第2-1話:逃走
赤く光っていた太陽が海の中に沈み、私の眼に映るのは紫色の水面だけ。寄せては返る波音に、時折魚の跳ねる音が混ざって聞こえてくる。
私の住んでいる場所は、この国ではそう珍しくもない海の上だ。目を海から背けて後ろを振り返ってみると、ところ狭しとボートのような家が海上を覆いつくしている。
電灯の光が漏れているボート、夕食の美味しそうな焼き魚の匂いが漂うボート。
私も含めて、ここにいる人たちは、みんな土地を追い出された人たちばかりだ。
顔には生気がなく、ぼーっとした表情で釣竿を傾けている。海の上に家があるからって、バカンスに使われるような優雅な場所ではない。
そんなところは常夏って言葉が似合うところだけだ。ここには厳しい冬があり、夏だからって過ごしやすいわけでもない。かといって治安が悪いスラム街でもない。住人からは常に無気力がにじみ出ていて、まるでゴミ捨て場のような雰囲気が感じられる場所だ。
私は陽が落ちるのを確認して時計を見た。左手に巻いた小さな腕時計は十八時を指している。
「もういいかな」
私は自分のボートに入って身支度を整える。長く伸びた黒髪を結び、薄く化粧をした。
「スカートなんて、いまはいらないわね」
洋服籠の中から動きやすそうな服を選んでいく。黒のタンクトップと、青系のデニムと黒いスニーカー。まるで男の子のような服装を好んで着ていく。
身支度が終わったころには、辺りは真っ暗になっていた。まだ夏も序盤なのに、陽が落ちてもむしむしと暑苦しい。徐々に汗ばんでくる額を拭い、私は最低限の衣服と運よく買えた船のチケットを鞄につめこんで、少し重たい鞄を肩にかつぐ。
行ってきますの挨拶なんて言う気にはなれないわね。だって……もうここには帰る気なんてないのだから──。
電車がゆるゆると減速し、大きな溜息のような音を立てて駅のホームにとまった。私のいた場所からすでに四時間が経っていた。私は鞄からメモを取り出して駅名を確認する。
「次ね……」
停車した駅からは続々とスーツ姿の人たちが乗り込み、いつのまにか満員になった車内は暑くて息苦しい。前にいる男性のせいでクーラーの風もあたらない。座り続けていたせいで腰も痛い。
「まだかなぁ……」
三分ぐらい経つと電車が減速しはじめ、私は人ごみを掻き分けながらなんとかホームに降りた。もう夜の十時を過ぎるというのに、駅の構内は人で溢れかえっていた。
改札を抜けて、港行きのバスを探す。ちょうどいい具合にバスが来たところだ。バスに乗り込んでも人だらけ。都内からは少し外れているのに、どこも人で敷き詰められているような印象を受ける。私は手すりに捕まりながら、流れていく街の風景に眼をやった。
きらきらと光る街頭、渋滞で一向に進まない車のテールランプがピカピカと光っている。賑やかで活気がある街、私の居たところとは大違いだった。
私はバスの中にいる乗客たちを見回す。誰ひとり一言も話すことなく、車内は運転手がバス停名を告げる決まりきった定形文だけが流れている。私の横に立っているスーツ姿の男性は……どうやら立ったまま寝ているようだ。椅子に座っている初老の男性も、同じく目をしばしばさせながら眠そうにしている。みんな疲れきっているのか、携帯をさわる人すらいなかった。
バスが止まり、また動き出す。それを繰り返しているうちに、車内は私ひとりになっていた。運転手が駅名を告げる。
「次は終点……」
私は窓ガラスの横に備え付けられているボタンを押した。
「はぁ~ついた~」
バス停に降りて私は一息ついた。降りる際に運転手にじろじろ見られたが、仕方がない。こんな時間に女一人で、しかも港前の駅に降りる。
何をしにいくんだろう? なんて疑われても仕方がない。
私はバス停に置いてある木のベンチに腰を掛け、持ってきた地図に眼を通す。
微かに潮の香りが辺りに漂っているが、港前と言っても歩いて三十分ぐらいかかりそうだ。
鞄を肩にかついで一本道を歩き出す。さっきまでの喧騒とは違い、虫の鳴き声が夜道に響いている。空は厚い雲で覆われて、月明かりさえ見えない。二車線の道路の脇に、転々と置いてある街灯の明かりだけが光っていた。
私は薄暗い足元を街灯を頼りに港を目指した。コツコツと、私の足音だけが聞こえてくる。もう三十分は歩いただろうか、汗でシャツが身体に引っ付いて気持ちが悪い。のども乾くが、近くには自動販売機すらなかった。
ようやく目の前に大きな白い橋が見えた。潮の香りもいっそう強くなった気がする。アーチ上の橋の上から下をのぞき込んでみる。暗くて見えないが、どうやらすでに海の上にいるようだ。
橋を渡り終えると、頭上にある道路標識に眼をやった。道路標識には第一、第二、第三と名うってある。
私は鞄の中から再度メモを見た。メモには第三港、零時出航と書かれてある。いまの時刻は二十三時三十分、時間は問題なさそうだ。
私は標識にしたがって一車線の道路に足を向けた。五分ほど歩くと、目の前に大きな港が見えてきた。しかし街頭はあるものの、ほとんど灯っていない。辺りには大人二人分ほどの大きなコンテナが、道の端に所狭しと積まれている。まるで迷路のような場所を、地図を頼りに歩き続けた。
目的地はもうすぐのはず──。
私は最後の街灯を横目に見つつ、先へ進んだ。ここから先は明かりもない。まるで暗い海の底にいるような……そんな感覚すら憶える。
コンテナ群を抜けると、私の目の前に大きな船が姿を表わした。大きな貨物船、その大きさに圧倒されてしまいそうだ。
「これ……でいいのよね」
私は携帯を取り出し、ディスプレイの明かりで再度メモを確認する。しかし、いくら見ようと船の名前や、船を識別できるようなものは見当たらない。時間はすでに残り十五分ほどしかない。
なによこれ──。
もう時間もないのに、船がどれか分からない。焦りからか、体中から汗が噴出してきた。
おもむろに髪をあげ、頭をぐしゃぐしゃと掻き毟ってしまう。すると、規則的な波の音に混じって、コツコツと足音が聞こえてきた。血の気が凍るようだ。湧き出た汗は一瞬のうちに冷たくなっていった。
私は急いで携帯を鞄の中に隠す。明かりがなくなると何も見えなくなるが、もう遅い。私の目の前に立ちふさがるように、ずいぶんと背の高い影が、私を睨みつけていた。
「チケットを……」
「へ?」
「チケットを……」
「あ、はいっ」
私は急いで鞄の底に入れてあるチケットを取り出し、姿勢のいい男に渡した。男はチケットと私を見比べ、確認が取れたのか親指で停泊している船を指した。
「急げ、あと十分ほどで出航だ」
「は、はい」
私は追い出されるように小走りで船へと向かった。船からは一人がやっと上れるくらいの小さな金属製の階段が伸びている。私は手すりにつかまり、段差をひとつ上った。
潮風で錆びているのだろうか、手すりからは錆と思われる小さな凹凸の感触がするカコン、カコンという足音が、やけに響いて聞こえた。
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