第2-2話:逃走
これで逃げられる――。
私の心は安堵と、ほんの少しの恐怖。しかし、それ以上の期待が胸の中で膨らんでいく。
「さよなら……」
わざと声に出してみた。
これで本当に最後、この人殺し国家から、めでたく脱出だ──。
錆びた階段を上ると、目の前には大きなコンテナが山積みにされてあった。そのコンテナに腰かけている人、船から外を眺めている人、目につくのは十人程度。みんな思い思いの場所で何かを待っているようだ。
少し小太りな男性、どこかに旅行でも行くような派手なスカートの婦人。周りの大人たちは中高年ばかりで、私と同じぐらいの人はいないみたいだ。
「はーい、集まってくださーい」
ふいに奥のほうから男性の野太い声が聞こえてきた。周りの人たちもその声のしたほうに顔を向けている。
「零時には扉を閉めますので、それまでに入ってください」
辺りがざわつき始めた。周りの人たちが驚くのも無理はない、私も眼を疑った。男性が言った扉とは、客室へ続く扉ではなく、分厚い鉄製のコンテナの扉だったからだ。
もしかして……これに入れってことなの──?
奥は暗くて見えないけれど、おそらく明かりもなければトイレもない。荷物を運ぶためだけに作られた物。周りに積んであるのと同じならば、幅は十メートル、高さは二メートルほどだろうか。それでも十人が入るには狭すぎるように感じた。
おそらく見つからないための配慮なのだろうけど──。
これから数週間、トイレもなければシャワーもない。ただ狭く、暗くて汚いだけのコンテナ内の暮らしを想像するだけで眩暈(めまい)がしてくる。でも仕方がない。私はぶんぶんと大きく頭を振って、嫌な妄想をかき消した。
仕方がない……仕方がないんだ。だって見つかれば――。
そのときカコン、カコンという階段を上る規則正しい音が聞こえた。私は後ろを振りかえる。どうやらまた一人追加になるみたいだ。前に居た大人たちはしぶしぶとコンテナの中に入っていく。私はどうも一緒に入る気にはなれない。零時まではあと十分もないけれど、少しでも外に居たい気分だ。
私は踵を返して、遠く街の光が見える甲板まで引き返した。すると、丁度いま上ってきたであろう男と眼があった。
肩まで伸びた茶色い髪、歳は私と同じくらいだろうか、身長は私よりも頭一つ半ほど高い。緑色のジーンズに、薄茶色のシャツがはだけて、真っ赤なタトゥーが見えている。
甲板に取り付けてあるライトが彼の眼に入ったのだろうか、煙草を咥えながら私を睨みつけているように眼を細めていた。私は思わず階段から眼を背け、海のほうへと眼を向けた。
恐い……恐すぎる――。
私は横目でちらりと二度見したが、彼は先ほどと変わらぬ形相で、携帯を見ている。耳についている三つのピアスが、ライトの光に反射していた。
「ちょっと、そこのおねえちゃん」
「ひゃ、ひゃいっ!」
急に呼ばれてびっくりした、心臓が止まりそうだ。
「なんでしょうか……」
私を呼んだ男は、携帯を片手になにやら唸っている。しかし何かが確認できたのか、私を睨みつけていた鋭い眼は、すぐにほがらかに細く、丸くなっていった。
「お姉ちゃん? お嬢ちゃん? まあいいや、お姉ちゃんも脱走組み?」
「あ、はい……。というか、此処にいるならみんなそうだと思いますけど」
「え、あ~やっぱり? いや~まわりがおじさんおばさんばかりでさ~。みんな相手してくれないの、みーんな無視しちゃってさ~」
私は呆けたように口をあけっぱなしにしてしまっていた。先ほどまでの強面は消え、惚けたような顔で話かけてくる。へらへらと他愛もない世間話をしようとする男に、私はだんだんイラついてきた。
こんなところでナンパでもする気かしら──。
私はもういちど彼を値踏みするように見た。不良のような格好、人を威圧するようなタトゥー。これじゃ誰も話したがらない、大人たちが無視するのも当然だ。私も同じ様にそっぽを向いた。
「ねぇねぇ」
それでも彼は話かけてくる。私は彼のへらへらとした態度がとても気に食わない。
「すいません、一人にしてくれますか?」
私の言葉が思いもよらなかったのか、彼が少しだけ後ずさりした。私はその隙に後ろにあった錆びた扉を開け、薄暗い廊下を早足で歩く。廊下を抜けると、反対側の甲板に出ることができた。
辺り一面が真っ黒い海が見える。少し離れたところには灯台のランプがぴかぴかと光っている。私は手すりに肘をついたところで、大きな溜息が出た。船に取り付けてある時計が眼にはいる。時計の針は二十三時五十五分を指していた。
あと五分しかない……か。そろそろ戻ろうかな──。
たまに強く吹く冷たい潮風が肌にあたって気持ちがいい。大きく深呼吸をして、この国の空気を吸ってみる。潮風とともに、なにか黒く濁ったものまで吸い込んだ気がした。
ガチャリ、と扉のドアノブが回される。出てきたのはさっきの不良だった。
「わるい、わるい。俺は兎谷ってんだ。お姉さんの名前ぐらい教えてよ」
兎谷(うさぎだに)と名乗る彼は、私の横に立ってにこやかな笑顔を向けている。
そんな顔しても、そんな格好じゃ誰も相手にしてくれないのだろう。私は頬を手で支えながら、少しだけ考えてみた。
こんな男と何週間も同じコンテナで過ごすのは……嫌だなぁ――。
でも、いまのうちに知り合っておいたほうがいいのかも――。
誰とも話さずに狭いコンテナ内でじっとしているのも気が重いわ――。
私はそのままの姿勢で、ぶっきらぼうに答えた。
「音疾(おとはや)よ」
私が苗字をいうと、兎谷はにっこりと笑った。
「名前は?」
「……愛」
「愛ちゃんね、いい名前じゃん」
私は兎谷に聞こえるように、大きな溜息を吐いた。なぜなら兎谷のしていることは、ただのナンパにしか見えなかったからだ。
たいていの男は女の名前を聞いたら「いい名前」っていうだろう。まさにテンプレートといわんばかりの行動にイライラしてくる。
何か言い返してやる──と思っていたときだった、兎谷が閉めた扉が音を立てて開かれる。出てきたのは私が入り口でチケットを渡した男だ。
「もうすぐ出航だ、早く中に入れ」
「あ、はい」
男はそれだけを言って、力任せに扉を閉めた。ガチャンと大きな音と、男が走りさる足音際にカンカンとかん高い足音が船内に響いた。
私は急いで時間を確認した、いつのまにか零時を回っている。
ようやくこの国から脱出できる――。
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