第2-3話:逃走

 ほっとした私は胸をなでおろした。私は鞄を肩に担ぎなおし、コンテナがある甲板に行くため扉に手をかけた。


 するとガタンと音がした。なんと兎谷が手で扉を押さえ、私に顔を寄せてくる。


「な、なによ……」

「やめとけ」

「やめとけって……なに言ってるのよ」

「残念だが、この船での亡命は成功しない」


 兎谷がさらに顔を寄せてくる。互いに息が顔に掛かりそうになるぐらいの距離、私は思わず後ろに飛びのいた。


「なにいってるのよ……意味わかんない」

「意味わかんない、って言われてもなぁ」


 兎谷は頭をぽりぽりと掻きながら私に向かって呟いた。


「そのままの意味だけど?」

「なんでっ……そんなことわかるわけ?」


 私は思わず声を荒らげそうになった。でも感情的になるのはあまり好きではないし、騒ぎを起こせばあの男が戻ってくる不安もあった。私は深く息を吸い込み兎谷を睨みつける。


「おーこわ、そんなに睨むなよ。ねぇ愛ちゃん、その情報……どこで買ったの?」

「そんなのどこでだっていいでしょう」

「ふーん。信用できるの? それ」

「それは……」


 私は確かに情報屋から格安でこのチケットを買った。あの時はこの国から出れる、と思って飛びついてしまったけれど。信用できるかと言われれば自信がない。それに、こんな話の何を根拠に信用できるというのだろうか。


 私が自問自答に迷っている最中、兎谷はなにやら得意げに話し始めた。


「正直なのもいいけどさ、ちったあ疑うことも考えたほうがいーんじゃねーの? 情報屋は愛ちゃんにガセネタ売って儲けた。運び屋は愛ちゃんから乗車賃を貰って儲けた。あとは道中捕まって処分されれば、嘘の情報は漏れることなくみんな丸儲けだ。こんなこと、考えたくないかい?」


 これが、嘘――?


 私は拳を強く握り、ぐっと奥歯を噛み締めた。

これが嘘だなんて信じたくない。しかし、一度浮かんだ疑問は、すぐには消えてくれなかった。


 まるで甘い蜜に、蜂のように飛びついてしまった自分が憎らしい。強く握りすぎたせいで、爪が手のひらに食い込み、今にも肌を突き破りそうだ。このままこの船に乗り続けるか否か……私は兎谷を睨みつける。


 もしも兎谷が言っていることが事実ならば、最悪の事態なんて簡単に予想できる。さっき兎谷が言っていた『処分』の一声が、重く圧し掛かってくる。


 しかし、兎谷の言葉も信用できたものじゃないわ――。


 どちらを選択するか、判断材料が少なすぎてどちらも選べない。私の選択を待っているのだろうか、兎谷は先ほどから一言も話さない。いっそサイコロでも振って決めれれば……いや、間違ったら死ぬかもしれないのにそう簡単に決められない。


 私が頭の中で格闘している最中、またしても大きな音をたてて錆びた扉が開いた。扉の中から顔を覗かせたのは、私が入り口でチケットを渡した男だ。


「早くしろ、もう出航だ」

「いや~すいません。こいつ船酔いみたいで~」

「ちっ、早く入れよ」


 兎谷が体よく男を追っ払った。そこまでして兎谷は何がしたいのだろう……私にはわからない。男の足音が徐々に遠ざかっていく。私は声のトーンを落として呟いた。


「なんで、私だけに教えるの?」

「秘密」


 なぜか兎谷は笑顔だった。私はその笑顔を問い詰めたい気持ちでいっぱいだったが、どうやらそんな時間はないらしい。船のエンジンが掛かったのだろうか、先ほどまではただ浮いているだけのような感覚から、力強い推力が加わったような感覚、出航だ。


 私は錆びた扉に手を掛ける。兎谷は何も言わずに道を譲ってくれた。薄暗い廊下を足音がたたないように静かに歩き、扉の窓からコンテナを見た。


 薄暗い闇の中、一つの照明が扉の開いたコンテナと、それに乗り込む乗船客を照らしている。私は彼らを眺めながら、まるで心臓を掴まれているような感覚に襲われた。


 まるで出荷待ちの羊達を柵の外から見ているような、私も一歩間違えれば柵の中へ入ってしまう──。


 頼るあてもない疑心暗鬼。一度危険と思ってしまえば、もう足を動かすことなんて出来ない。見知らぬ土地で、『ここから先は地雷源だよ』そう言われてしまったならば、誰が躊躇なく歩くことが出来るだろうか。兎谷に騙されているのかもしれない。だが私の心はまるで枯葉のように風の吹くままに流されていく。


 死んでしまうかもしれない――。


 分かってはいたのだけれど、私は『自分だけは大丈夫』なんて思っていたのかもしれない。そう考えてしまったらこの扉を気軽に開けることなんて出来ない。


 私は、震える声で兎谷に訊いた。


「どうすれば、どうすればいいの……?」


 兎谷はまるで、『まってました』と言わんばかりににっこりと笑った。そして私に顔を寄せて呟く。


「ここから逃げればいいのさ」


 兎谷は大きな音を立てて扉を開けた。そして空いている左手で、私を動くなと制した。扉が閉められる、一人がこんなに心細いなんて久しぶりのことだった。


 兎谷は扉の横に背をあずけていた中年男性に声を掛けている。私は扉に耳をあてると、途切れ途切れに会話が聞こえてきた。


「わ、私かね?」

「そそっ。おっちゃん、なんか連れが船酔いで体調わるくてさ。俺たちちょっと長いトイレになっちゃうかもしれないんだ。悪いけど、俺ともう一人が船長に呼ばれたらトイレとでも言っておいてよ」

「な、なんで私が。あそこに居る男に言っておけばいいじゃないか」

「まぁまぁ」


 ガサガサと何かが擦れる音がする。


「……! わ、わかった。言っておく」

「話がわかるおじさんでよかったよ」


 中年男性は勢いよく首を立てに振っている。兎谷が男性に背を向け、廊下に戻ってきた。私も扉から耳を離して、兎谷を迎え入れる。


「どうかしたの?」

「ん? ちょっと言い訳をね」

「言い訳ってなによ」

「いいから。いくよ愛ちゃん、結構ガチで時間がない」

「え?」


 兎谷は私の腕をつかんで勢いよく走り始めた。さっきまでカコン、カコンと響いていた足音も、今ではエンジンの音でかき消されていく。私はなんとか転ばないように足並みを合わせるだけで精一杯だった。

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