第2-5話:逃走

「愛ちゃん、どうした?」

「帰るの」


 私は歩き始めると兎谷も私を追ってきた。私は歩みを速める、とにかく家に帰ってシャワーでも浴びて、もう一度なにか策を練りたい気分だ。


「おいおい~待ってよ~」


 後ろから聞こえる兎谷の声に、再度溜息が漏れた。私は兎谷の声を無視して歩き続ける。船にも乗れず、チケット代も無駄、おまけに服もびしょ濡れで、鞄の中も全滅。最悪な一日に心身共に疲れてしまった。


 今日はこの国から出れる素晴らしい日のはずなのに、自分で選んでしまったとはいえ情けなくてしかたがない。私はあてもない次、を妄想することしか出来なかった。コツ、コツ、とコンクリートから私たち二人の足音が真夜中の港に響く。明かりも少ない中、私はようやく橋の前にある道路標識まで戻ってこれた。


「待ってよ~愛ちゃ~ん」


 この声さえなければ、歩く気力も湧いてきそうなのに――。


 いつまでも追いかけられてはたまらない、私は彼を睨みつけてやった。


「なに? まだ何か用があるの?」


 兎谷は私の返答が嬉しかったのか、ほっと落ち着いたような顔をみせた。兎谷は少し小走りで私の傍までよってくる。


「もうすぐ迎えの車が来るからさ、送っていくから待っててよ」

「いい、歩いて帰れる」


 私は、それが最後の言葉だ、といわんばかりにぶっきらぼうに返答した。歩調を速め、薄暗い照明の中、まるで競歩でもしているかのように足を進ませる。兎谷との距離が早く離れるように、思いっきり足を伸ばした。


「無いんだよね」


 兎谷がぽつりと呟く。その声のトーンが先ほどまでとは別人のようで、私は思わず立ち止まり振り返ってしまった。


「……なにが無いのよ?」


 兎谷はなにやら手帳のようなものを取り出し、橋の上の照明を頼りにゆっくりと捲っていく。水に濡れたせいでページが引っ付いて今にも破れそうなノートを兎谷が慎重に捲っていた。すべて見終わったのか、手帳をたたみポケットに突っ込んだ。


「音疾 愛。そんな名前は今日の密航者リストに載っていない……」


 自分でもわかるぐらい私の顔が引きつっていく。同時に体中の血が凍えるように冷え、悪寒が全身を駆け巡っていった。


 私の名前が無い? いや、その前になんでこいつはそんなリストを――?


 私はパニックになりそうな心をぎりぎりで押さえ込んだ。そして合点がいった。兎谷が私を助けたのは偶然じゃない、私を探していたんだ。


「……誰に話しかけてたの?」

「なんのことかな?」

「私は貴方が最初に船に来たところを見てる。貴方は知ってたんでしょ? 私以外、みんなおじさんおばさんってこと」

「へぇ……よく見てんじゃん」


 兎谷が足にぐっと力を入れたのを私は見逃さなかった。すぐさま反転し、勢いよく橋を駆け抜ける。冷えたはずの身体は一気に熱くなり、溢れんばかりの熱を帯びて私の身体を駆け巡った。


 今思えばもっと疑って掛かるべきだったんだ。あの風貌、あの仕草。絶対に近づきたくない、そう思ったはずなのに――。


 私は全速力で橋を駆け抜け、市街地を目指した。恐怖が私の身体を押してくれる、肺は悲鳴を挙げ続けているのに身体はそれでも前を目指して動いてくれる。


 こんな男に……騙されるだなんて――。


 悔しさのあまりに眼が涙で滲んだ。保障なんてどこにもないのに、兎谷の口車に乗せられてしまった自分が情けない。

 でも、嘆いている暇なんてない。後ろから私の足音にまぎれて、もうひとつの足音が聞こえてくる。それを聞いた瞬間、身体に鞭を入れなおし、さらに速度を上げた。


 息が苦しい……でも走らないと――。


 先ほどまで眩しいばかりに夜を照らしていた三日月は、雲に紛れて見えなくなっていた。


 道路に転々としている頼りない街灯だけがぼんやりと辺りを照らしている。うす暗くて何も見えない、追ってきているのか、いないのか。その暗闇がまたしても私の恐怖を増長させ、足を緩めることをさせなかった。


「はぁっ、はぁっ」


 私はどのくらい走っただろう。もう息も限界だ、身体も動きたくても動けないくら疲れていた。私は道の脇に倒れこむように座った。


 走ってきた一本道を、眼を細めて見つめる。どうやら兎谷の姿はないようで、ほっと一安心だ。反対側を見ると私が降りたバス停が見える。


「はぁっ……もうバスなんてないわよね……」


 私は大きく息を吸い込み、棒のような足に力を入れて立ち上がった。おそらくもうバスはないだろうけど、一応都会だからもしかしたら走ってるかもしれない。もう顔を上げる元気もない、私はバス停を目指して疲れた身体を引きずるように歩いた。


「きゃっ」


 私は気が緩んでいたんだろう、何か大きな物に正面から当たって転んでしまった。


「ついてな……」


 私が顔を上げると、そこには二メートル近い黒の上下を身にまとった男性が立っていた。


「す、すいません」


 私は急いで立ち上がり、ぶつかった男性に謝った。頭を下げると同時に、今日幾度とも味わった血の気が引いていくような感覚が襲う。


 なんでこんな時間に? 道はこんなに広いのに、なんでわざわざぶつかったの――?


 私は震える足をぐっと押さえつけ、男の横をすり抜けようとした瞬間、


「あぐっ!?」


 鈍い音、そして腹部に広がる鈍痛。私の身体は糸の切れた操り人形のように地面に倒れてしまった。目の前がチカチカする、徐々に視界も狭くなって息苦しい。私はなんとか立ち上がろうとしたが、まったく力が入らない。どんどん狭くなっていく視界には、男の靴だけしか見えなかった。


 コツ、コツ、と誰かが走っている音がする。その音が私の傍で聞こえるようになると、足音は止まった。


「いや~助かりました。足速いなぁ、この娘……殺してませんよね?」

「交渉は失敗したんだろ? 殴って気絶させただけだ」

「あ~女の子を殴るとか、大丈夫かなぁ」

「仕方ない、仕事だ」

「へ~へ~。よいしょっと」


 聞きなれた声と共に、私の身体は抱きかかえられてしまったようだ。もう眼もよく見えないし、すごく眠い。音だけがずっと聞こえてくる。


規則的な波音は、まるで子守唄のようだった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る