第2-4話:逃走

 扉を開けて元の甲板に戻ってくる。私が何か口を挟む前に、またしても兎谷は走り出した。どこに向かっているのかわからない、でも駆け足で船内を走り回る。


「ね、ねぇ。そっちは出口じゃないわ」

「いーの。ほら、急いで。スクリューが回り始めたら危険だ」


 兎谷に引きずられながら、どこまで来たのだろう。ここはちょうど船の真ん中あたりだろうか、眼に見える明かりはなく、いつのまにか雲の隙間から奇麗な三日月が顔を覗かせている。空にぽつんと浮いている月が、黒い海に映りこむ。

 

 荒げた息を整えている間、そんな幻想的な風景を呆けたように見ていた。 徐々に私の息が整ってきた。兎谷はそれを見越したように、手すりから身を乗り出し、左右を確認している。


「ここらでいいか」

「こ、ここらって……逃げるはずじゃなかったの?」

「そうだよ」


 そういって兎谷はまたしても私の手をとった。また走るのか、正直うんざりしてきた。疲れて抵抗する気も出ない、しかし兎谷の取った行動は違った。


「へ?」


 彼は私の肩と膝を抱えるように持ち上げた。まるでお姫様抱っこのような形、そしてそのまま手すりに向かって飛び跳ね、


 んん―― !?


 私が文句を言う暇もなく、叫び声は彼の手で押さえ込まれ、訪れるのは恐怖と浮遊感。兎谷は私を抱えたまま、軽々と手すりを飛び越えたのだ。

 数瞬の浮遊感のあと、大きな水音と夏でも冷たい水の感触。私は海の中で兎谷の腕の中から放りだされる。月明かりを頼りに、無我夢中で水面へと浮かび上がった。


「ぷはぁ! な、なんで出口から出ないのよ! 馬鹿? あんた馬鹿よね!」

「はっはは」

「なに笑ってるのよ!」

「いや~いいリアクションするなぁ~と思って」

「なんなのよ……まったく」


 兎谷はまた笑い始める。月明かりでも顔は見えないが、おそらく口元をにんまりと細くしながら笑っているのだろう。


「とにかく陸に上がろう。こっちだよ」


 兎谷がすいすいと平泳ぎで陸へと向かっていく。真っ黒い夜の海はなんだか気持ちが悪い。足に何かが触れているような気もする。ここに留まるのも嫌なので、私は仕方なく彼を追った。


「おっと」


 兎谷が手を差し伸べてくる。私はその手をきつく握った。兎谷は私の手をさらに強く握り返し、海の中を泳ぐ。なんだかその手が命綱のように感じてしまうのが、ものすごく気に入らなかった。


 夜の海、いまでも船の中では大きなエンジン音が鼓動しているだろう。誰も私たちを見つけることなんて出来ない。兎谷は第三港には戻らず、ぐるりと回ってどこか違う港へと泳いでいく。私は手の引かれるまま、彼に付いていくしかなかった。


 目の前には小さなオレンジ色の照明が港を照らしている。周りに見えるのは小さなボートや民間のものと思われる漁船がぎっしりと埋め尽くしている。辺りに聞こえるのは波の音だけ。どうやら誰もいないようだ、兎谷は明かりを頼りに港の端へ向かって泳いでいく。


「あった」


 兎谷が見つけたのはフジツボに覆われた小さな階段だった。


「転ばないようにね、あれで切ると痛いよ」

「わかってるわよっ」


 兎谷は階段の左右に取り付けてある手すりをつかみ、掛け声ひとつで階段を上った。濡れたジーパンで手を拭い、またしても私に手を指し伸ばす。


「ほい。その手すりにもびっしりフジツボついてたから気をつけて」

「切ったんでしょ?」

「切ってねーよ、ほら」


 私は兎谷の手を掴んだ。水に濡れた重い身体が一気に陸へと引き上げられた。陸に上がると服の重みと、走り回った疲れで身体が重い。私たちは少し歩いて、幾分奇麗なコンクリートの上にどさりと座った。


「あー疲れた」


 座った途端、兎谷が横に寝そべる。ここがふかふかのベッドの上なら、私もすぐさま横になっただろう。私は疲れからか、大きな溜息が出た。溜息と共に後悔の念が押し寄せる。


 この選択で……よかったのかな──。


 正解なんて、教えてもらっても納得なんてできっこない。意味のない悩みに、また頭を抱え込んでしまう。


やっぱりあの時、こんな話に乗らなければ。チケット代……勿体ないなぁ――。


「あ~あ」


 結局私もコンクリートの上に横たわってしまった。すると、規則的な波音に突如車が走り去る音が聞こえた。マフラーが咆える大きな音、私は急いで振り向くとここからは小さく見える橋の上にテールランプの残像だけが薄く見えた。


「見てたのさ」


 兎谷が振り向きもせず、寝そべったまま呟いた。


「見てた?」

「脱走者が出ないように、ってとこかな」

「えっ」


 兎谷の言葉と同時に濡れた肌を潮風が通り過ぎ、いっそう寒気が増した。


「わざわざ船から飛び降りたのは、あいつらが見張ってたせい。大方、海軍の下っ端だろうな」


 海軍? 軍隊が絡んでいるの――?


 それが本当か嘘かは分からない。ただ偶然車が通りかかっただけかもしれないし、私を信用させるための嘘かもしれない。でも、まるで当たり前のことのように淡々と話す兎谷の言葉に、現実味を感じているのも確かだ。


 これで本当によかったのかな――。


 またしても答えのない妄想に頭を悩ませてしまう。隣では兎谷が水に濡れてしけってしまったのだろう、煙草に火を点けようと頑張っている。ジッポライターを擦る音が、何度も聞こえた。夢中になっている兎谷に、私は疑問を投げかけてみた。


「ねえ、なんで私にだけ教えたの?」


 兎谷は口に咥えた煙草を諦め、そのまま捨てて私に向き直る。


「愛ちゃん。この国で亡命がどれだけ重い犯罪か知ってる?」

「さっきあんたが言ってたじゃない。『処分』されるんでしょ」

「う~ん、まぁ確かにそうなんだけどね。ちなみに愛ちゃんって、いま何歳?」

「はぁ? なんでよ」

「いいから教えてよ」

「……十九よ」

「愛ちゃん、この国じゃ十九歳は処分されないよ、監禁されるだけ」

「監禁……」

「二十歳になるまで監禁されるんだ。で、二十歳になった瞬間死刑になる。男なら強制労働、女なら慰みものって感じか? まぁ生き地獄ってやつだな、八割以上自殺するらしいがな」


 生き地獄か――。


 私もそれなりには覚悟をしてきたつもりだけど、その言葉を訊くだけで背筋がぞくっとした。私は目の前にあるフェンスの隙間から、遠い海を見据えた。私が向かうはずだった、遠い遠い海の先にある新天地。それを頭に思い描きながら、じっと海を見つめる。


 兎谷も私と同じように海を見ていた。辺りには規則正しい波音だけが聞こえてくる。私はもうひとつの疑問を彼に訊いてみた。


「ねえ、なんで私だけ助けたの?」

「ん? さっき言ったとおりだよ」

「だって、私たち他人よ。さっき知り合ったばかりなのに、海に飛び込んでまで助ける? もしかして『人を助けるのに理由なんかない』なんて奇麗事でも言うつもり?」


 私の言葉に兎谷は目を丸くした、そしてまた笑い始めた。


「はっは、そんな崇高な理由なんてない」

「ならどんな理由よ?」


 兎谷は「理由、ね」と小さくぼやきながら顎に手をそえ、なにやら考え始めた。

まるでその理由をいま探しているような様子。本当に理由なんてないのだろうか。


「そうだなぁ、しいて言えば……興味があったかな」

「きょうみぃ?」


 私はまたしても大きな溜息を吐いた、今日何度目だろうか。この男と一緒に居るのがだんだんうんざりしてきた。その一言で、兎谷が私の命を助けてくれた恩人ではなく、只のナンパな男にしか見えなくなってしまったからだ。


 私は立ち上がって、両手で背中とズボンについた砂を落とす。びしょ濡れで気持ちが悪い服を絞り、皴にならないよう引っ張った。そして踵を返し、海に背を向けて歩き始めることにした。

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