるんだっけ――。
何の目的で私を拉致したのかはわからない。でも、ここの待遇はあの場所にいるよりもはるかに恵まれていて、居心地は悪くなかった。
私はこれからどうすればいいのだろうか、と考えていたら、
「愛ちゃん、出かけるよ。準備は出来てる?」
「出かけるってどこによ?」
「外だよ。家の中よりも、外にでて話そうぜ」
兎谷は鍵についたキーホルダーをくるくると指で回しながら歩いていく。私も兎谷に訊きたいことは山ほどあった。兎谷の後ろをついていき、玄関においてあった私の靴を履いて外へでた。
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